第38話「雲母坂にて(参)」

 道三どうさんの隊を打ち破った師久もろひさの軍勢は、延暦寺の本堂を目指して突き進んだ。

 初戦に勝利した勢いもあってか士気は盛んで、このまま延暦寺を陥落させるのではないかとすら思われた。

 しかし、勢いだけで落とせるほど延暦寺は浅い存在ではない。


「ここは、我らの地だ」


 正規戦力と言える僧兵たちは道三隊含め、師久たちによって打ち破られた。

 しかし、師久たちの進軍経路にある施設に残っていた学僧・老僧たちが武器を持って立ち上がったのである。


「老いぼれや学僧なんぞになにができるか! 死にたくなければ去れ!」


 先頭を突き進む桃井もものい直常ただつね隊は、当初そうした者たちをいとも容易く蹴散らした。

 しかし、屍が増える度にどこからともなく数多の僧が集まってくる。

 彼ら一人一人は弱い。武士からすれば赤子同然のような存在だった。

 しかし、退かない。


「去れとは言うが、我らここよりほかに行ける土地などない!」


 大薙刀で身体を切り裂かれた老僧の断末魔の言葉が、直常たちの動きを鈍らせた。

 この地しかない。そう思い定めて決死の力を振るう。その感覚は、直常もよく知っているものだった。


 一所懸命。


 いかに屍を増やそうと、それ以上に集まってくる者たちを前に、師久軍の侵攻が止まる。

 そこに、窮地を知って新田にった義貞よしさだ率いる東国の武士団が駆け付けた。


「湊川では後れを取ったが、それにしても舐められたものだ」


 自ら陣頭に立って桃井隊を突き崩した義貞は、周囲の師久軍に向かって高らかに吼えた。


「ここにいるのは湊川で負けた新田左中将義貞にあらず。鎌倉の北条を討ち滅ぼした新田小太郎義貞と心得よ! 足利尊氏ならいざ知らず、桃井や家人ごときが相手になると思うな!」


