第41話「雲母坂にて(結)」
その日、
さほど長く眠っていたわけではない。ただ、頭は妙にすっきりしていた。
陣幕から出て、警護にあたっている者たちに声をかける。
皆、この戦乱が始まった頃から寝食を共にしてきた者たちである。
身分の違いはあったが、どこか気の通じるところがあった。
「これは師久殿、早いですな」
声をかけてきたのは
ずっと一緒に、この戦乱を駆け抜けてきた間柄である。
「師助殿は?」
「私はちょうど見張りを終えたところです。これから少し休ませていただこうと思っております」
「そうですか――」
どこか気のない様子の師久に、師助は違和感を覚えた。
一緒に戦ってきた馴染みの相手だからこそ分かる、小さな違和感である。
「なにか、懸念されておいでか?」
「そう見えますか。いえ、自分でも正直なところ、よく分からないのですが――なにか、ざわつくのです」
戦において、こういう直感は軽視できない。
研ぎ澄まされた武人の感覚が、なにか些細な変化を捉えて生じた可能性もあるからだ。
「他の諸将を呼んできましょうか」
「休もうとされていたところ申し訳ありませんが、お願いできますか」
「なにかあっては休むも何もないですからな。お気になさらず」
呵々と笑いながら、師助は颯爽と駆け出していった。
多々良浜の戦いでもそうだったが、師助の身体は羽で出来ているのかと思えてしまう。それくらい軽やかな動きだった。
師助の姿が見えなくなると、周囲は静寂に包まれた。
師久につけられた足利の郎党たちや縁の武士は何人もいる。
しかし早朝ということもあってか、皆静かなものだった。揃ってやや眠そうにしている。
朝焼けが師久の顔を照らし出す。
その眩しさに手で顔を隠したとき――遠くで鐘の鳴る音が聞こえた。
「……なんだ?」
こんな早朝から鐘が鳴ったことなど、この一ヵ月弱の間、一度もなかった。
戦の最中、さながら何かの合図のように鳴ったのは覚えているが――。
「――」
瞬時に、師久の頭の中で鐘の正体が定まった。
彼は切羽詰まった表情を浮かべ、近くにいた者たちに声を張り上げる。
「皆、弓を取れ! 寝ている者も叩き起こすんだ!」
早朝の静寂を打ち破るかのように、師久は吠え立てる。
「戦だ。今のは――戦の合図だ!」
朝日の光が叡山に色濃い陰を生み出す。
その陰に乗じて、後醍醐方の軍勢は一斉に動き出した。
狙いは、比叡山の周囲を囲んでいる足利全軍。
師久たちだけではない。
「攻め立てよ、ここが我らの一ノ谷と思え!」
従う軍勢を鼓舞すべく、
足利軍の包囲に耐え続けた約一ヵ月弱。これ以上今の状況が続けば戦意が挫かれるという寸前のタイミング。
この攻撃命令は、消えかけた灯に新たな薪をくべる格好になった。
偵察に出ていた
しかし、彼らは実戦を知らない者が多い。そんな中、元弘の乱で後醍醐と共に戦った
決行するか否かは、新田兄弟に託された。
義貞は、勝負に出たのである。
弟である
そして、自身は西に展開する師久軍を打ち破りに出た。
後醍醐たちは「援軍を呼ぶため使者を出す。その隙を作れば良い」と言った。
しかし、義貞はそれだけで済ませるつもりは毛頭なかった。
湊川での借りがある。もっと遡れば、直接後醍醐と戦いたくなかった足利のせいでダシに使われる形で朝敵にされたこともある。
「いかに足利が大族であろうと、新田には新田の面目がある。ここまで舐められて、借りを返さずにいられるかよ――!」
弓で次々と敵を射殺しながら、義貞は誰にともなく怨嗟の言葉を口にする。
それを聞きつけた新田の郎党たちが「応!」と吼えた。
溜まりに溜まった怒りが大きなうねりを生み出している。
まるで鎌倉幕府を――
擾乱というほかない有様だった。
不意を衝かれ、前線にいた武士団は前後不覚に陥って潰走してきた。
恐怖・不安といったものは容易に伝染する。恐慌状態に陥る者は瞬く間に増えていき、軍全体が乱れに乱れた。
足利軍の大半は足利直属ではない。尊氏の呼びかけで集まってきた、恩賞目当ての者たちである。
各軍の将――師久や吉良満義に絶対服従というわけではなかった。同じ軍の他の武士団との連帯感も、さほど強固ではない。
故に、こういう危機的状況で「全軍のために踏みとどまる」という発想は出てこない。
まして、長陣で緊張感が緩んでいた頃合いである。
「なんだよ、こんなの聞いてないぞ!」
「やってられるか、逃げろ、逃げろ!」
そんなことを言いながら、大将である師久の横を駆けていく者たちが後を絶たない。
師久としては腹立たしい。切って捨てたいところだが、そうしたところで軍を立て直せるという見込みはなかった。むしろ、師久に対する反発が強まって一気に軍が瓦解する可能性が高い。
(だが、まずい)
ここで一気に全軍が敗走するのは、非常によろしくない。
なぜなら、ここから尊氏や
全軍が潰走すれば京は大混乱に陥り、その勢いによって尊氏や光厳院たちまで危険にさらすことになる。
(全軍が崩れることだけは、なんとしても避けなければ――!)
