第42話「建武三年の夏(壱)」

 足利あしかが軍、潰走――。

 京の都にいた尊氏たかうじ直義ただよしは、それを報告ではなく己の目で知った。


 都から目と鼻の先にある比叡山ひえいざん延暦寺えんりゃくじ

 それを囲んでいた大軍が、大挙して下山してきたのである。

 洛中は鳴動し、人々は恐怖にその身を震えさせた。


師直もろなお、状況はどうなっている」

「急ぎ確認させておりますが、山門が攻勢に出たとしか考えられませぬ」

「それは分かっている。我らの味方はどうなのだ、全軍敗走したのか、まだ戦っている者が残っているのか」

「今、それを確認させているところです――!」


 直義が焦りに脂汗を垂らし、師直が珍しくも声を荒げているとき。

 足利軍総大将・足利尊氏は、一人東寺から延暦寺を物憂げに見ていた。


「帝よ」


 狂騒の中、尊氏は一人きりで語りかけた。

 応える声などない。そんな場合ではないと理解しつつ、言葉は止まらない。


「あくまで私を許さぬおつもりですか。そこまで追い詰められてもなお私を罰するおつもりですか」


 その悲哀は、直義にも師直にも理解しがたいものだろう。

 反旗を翻し、対抗相手である持明院統と結びついておきながら、尊氏は未だ後醍醐ごだいごとの和解を望んでいる。

 反旗を翻したのも、軍を差し向けたのもひとえに和解したいがためである。言葉を尽くしても理解してもらえないから、武をもってことを収めるしかない。物事の解決手段として武を用いることは、武家に生まれた者にとっては奇異なことではなかった。


「足利殿、ここは一時退却を考えた方が良いかもしれませぬ」


 尊氏の本陣に駆けこんできた土岐とき頼遠よりとおが、緊迫した面持ちで進言してきた。

 頼遠だけではない。京の周辺に軍勢を控えさせていた佐々木ささき氏の元からも、道誉どうよが本陣に駆け付けている。


「土岐・佐々木の軍勢は残っておりますが、規模の小さな武士団は恐慌状態に陥り、逃げ始めております。今延暦寺やそちらに味方する軍勢が京まで押し寄せてくれば、我らでも抑えされるかどうか分かりませぬ」


 頼遠も平静を保とうとしていたが、その表情からは焦りが滲み出ていた。

 なにしろこの攻勢は寝耳に水だったのだ。ここ数日は小競り合いが繰り返されるだけで、戦の勢いというのはほぼ消えていた。

 こんなタイミングで延暦寺が賭けのような攻勢を仕掛けてくるなど、誰も予想していなかった。


判官はんがん殿、どう思われる」

「逃げること自体は異論ありませぬが、今すぐというわけにもいきますまい。いやはや、困った困った」


 道誉はどこかおどけたように扇子で自らの肩を叩いてみせた。

 そんな道誉に、頼遠はやや苛立った様子で険しい眼差しを向ける。


「佐々木殿、今すぐにでも延暦寺側が押し寄せてくるかもしれないのですぞ」

「だから困ったと言っておるのだ、頼遠殿。逃げると言っても、我らだけで逃げるわけにはいかぬであろう」


 道誉は視線を東寺の奥へと向ける。それで頼遠も察しがついたらしい。

 奥には、光厳こうごん院とその近臣たちが残っている。

 尊氏たち足利軍は、光厳院を推し立てることで賊軍になることを免れている身である。院を置いて自分たちだけで逃げるわけにはいかない。


「院も一緒にお連れすれば良い」

「都人は腰が重い。加えて院は、一度京から落ち延びて地獄を見た御方だ。説得するのは骨が折れるかもしれぬぞ」


 光厳院は、かつて後醍醐と鎌倉幕府の対立が表面化した際、鎌倉幕府の後押しで即位した。

 しかし後醍醐方は京を襲撃するほどの勢いを見せ、京にいた鎌倉幕府方と共に落ち延びざるを得なくなった。

 落ち延びた先では、次々と野伏に襲われる憂き目にあった。更に軍勢が行く手を阻み、院を警護していた鎌倉幕府方は集団で自決してしまった。光厳院は、あまりに多くの死を直視するはめになったのである。


 少し付け加えるなら、院が落ち延びざるを得なくなった原因である「京を襲撃した後醍醐方」とは足利軍のことであり、逃亡する院たちの行く手を阻んだのは他ならぬ佐々木道誉であった。

 いわば、院に地獄を見せた男二人が院の行く末を案じているのである。奇妙といえば奇妙な巡り合わせだった。


「説得できなければ、置いて逃げるしかありますまい」


 尊氏たちの会話に割り込む形で師直が進言してきた。


「五郎。状況は分かったのか」

吉良きら殿、仁木にっきからの使者が先程駆け込んでまいりました。早朝に敵の奇襲を受け、軍勢は潰走。恐慌状態に陥る者が後を絶たず、立て直しには時間を要するとのことです」

