第40話「雲母坂にて(伍)」
延暦寺はよく粘っている。
あれからも
良いところまではいくのだが――追い詰められたとき、延暦寺の者たちは底力を見せつけてくる。
結局、その日も軍議で良い案は出なかった。
最初の頃は積極的に発言していた桃井直常や山名時氏も、最近は「しばらく様子を見るしかない」というスタンスになっていた。
既に、少なくない被害が出ている。戦に勝ったところで、自分たちの郎党に多大な被害が出たのでは元も子もない。
皆が消極的になるのも、無理はなかった。
「しかし、これでは手柄の一つも立てられません」
「辛抱するのも戦ですよ、
不服そうな
矢は吸い込まれるように的に命中する。戦に倦み始めている者たちも出て来ているが、師久は普段と変わらぬ様子だった。
否、むしろ普段以上にやる気を出しているとも言える。それだけ今回の戦は困難なものなのだ。
「皆、どこかで恐れているのかもしれません。帝に弓引くことに。そして国家鎮護の要たる延暦寺に弓引くことに」
弓矢の手入れをしながら、
武家が世に出て相応の時が経ち、禅律が隆盛しつつある時勢ではあるが、延暦寺や興福寺といった古来の大寺が軽視されるようになったわけではない。むしろ、彼らは自らの権益が脅かされつつある現状に危機感を抱き、鋭い眼差しを周囲に向け、昔よりも存在感を増してきているという見方もある。
あと一歩というところで押しきれないのは、延暦寺の死力によるものだけでなく、こちら側の怯みもあるのかもしれない。
それは師久もよく感じているところだった。
「おお、師久殿。我が陣にお越しでしたか」
京の師直の元に出向いていた
側には、意外な人物の顔もある。
「――父上」
「長陣で気が緩んではいないかと思っていたが、そのようなことはなさそうだな」
武芸の鍛錬をしていた師久を見て、高
そんな父を前に、師久は表情を岩のように硬くさせた。
「そうですか。弥四郎殿が、一軍の大将に」
「ふむ、奥方は夫君の栄達があまり望ましくはないのか?」
怪訝そうな妙吉に、「いえ」と椿は頭を振る。
そんな義妹の様子を見て、隣にいた
「嬉しいのは嬉しいけど、それ以上に心配が勝ってるのよ」
「心配? 大将ということであれば、むしろ前線で直接戦う機会は減るであろう。討死の危険は少なくなって安心ではないか」
「そういうことじゃないの。これまで弥四郎殿は、そういう扱いを受けてこなかったから」
「上手くそういった大任をこなせるのか。夫が、そのことに思い悩んでいないかが不安なのです」
あの人は打たれ弱いところがありますから、と容赦ない一言を添える。
ただ、その言葉に悪意はない。純粋に夫を心配する想いだけがある。
「弥四郎殿は言っていました。自分は父に期待されていない。だからこそこうやってのびのびとやっていられる。父の期待を背負いながら仕事をこなす兄上たちには、到底敵わないと。ただ――いつかそんな兄たちのようになりたいとも、言っていました」
「嫡流になれぬ者が、皆抱く夢だな」
「その夢を、弥四郎殿は叶えようとしてるってことでしょ。凄いことだわ」
妙吉の言葉を捉えつつ、葵は椿を励ますようにその手を取った。
「大丈夫よ。弥四郎殿は誠実な人じゃない。期待されれば、きっとその期待に応えるわ。って、そんなの椿が一番分かってるでしょうけど」
「……はい。きっとそうだと、思います」
しかし、椿が心配しているのはその先だった。
期待に応えようとするあまり、師久はきっと無理をしてしまう。彼には、そういうところがあった。
師久たちは、島津・大友の陣で野営食を取ることになった。
師重が土産として幾許かの野菜を持ってきたので、煮込んで食べることにした。
長陣で食事が簡素になってきていたので、これは十分なご馳走である。
「しかし、わざわざ父上が来られるとは思いませんでした」
「半ば隠居の身だ。息子たちの仕事振りを眺めるくらいしかやることがない」
師久にとって、師重は身近な父ではなかった。
