第39話「雲母坂にて(肆)」

 三河国みかわのくに滝山寺たきさんじ

 比叡山延暦寺えんりゃくじと同じ天台宗ながら、古くから足利あしかが氏との縁が強いこの寺の付近には、足利所縁の者たちが乱から身を隠すように潜んでいる。


 寺の近くにいくつかある民家で衣類を洗っていた椿つばきは、ふと見慣れぬ坊主がこちらを窺っていることに気づいた。

 滝山寺の僧ではない。日頃から世話になっているので、そちらはほとんど覚えてしまった。

 見たところ、男はどうにも胡散臭そうな雰囲気をまとっている。年の頃は自分の父より僅かに下というくらいだろうか。


 警戒しながら武器になりそうなものを探していると、坊主は「あ、いや、待たれよ」と手を振った。

 相手もいささか及び腰である。胡散臭いが、直接危害を加えてきそうな気配はない。


「どちらさまでしょうか」

「拙僧は妙吉みょうきつと申す。大和国やまとのくに興福寺こうふくじに逗留していたが、これからは禅の時代よと思い定め、鎌倉へ参ろうとしているところだ」

「では鎌倉へ早々に行かれれば良いですね。お気をつけて」

「おそろしく辛辣な対応だな」


 ショックを受けたような顔つきだったが、妙吉は口を止めなかった。


「もちろん鎌倉へは向かうつもりなのだが、さて興福寺で会った御方から言伝を頼まれていてな。鎌倉の寺への紹介状を書いてもらった手前、断るわけにもいかず、さて誰が伝えるべき相手かと右往左往しておったところで」