 この言葉に、士気が高まりつつあった延暦寺の人々は高揚した。

 一方、戦意が萎えつつあった師久軍は完全に勢いを失うことになった。


 そこからは、一方的である。

 義貞率いる東国武士団は、桃井勢を蹴散らすと、そのまま彼らを追い立てた。

 狭隘な地で急に大勢が引き返すとなれば、混乱が起きるのは必定である。

 退却する桃井勢は後続の味方と衝突し、一気に軍は崩れ去った。


 谷間に落下して命を落とす者。

 味方の馬に蹴り殺される者。

 パニックから同士討ちを起こす者。


「弥四郎、急いで退け! 大将であるおぬしまで巻き込まれてはいよいよまずいことになる!」


 前線からの報告を受けて歯噛みする師久に、戻ってきた師秋もろあきが言い聞かせる。

 同様に戻ってきていた師冬もろふゆ重成しげなり宗継むねつぐもその意見に同調した。

 こうなってしまっては、犠牲を最小限に抑えつつ撤退するしかない。


「おのれ、新田――!」


 退くしかないと理解していても、師久は己の激情を抑えかねた。

 一面の大将を命じられて最初の戦である。師久にとって、この戦は他の戦以上に大きな意味を持っていた。

 彼は、高一族の嫡流たる師直の名代としてこの場にいる。この戦の結果は、高一族全体の立場にも影響を与えかねない。


 師久は短慮な性格ではない。だが、一族の期待に応えようという思いは人一倍強かった。

 だからこそ、この結果に我慢がならない。


 そんな師久の肩を掴んで押さえつけたのは師秋だった。


「役割を見失うな弥四郎! 我らの役目は吉良きら殿の要請に応じることだ! それは果たした! 勝利ではないが、失敗でもない!」


 二人はしばし睨み合った。

 行かせろと訴える師久と、それはならぬと抑える師秋。


 折れたのは、師久だった。


「……撤退します!」


 師久は踵を返し撤退を告げる。

 師秋が言うように失敗ではないにしても――これは明らかな敗北だった。




 道三が死んだらしい。不思議な話ではない。

 ここにいる者は皆、追い詰められている。

 自分も含め、いつ死んだとしてもおかしくはない。

 この戦いは、最初からそういうものだった。


「大講堂の鐘を鳴らしたのは、恵清えしょう殿だったのですか?」


 尊澄そんちょうからの使いでやって来た香坂こうさか源助げんすけは、戦況を話し終えるとそんなことを聞いてきた。

 確かに、恵清は大講堂の鐘を打ち鳴らした。火急の折はそうする手筈になっていると、尊澄そんちょうが言っていたのだ。


「さあな。夢中だったので覚えておらぬ」

「そうですか。宮が、もし鳴らしたのであれば是非とも礼を言いたいと仰っておられたのですが」

「俺はまともに戦っていないのだ。礼を言われるような筋合いではないだろう」

「鐘が鳴らなければ敵軍の進行に気づくのが遅れました。あと一歩で、この地は落とされていたかもしれないのです」

「結果として落ちなかった。それで良いではないか。持ち上げるなら実際に敵と干戈を交えた新田軍にしておけ」


 実際、駆け付けた新田軍の戦振りは大したものだった。

 坂東武者としての誇りを、湊川の敗戦でひどく傷つけられた。

 この戦は、彼らにとってその雪辱を晴らす絶好の機会なのである。終始、士気は高かった。


「ですが、帝も宮も少なからず脅威を感じたようです」

「だろうな。これは勝利とは言い難い。敗北ではないとしても、あそこまで攻め込まれた時点で失敗だ」

「失敗が続けば、やがて敗北に至りましょう」

「続くだろう。この山にいる者たちだけではな」


 そのことは後醍醐天皇も尊澄法親王も、そしてこの山にいる皆も理解していることだった。

 足利あしかが方に勝利するためには――援軍がいる。


「奥州の北畠きたばたけ。南都・興福寺。そして鎮西で活動を続ける菊池きくち阿蘇あそ一族。彼らが足利を引き付けるか、ここまで援軍として駆け付けるかしなければ、いずれは負ける」

「……それと、北国や信州の旧北条ほうじょう党も」


 源助の補足に、恵清は「ほう」と声をあげた。


 旧北条勢力は鎌倉幕府壊滅後も後醍醐に抵抗を続けていたが、やがて勢いを衰えさせていった。

 しかし、後醍醐と結びついて大義名分を得れば一気に昔日の勢いを取り戻す可能性はある。

 実際、恵清の甥である北条時行の反乱は、後醍醐政権の東国情勢を一変させるほどの衝撃を与えたのだ。


 足利という共通の敵を得たことで、後醍醐と北条が手を組む余地は生まれている。

 だからこそ、恵清はこうして後醍醐方の勢力に入って活動しているのだ。


「帝は、北条を戦力として頼みとする意向を示したのか」

「奥州や鎮西は遠く、興福寺の軍勢は動向が読めない。故に、もう一つ頼みとする力が欲しいと仰せだったそうです」


 源助は、居住まいを正して恵清に向き直った。

 先程までとは、雰囲気が違う。


「恵清殿。帝がお呼びです」

「……なるほど。それが本題か」


 源助は表情を強張らせたまま黙って頷く。

 恵清は笑って応じると、迷うことなく立ち上がった。




 師久の本陣は、敗戦後の重苦しさに包まれていた。

 戦を継続することは可能だが、少なくない被害が出ている。

 加えて、これは初戦である。最初の戦の結果は兵の士気に大きな影響を与える。

 既に陣中では、「延暦寺を攻めた仏罰だ」という声も広まっている。これは、良くない流れだった。


「そもそも、吉良の連中はどうしたんだ。こっちは要請通り攻めかけたんだ。大手だって手薄になったはずだろう。なぜ動きがない」


 苦虫を嚙み潰したような顔つきで、桃井直常が吐き捨てた。

 隣に座っている桃井義盛よしもりも面白くなさそうな表情を浮かべていた。


「おそらく大手には変化が見られなかったのだろう」

「だとしても、こっちが明朝に動くということは伝えていただろう。それに合わせて攻めかけることはできた。東西両方から一気にかかれば、こっちだっておめおめと引き下がらずに済んでいたのかもしれないんだぞ」

「よしましょう、直常殿」


 なおも溜飲が下がらぬ様子の直常を、師久が抑えた。

 師久とてこの状況は面白くない。しかし結果は覆すことができない。ならば、次の手を考えなければならない。


「直常殿の不満も分かりますし、ここは一度吉良殿の元に使者を出してみては?」


 意見を述べたのは、山名やまな時氏ときうじだった。

 彼の率いていた一団も、少なくない被害を受けている。

 ただ、他の者と比べると不満を表には出していなかった。


「動いていたということであれば運がなかったとしか言いようがない。動いた形跡がなかったのであれば、今度はこちらから要請を出してみれば良いのです」

「こちらが一度仕掛けたことで、敵の意識は西に向いている。故に今度は時を置かず東から攻めかけて欲しい、ということですね」

「はい」

「しかし、吉良殿がこちらの要請を蹴るようなことがあればどうします」


 足利宗家の家人である高一族と、足利宗家に比肩し得る吉良氏では、立場の隔たりが大きい。

 高一族などが我らに指図をするか、と拒否される可能性は十分に考えられる。


「こちらは向こうに対し、一つ貸しを作っている。その事実が交渉材料になります」

「貸し、か」

「多くの犠牲が出たことを逆手に取るのですよ。我らは多くの犠牲を出してでも吉良殿の要請に従った。これは大きな貸しの一つです。吉良殿も多くの武士を束ねる一族の主。貸しを作ったままにしておくというのは面子にかかわる。交渉の仕方次第では、きちんと動いてくれるでしょう」


 多くの犠牲を出さなければ、要求一つ通すのも難しい。

 そんな自分たちの立場に嫌なものを感じながらも、師久は時氏の提案を容れることにした。

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