育ての親は、高一族に仕える家人である。師重は時折顔を見せに来るだけの人だった。
それでも、師重こそが父なのだということは理解していた。理解していたからこそ、父の遠さにやりきれないものを感じた。
「そなたはしっかりと育った。軍全体の雰囲気はいささか気になるところだが――将がしっかりしているなら、大きく乱れるようなことはあるまい」
「ありがたきお言葉です」
この父子の間に流れる微妙な空気を察しているのか、相伴に預かっている立花宗匡・大友氏泰兄弟、島津生駒丸などはずっと黙っている。
「弥四郎」
「はい」
「そなた、兄弟のことはどう思っておる」
「は?」
「四郎。五郎。そして弥五郎のことよ」
父からの突然の問いかけに、師久は戸惑った。
しかし、師重は座興で聞いているわけではなさそうだった。その表情は真剣そのものである。
「そなたが物心つく前、高一族は分裂の危機にあった」
「はじめて聞きました」
「表立った騒動があったわけではないからな。我が父が死に、残された我が兄とわしとで
「それが原因で、争いが?」
「争いというほどのものではない。ただ、わしと兄の意見が食い違ったり、雑務で入れ違いが起きるようになった。同じ権限を持つ者が複数いると、万事進みが悪くなる。それが高一族のことなら自業自得だが、足利氏の家政に影響が出た。それは、まずい」
高一族の存在が足利氏の足を引っ張ることになる。
それは足利氏のためにならないし、もしかすると足利氏から高一族が切り捨てられる原因に繋がるかもしれない。
そういう漠然とした不安が、当時の高一族の中には広まっていったという。
「幸い――これを幸いと言うべきではないのかもしれんが、兄は程なく病死した。自然とわしが高一族の嫡流ということになった。そこからは万事遺漏なく、迅速に家政を取り仕切ることができるようになったのだ」
「……」
「だから、わしはそなたら兄弟の扱いに明確な差をつけるようにした。嫡男を五郎と定め、それを軸にそなたら兄弟を扱った。すべては高一族の、そして足利氏のためにしたことだ」
それは、武家としては当然の振る舞いだ。
武家にとって第一は『家』の存続である。
家中をまとめ、他家との関係を構築し、世に自分たちの価値を認めさせねばならない。
嫡流というのは、それを担う存在だ。嫡流なき武家は、形を保つことができない。
「父上の判断に、間違いはないかと思います」
「わしは、恨まれても良いのだ。良い父であろうとするのは、あのとき既に諦めた」
あのときとはいつのことなのか。
どこか彼方に想いを寄せている様子の父に、それを尋ねることはできなかった。
きっと、軽々しく触れて良いことではない。
「だが、一族をまとめるためには嫡流とそれを支える兄弟の合力が必要だ。嫡流であっても、一人では何もできぬ。一人では、一人でできることしかできぬ」
もしかすると、父は不安になったのかもしれない。
これまでの師久の扱いと現状の落差。それに伴う兄弟の関係性。
あくまで高一族と足利氏のためではあるが――父は、存外自分たち兄弟のことをよく見ていたのかもしれない。
「その儀につきましては、心配無用です」
私にとっては、皆支えがいのある良き兄たちでございます。
そう告げる師久には、老いた父の安堵の表情が垣間見えた。
敵の囲みは厚い。
何度目かの偵察をしながら、
しかし、叡山を囲む足利の軍勢は多い。こうして偵察を繰り返しては抜け出す隙を探っているが、なかなか好機は訪れなかった。
「なかなか奴らも粘りますね」
「奴らも、こちらに対して同じことを思っているであろうよ」
苛立ちを見せる
彼と共に北国や信濃を回って援軍を求めるのが、恵清の役目である。
それを成し遂げて足利を駆逐したとき、
かつてのような勢威を得ようとは思っていない。ただ、武家として天下に堂々と名乗りを上げることができる。
「だが、今日は少し様子が違うな」
「というと?」
「足利勢の動きが、まばらになってきている」