「誰から誰への言伝でしょう」

「おっと、最初からそれを言えば良かったな。つい口ばかりが回るのが拙僧の悪いところで」

「誰から、誰への、言伝ですか?」


 やや圧のこもった椿の言葉に、妙吉は笑みを引きつらせながら「弥五郎殿じゃ」と依頼主の名を告げた。


「弥五郎――高弥五郎殿ですか?」

「然り。相手は奥方のあおい殿」

「へえ、弥五郎殿からの使いだったの」


 意外そうな声の主は、妙吉の背後にいた。

 突如気配を露わにしたその女性に、妙吉は「うおぉっ!?」と慌てて飛び退く。

 なにせ、彼女――葵は手に薙刀を持っていたのだ。驚愕するのも無理はない。


「な、なんだ! いきなり拙僧を斬り殺すつもりか!?」

「ええ。不審者は斬らなきゃダメよね」

「拙僧はただの旅の僧である。多少は不審に思われても仕方がないが、いきなり斬りかかられるほどではない!」

「分かった分かった。私の名前出してくるなら、半分くらいは信じても良いわ」

「半分はまだ疑っておるのか……」


 警戒心を露わにする妙吉に対し、葵はからからと笑いながら構えを解いた。


「まあそういうことなら家に上がっていきなさいよ。ね、椿」

「義姉上がそう仰るなら」


 妙吉が頼まれた言伝というのは、おそらく近況報告の類だろう。

 ならば、その中には椿の夫――弥四郎師久もろひさに関する話も含まれているかもしれない。




 師久の使者として出向いた師秋もろあきは、意外にも丁重に迎え入れられた。

 あまり待たされず、すぐに吉良きら殿――吉良満義みつよしの元へと通される。

 そこに居並ぶのは、足利一門の重鎮である吉良・畠山はたけやま石塔いしどう渋川しぶかわ等の面々である。


「そうか、西坂本の軍勢は約定通り攻めかかっていたのか」


 師秋の話を一通り聞いた満義は、悩ましげな表情のまま立ち上がった。


「西坂本の方では苛立っておるのではないか。我らが呼応して動いていれば、敗走せずに済んだのだと」

「は、それは……」

「太郎左衛門尉。こちらへ来てくれ」


 満義に促され、師秋は陣幕から前線へと向かった。

 東坂本の最前線――吉良軍と新田にった軍が真正面から向き合っている場である。

 そこに広がっていたのは、広大な堀と数多の旗、そして獲物を待ち受ける大勢の武者の姿だった。

 新田軍だけではない。関東をはじめとする各地の武門の家紋が揃い踏みである。


「あちらだけではない」


 満義は、更に比叡山と対になっている琵琶湖方面にも視線を転じた。

 そちらにも、数多の船に乗った軍勢が見える。あれも味方ではなく後醍醐ごだいご方らしい。

 比叡山に攻めかかろうとすれば、琵琶湖の軍勢に後ろを衝かれる形になる。


 この状況で比叡山を攻めるのは相当の難事である。師秋が一目見て分かるくらい、分厚い守備だった。


「昨日、そちらが攻めかかったおかげで多少は減った。多少はな。ただ、そこまで大きな変化ではなかった。故に我らは、大戦ではなく小競り合いをしたのだと考えていた。形ばかり要請に従ったのだろうとな」

「そんなことはありませぬ。西坂本の軍勢は、一時本堂にも迫る勢いでした」

「ああ、それは疑ってはおらぬ。それだけ比叡山の備えが厚かったということなのだろう」

「しかし、そうなるとこれは困ったことになりますな……」


 師秋の役割は、搦め手の仁木にっき細川ほそかわ軍、そして大手の吉良軍に攻撃の要請をすることである。

 しかし、こんなものを見せられては「攻めかかってくれ」とは言い難い。


「師久殿は、攻めかかって欲しいのだろう」


 横から口を挟んできたのは、畠山氏の武将・畠山国清くにきよだった。

 前面に広がる敵の軍勢を睥睨しながら、怯む様子も見せず、顎髭を撫でながら「ううむ」と唸る。


「まあ、犠牲は出るだろうが攻められないというほどではない。やりようはあると思うが、どうだい吉良の大将」

「仁木・細川の方は既に回ったのか?」


 師秋は首肯した。

 既に仁木・細川には師久からの要請を伝えている。そちらからの了解は既に取り付けていた。

 それを聞くと、満義は鷹揚に頷いてみせた。


「こちらの要請によって西坂本が動いたのであれば、我らが西坂本の要請で動かぬのは道理に合わぬ。仁木・細川が動くというのであれば尚更だ。吉良足利氏の武名を損なう振る舞いをするわけにはいかん」