混沌とした戦場の中にあって、師久は自身に従う彼直属の仲間たちを見た。
さすがに師久直属ということもあって、大将を置いて逃げるような者はいない。
逃げてくる者たちをどうにか抑えながら、状況を立て直そうと躍起になっている。
「弥四郎!」
「弥四郎殿!」
師秋は顔がすっかり青ざめている。この状況が絶望的なものだと、肌身で感じているようだった。
「二人とも無事だったか!」
「ど、どうするんだ弥四郎、これは、俺たちもさっさと逃げた方が――」
「逃げてどうするんだ、兄上! ここで我らまで退いては、殿や
師冬は肝が据わっているようだった。
彼は兄・師秋と比べ、常に落ち着いているところがあった。粘り強く、しぶとい。常に己を見失わない強さがある。
「ここは私が残ってどうにか敵勢を抑えます。弥四郎殿は麓まで退いて全軍の立て直しを」
師冬の進言に、師久はしばし迷った。
進言を聞き入れ、自身は逃げるか。
あるいは、別の道を採るか。
迷いは、すぐに消えた。
弟のことを心配そうに見やる師秋の顔が、目に留まったからである。
「全軍の立て直しは、四郎左がやってくれ。急で申し訳ないが、今この場で四郎左を私の名代とする」
予想外の指示に、師冬だけでなく師秋まで目を見開いた。
「どういうことだ、弥四郎。貴様、まさかこの場に残るつもりではあるまいな」
「……」
叡山を見やる。
潰走してくる者たちの向こう側に、叡山側の先手の姿があった。もう残された時間は少ない。
「誰かが
「我が身を危険にさらす大将がいるか、この馬鹿!」
「もう一つ、打算もあるんですよ」
このひと月で
尊氏や直義は、家人代表格である高一族を介して他の足利一族を統制しようと考えている。
おそらく、師久の大将任命はそういう意図があったのだろう。
そして、そういう宗家の動きに対する足利一族の反発は強い。
表立って宗家に逆らうようなことはしないが、高一族の身分の低さを理由に、のらりくらりと要求を躱そうとする。
「高一族は、今のままでは駄目なんです。このままだと殿の期待に応えられぬまま、諸氏に疎まれ潰れてしまう。今より一段重く見られるようにならなければいけない」
「そ、それとこれと何の関係が――」
師久は闘気を昂らせながら、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「おそらくこの状況、他の軍も軒並み潰走していることでしょう。そんな中、高一族の大将だけが踏みとどまって奮戦したとあれば、今後他の一族の方々も我らを軽々しく扱うことはできなくなる」
武士は、武を重んじる。
戦において名をあげた者を重んじる。
戦で見事な振る舞いをした者を――重んじる。
例えそれが無謀で愚かな側面を持っていたとしても、誇らしいと思わせれば良いのである。
命を惜しむな、名こそ惜しめ。
「そう思わせるには、大将である私が残らねば意味が薄くなります。だから私はここに残ります」
「私は、お前のその判断は愚かだと思う」
「それで良いのです。武士というものは、本来そんなものでしょう」
叡山側の放った矢が、師久たちの近くに突き刺さった。
もう時間がない。師久は師秋と師冬の肩を力強く引き寄せた。
「太郎左殿、殿のこと、兄たちのこと、くれぐれもお願いします。四郎左、軍の立て直しはそなたの双肩にかかっている。諦めずに対処してほしい」
「……弥四郎殿も、決してお命を諦められぬよう」
「ああ、当然だ」
それだけ言うと、師久は突き飛ばすように二人を後方へと追いやった。
師秋はまだ何か言いたそうだったが、すぐそこに迫りつつある敵の姿を認め、歯を食いしばりながら踵を返した。
「……
起死回生の突撃をしてくる叡山の軍勢に、僅かな手勢で相対する。
叡山の異変は、京を通して八幡山にも伝わってきた。
ただ、正確な情報は入ってこない。
突如として叡山を囲んでいた軍勢が、京やその近辺になだれ込んできた、ということしか分からなかった。
「……くそ、殿からの指示はまだか。弥四郎はどうなったんだ」