周囲の警戒にあたっている者、休んでいる者、戦支度をしている者、怠けている者。
様々な様子の者たちの姿が見えるが、どうもこれまでと違って全体の意思というものが分かり難くなっている。
「……もしかすると、戦が長引いていることで士気が落ちてきているのかもしれんな」
「そういうものですか。叡山の方は、むしろ皆の士気が高まってきていますが」
「こちらは追い詰められている側だからな。気の緩むような余裕がない。このまま更に時間が経てば、一気に士気が落ちる可能性はあるが……それまでは今のような状態が続くだろう。だが、向こうは攻めている側だ。余裕がある。余裕があるだけに、気が緩みやすいのだ」
かつて
長引く攻城戦において士気を保つというのは、極めて難しいのだろう。
「……もしかすると」
足利方の兵たちの様子を窺いながら、恵清は続けた。
「――仕掛け時かもしれんな」
夜食を終えると、師重は何人かの郎党を連れて京に戻っていった。
終始緊張感のある食事風景だったが、師久はどこか今までとは違う充足感を得ていた。
高一族の一員として、自分が今どういう立ち位置にいるのか。
そしてこれから何を成し遂げていけば良いのか。
そういうものが、少しずつ掴めてきたような気がした。
「では、私も今夜は戻ることにします。長々とお邪魔しました」
「いえ、また息が詰まったらおいでください」
無邪気に笑いかけてくる生駒丸の肩を叩きながら、師久は頷いた。
そんな二人を見て、思い出したかのように立花宗匡が「そういえば」と口を開く。
「言い出す機会を逃してました。
「兄上から? 南方から戻られたのですか」
「はい。残念ながら
「して、兄上はなんと?」
尋ねられた立花宗匡は、生駒丸を見ていたずらっぽく笑ってみせた。
「京に戻られたとき、
「おお、それは誠ですか!」
期待に目を輝かせながら、生駒丸が身を乗り出す。
年の近い大友氏泰に先を越されてから、生駒丸は自分自身も早く元服したいという願いを持っていた。
叡山攻めが済めば、という話は出ていたが、いよいよそれが間近に迫ってきたことになる。
「それで、私の諱はなんと?」
「そこまでは聞けませんでした。ただ生駒丸殿は喜ぶだろう、と」
「な、なんでしょう。もったいつけずに教えてくれても良いのに」
そわそわする生駒丸に対し、師久と氏泰は得心したような表情を浮かべている。
二人には、おおよその見当がついていた。
「生駒丸殿。まずは目の前の戦に集中しましょう」
「氏泰殿の言う通りです。気もそぞろになって討死するようなことがないよう、お気を付けください」
「わ、分かっております!」
そんな微笑ましいやり取りを眺めながら、宗匡は少し言い難そうに続けた。
「あと、それから……少し気をつけろとも」
「気をつける?」
「ええ。叡山への援軍についてはいろいろと手を打っている。しかし、援軍が来なければ叡山の中にいる者たちが痺れを切らして思い切った行動に出てくるかもしれない。だからゆめゆめ油断するな、と」
重茂らしい、細やかな気遣いだった。
無論、師久としてもそういう可能性は常に考えている。油断しているつもりは毛頭なかった。
「師久殿はともかく、軍全体の雰囲気は少し気になるところですな」
宗匡の言う通り、軍全体で見ると士気は衰えてきているところがある。
「明日、軍議の場で何か対策がないか話してみます」
「そうした方が良いでしょうな」
島津・大友の陣からの帰路、ふと師久は一輪だけで咲いている花を見つけた。
今は
武家の妻らしく凛とした振る舞いをする人だが、花や歌を愛する一面もある。
時折、無性に会いたくなることがあった。無論、戦の最中に抱くべき望みではない。
「遅くとも、霜月までには、よも過ぎじ、比叡の山を、灯す篝火」
冬までには戦を終わらせ、一度会いたい。
そう願いながら、一人静かに歌を詠む。
建武三年、六月十九日の夜のことだった。
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