「よろしいので?」

「我ら吉良足利は、鎌倉に反旗を翻すときから宗家と一つになって戦ってきた。その我らの言葉だ、信用せよ」


 喜色を浮かべる師秋に、満義は薄く笑って応えた。


「師久には、これで貸し借りはなしだと伝えよ。我らの方も、相応に死んでもらうことになるのだからな」




 満義の言葉は早々に実現した。

 吉良軍、仁木・細川軍は約定に従って比叡山に攻めかかったが、新田を筆頭とする後醍醐方の軍勢に打ち負かされたのである。

 吉良満義や畠山国清、仁木頼章よりあき・細川定禅じょうぜんたちに過失があったわけではない。それだけ敵の備えが強固だった。


 各軍はいずれも継戦こそ可能なものの、少なくない被害を受けた。

 無暗に攻めかかれるほどの余裕はない。


「妙策が浮かぶまでは、持久戦にせざるを得ない」


 それが、師久含む各軍の大将の出した結論だった。

 湊川の戦いの勝利による勢いは、ここで完全に挫かれたと言って良い。


 大和国から重茂しげもちが戻ったのは、そういう膠着状態の最中である。


「――委細承知した。興福寺についてはそなたの進言通りにしよう」


 重茂から楠木くすのき党・興福寺についての報告を受けた師直もろなおは、早速手配を進めるよう配下の者に言いつけた。


「楠木党はどうされますか」

「当面は放っておけば良い。もし我らに与するというならそれも良し。明確に矢を向けてくるようなら討つのみだ」


 師直には、師泰ほど正成に対する感傷のようなものはないらしい。

 ここのところ二人の間の空気が悪いのは、その辺りに原因があるのかもしれない。


 正成と縁のある遠子とおこのことは黙っていたが、それは正解だったかもしれない。

 師直ならば、遠子の存在を知れば必ず利用しようとするだろう。利用できないとなれば危険視して排除するかもしれない。

 重茂としては、あの女人は放置しておくのが良いと考えていた。過度に干渉せず、ここぞというときだけ利用できないか考える。それくらいの付き合い方でなければ、おそらく遠子はこちらに牙を剥くだろう。それに、排除するには惜しい人物だった。


「戦況は膠着していると聞きましたが、俺はどうすれば?」

「士気の衰えが深刻だ」


 重茂の問いに直接答えず、師直は物憂げな表情を見せた。

 実際、重茂が出立する前と比べると京の様子は暗いものとなっていた。


 足利方が京近辺を固めたので、光厳院の仮御所は石清水いわしみず八幡宮寺はちまんぐうじから東寺とうじに移っていた。

 しかし、形勢が有利になったと楽観視するような者は見受けられない。

 むしろ、いつになったら戦が終わるのか――そんな不安を皆が抱えているようだった。


「皆の気分を一新するため、院は元号を延元えんげんから建武けんむに復されたが、今のところ目に見えるような結果は出ていない」

「目の前にある不安のタネを払拭しないことには、どうにもならぬでしょう」

「存外、粘る。こうなる前に決着をつけたかったが」


 師直は、比叡山がある方角を眺めて溜息をついた。


「……すまんな、つまらぬ話に付き合わせた。そなたは八幡宮寺にいる兄上の副将として、南方への警戒にあたれ」


 そのとき、重茂はようやく今のが師直の愚痴だったことに気づいた。

 この兄が特に意味のない会話に興じたことなど、重茂の記憶の中にはほとんどなかった。

 それだけ疲労しているのかもしれない。前線に出ているわけではないが、各地の情勢を把握しつつ烏合の衆である軍勢をまとめなければならないのだ。相当な気苦労があるのだろう。


「おや、重茂殿。戻っておいででしたか」


 師直の元を退出するとき、立花たちばな宗匡むねただと鉢合わせになった。

 彼はこれから師直の元に向かうところらしい。


「相当な被害が出たと聞いていたが、無事でなによりだ、宗匡殿」

「弥四郎殿の采配のおかげですな。我ら大友おおとも勢はそこまで前面にいなかった。手柄が立てられぬと思っていたのですが、なにが幸いとなるか分からないものです」


 宗匡によると、大友・島津しまづはさほど大きな被害を受けなかったらしい。

 最初の攻勢以外で大きな戦はなく、何度か小競り合いは起きたものの、双方の犠牲は少ないという。


「弥四郎の様子はどうだろうか、宗匡殿」

「かなり苦労されているようですよ。延暦寺の守りと、御味方とのやり取りと」

「やはり、吉良殿とのやり取りは大変か」


 宗匡は笑っただけで言葉は発しなかった。

 外様が口出しするようなことではないと考えているのかもしれない。


「どうですか、一度こっちに顔を出してみるというのは。弥四郎殿も元気が出るかもしれないですよ」

「そうしたいところだが、四郎兄上と南方の警戒にあたるよう言われていてな。勝手に持ち場を離れるわけにもいかん」

「それは残念です」


 宗匡は肩を落とした。どうやら、彼は師久のことを気にかけてくれているらしい。

 苦労は多いが、師久は良き仲間に恵まれつつある。そのことに、重茂は僅かな安堵を感じていた。


「宗匡殿はこのあと西坂本まで戻られるのか」

「そのつもりですが」

「では、いくつか伝言を頼みたいのだが」


 直接会えないとしても、励ましになりそうな言葉くらいは送っておいた方が良いだろう。

 先程の師直の様子を思い出して、重茂はそう考え直したのである。

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