「分からん。だが、独断で出るようなことはするなよ。兄上は身内のことになると、おかしな判断をすることがある」
「分かっている。分かっているわ。だからこそ指示を待っている!」
苛立つ
実弟の危機ということなら、師泰は多少の無茶をしそうなところがあった。
「興福寺への対処も済んだわけではない。今ここで我らが動いて、南を衝かれれば、南北から挟み撃ちされる恐れもある」
「そんなこと、お前に言われるまでもない」
「そうか。それならいい。余計なことを言って悪かったな、兄上」
重茂の言葉にもとげがある。
彼も、情報がなかなか入ってこないことに苛立っていた。
師久は彼にとっても実弟である。すぐ下の弟で、幼少期からよく一緒に過ごした間柄だ。心配にならないはずがない。
(弥四郎――)
騒擾の中、最後に見た弟の姿を思い浮かべる。
しかし、不思議と顔が定まらない。モヤがかかったかのように、脳裏の師久は表情を見せてくれなかった。
どれくらい戦ったのか、もはや師久には分からなくなっていた。
矢は尽き、数多の傷ができ、身体はとうに動かない。
直属の武士団も壊滅した。古くからの付き合いだった仲間たちは、雲母坂に骸を晒すことになった。
名のある将と見られたのか、師久は執拗に狙われ、生け捕りにされた。
そうして、新田義貞と相対した。
「貴様、名は」
義貞は師久のことを覚えていなかった。
何度か会ったことはある。しかし、そのときの師久は師直たちの陰にいた。
今は、一人の将として向き合っている。
「
その名に、義貞の周囲がざわついた。
包囲軍の大将の一人だ、と誰かが口にした。どうやら師久の名は叡山側にも広く知られているらしい。
勝敗は兵家の常。敗北そのものは恥じ入ることではない。むしろ、自分の名がそれほど知られていることが、師久は嬉しかった。
「足利の執事の弟か。……大将の一人ということなら、俺の一存で処遇を決めるわけにもいかん」
「ならば、どうされる」
義貞は険しい顔で師久の顔をまじまじと見つめ、沈思しているようだった。
彼がどういう立場かは分からないが、先程の言葉からすると、叡山全軍の総大将というわけではないのだろう。
やがて答えを見つけたのか、義貞は周囲に言い聞かせるようゆっくりと言葉を発した。
「貴様は叡山を攻めた恐るべき仏敵だ。そして一軍を率いる大将でもある。……ならば、南都を焼いた罪で頼朝公から南都に引き渡された
かつて栄華を極めた平家一門のトップ・
「ほう、三位中将殿と同じ扱いか」
「不服か」
「いや、むしろこの身に有り余る栄誉だ」
高一族の影法師として消えるだけだった自分が、今に至るまで語られる人物と同等の扱いを受ける。
これが栄誉でなければなんだというのか。
三位中将の例に倣うということの意味を、師久は十分に理解していた。
「三位中将殿に倣うということなら、妻には会わせてもらえるのだろうか」
「……そこまでは知らぬ。もし奥方が来たなら、それもできるかもしれぬが」
「そうか。……そうだな」
会えなくて、良かったのかもしれない。
妻は口は悪いが、情の深い人だ。おそらく会ってしまえば、彼女の心に癒すことのできない傷跡を残すことになる。
義貞は去り、師久は叡山の衆徒の元に引き渡されることになった。
三位中将の例に倣うというのは――そういうことだ。
戦況はどうなったのか。
尊氏や直義、光厳院は無事なのか。
分からないことは多々あるが、師久の心は晴れやかだった。
恐怖はある。だが、やりきったという充足感もあった。
(父上、兄上)
高弥四郎師久は、満足そうに天を見上げた。
日は高く昇り、鳥たちが空に舞っている。
(弥四郎はよくやったと、そう思ってくれますか)
鳥の鳴き声が、青天の空に響き渡る。
建武三年六月二十日。
足利軍の叡山包囲網は瓦解し、戦は新たな局面に入ろうとしていた――。
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