「吉良・仁木だけか?」


 尊氏の問いかけに、師直は表情をかすかに曇らせる。


「はい。西坂本の豊前守ぶぜんのかみからの連絡は、まだありませぬ」

「――五郎。殿!」


 そのとき、本陣に駆けこんできた者がいた。

 西坂本に加わっていた将の一人、師秋もろあきである。


 彼は息も絶え絶えといった様子だったが、絞り出すように言葉を続けた。


「に、西坂本の軍は――奇襲を受け、麓まで撤退。しかし、我が弟、四郎左衛門尉師冬もろふゆが、少しずつ、軍を立て直しております」

「四郎左衛門尉が? 豊前守はどうしたのだ」


 訝しげに師直が問いかける。西坂本の大将は、豊前守師久もろひさである。

 師秋は、怒りと悲しみがない交ぜになった眼差しを師直に向けた。


「豊前守師久は、皆を撤退させるため最前線に留まった! 四郎左衛門尉師冬を名代にしてな!」

「――」


 しばし、皆が言葉を発しなかった。

 その場にいた諸将の視線が師直に注がれる。師久は彼の弟であり、猶子でもあった。

 師直の表情からは、何も読み取れない。普段から感情を表に出さない男だったが――今は特に何も見えてこなかった。


「太郎左衛門尉」


 師直は、いつもと変わらぬ様子で続けた。


「西坂本の軍勢は立て直しにどれほどかかる」

「……は?」

「どれほどかかりそうかと聞いている」


 弟が死地に残ったという話を無視する師直に、師秋は信じられないものを見るかのような視線を向けた。

 だが、今はそれを非難できるような状況ではない。


「……豊前守直属の軍は、豊前守と共に残った者を除いて四郎左がまとめている。山名やまなも既に立て直しは済みつつあるとの連絡があった。他はまだ連絡が来ていない」

「西坂本の軍勢が押し寄せてきても、ある程度は戦えるということだな」

「おそらくな」


 そこまで確認すると、師直は尊氏に向き直った。


「殿」

「分かっている。今の話を聞いて決めた。わしは残るぞ」


 尊氏の宣言に、口を挟む者はいなかった。

 皆、その言葉を予想していたのかもしれない。


「西坂本が支えられるなら、北は問題ない。我らは東からの敵に集中すれば良い。判官殿、土岐殿。御助勢お願いいたします」


 尊氏の頼みに、道誉と頼遠は深々と頭を下げる。

 周囲ではまだ騒ぎが続いている。しかし、本陣の中だけは異界の如く静けさを取り戻していた。




 延暦寺側の追撃はなかったが、数日経った現在も、依然として予断を許さぬ状況は続いている。


 離散しかけた足利軍は、尊氏が京に残ると表明したこともあってか徐々に戻ってきた。

 だが、比叡山の包囲再開はできなかった。近づくと新田にった勢が打って出てくるようになったのである。

 そんな新田勢に対し、足利勢は信じられないくらいあっさりと撃退され続けた。


「仏罰だ。延暦寺を攻めようなどと大それたことをするから罰が当たったんだ」


 敗走の記憶と仏への畏れが、足利軍の士気を著しく下げている。

 こんな状態では、とても包囲を再開することなどできない。


 師久の消息も、未だ分からぬままだった。


「くそ。殿がお命じになってさえくれれば、いつでも延暦寺に乗り込んでやるというのに」


 苛立たしげに師泰もろやすが吐き捨てる。彼は石清水八幡宮寺の守りを任されている。そのため、自由に動くことができない。

 ここ数日、師泰はいつもこんな調子だった。ただ待っているだけという今の状態が耐えがたいのだろう。


「今は無理だろう。皆が延暦寺の法力を恐れている」

「ならどうする、弥五郎。皆の恐れが払拭されるまで待つのか。帝方に好きなようにさせておくのか。興福寺や奥州の北畠きたばたけが動いたらどうするのだ」

「俺に言われても、そこまでは分からぬ。俺は張良ちょうりょうでもなければ諸葛しょかつりょうでもない」


 重茂しげもちも師泰も、どうすればいいか分からなくなっていた。

 包囲の継続は難しい。力攻めも無理だろう。かと言って、手をこまねいていては後醍醐方の援軍が現れるかもしれない。それ以前にこちらの兵粮が尽きる可能性もある。


 率直に言って、足利軍は危機に瀕していた。


 そんなとき、東寺からの使者が石清水八幡宮寺にやって来た。

 機嫌の悪そうな師泰を前に、使者は強張った顔つきで本陣からの命令を告げる。

 その内容に、師泰と重茂は思わず腰を浮かせた。


「この石清水八幡宮寺を捨てろ、だと――?」


 疑わしげな師泰の問いかけに、使者は黙って頷いた。

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