第43話「建武三年の夏(弐)」
仏頂面の
二人はそれまで警固を任されていた石清水八幡宮寺から兵を引き連れ、尊氏たちのいる東寺までやって来たのである。
「仰せの通り石清水八幡宮寺から引き上げて参りました。……
尊氏たちと結ぶことで善法寺家嫡流の座を弟から奪還した通清からすると、警固の兵を失うのは痛手だったのだろう。
少しだけでも残しておけないかと訴えられたが、東寺の尊氏たちからは「すべての兵を率いて来い」という命令が来ていた。
師泰らの独断で残しておくことはできない。
「通清には気の毒なことをした。今、彼はどこに?」
「しばらくは安全なところに身を隠すと」
「うむ。ならば今度会ったときに埋め合わせでもしてやらねばな」
口先だけではなく、尊氏は心底申し訳ないと思っているのだろう。そういう情は深い。
ただ、情とやるべきことを切り離すことができる人でもある。
「しかし殿。石清水八幡宮寺は要害の地。あそこを敵に奪われては後々問題になりませぬか」
「問題になるな。むしろ、なってもらわねば困る」
「とすると、やはりこの撤退は何かしらの意図あってのものだということですか」
師泰も、まさか尊氏たちが無計画な撤退を命じたとは考えていなかったらしい。
しかし、その意図が読めない。それでずっと仏頂面になっているのだった。
師泰の疑問に答えるべく口を開いたのは、尊氏の隣にいた直義だった。
「あれからも何度か比叡山を囲もうとしたが、兵たちの士気の衰えが著しい。はっきり申せば、以前のような包囲はもはやできぬと考えておる」
「それは、石清水八幡宮寺にいても薄々感じていました」
囲みこもうとすると比叡山の軍が押し出してくる。
先日の大潰走が記憶に刻み込まれているのか、足利軍の兵は皆敵に対して及び腰で、すぐに退いてしまうらしい。
敵兵に対する恐れだけではなく、比叡山を攻めることによる仏罰への恐れがある。
神仏への恐れというものは、いかな名将であっても容易に払拭できるものではなかった。
「ならば、敵と戦う場所を変えた方が良い」
「変える――」
そこまで言われて、師泰と重茂も尊氏たちの狙いが見えてきた。
「あえて隙を作り、比叡山に立てこもる敵を都へと誘い出すということですか」
「うむ。……こちらには院がおられる。院がおられる地に敵を引き込むというのはあまり大声で言えることではないが、まあ結果的に来てしまうのであれば仕方あるまいよ」
ちらりと奥――院や近臣たちが座する方に視線を向けながら、尊氏が僅かばかり声を落として言った。
そんな尊氏に対し、直義と師直が咳払いをする。どうもこの作戦を決めるにあたって、三人の間でいろいろと悶着があったのかもしれない。
「それで要害の地を捨てることにしたのですな」
「ここに来るまでの途中、都の兵が以前よりかなり減っているのも気になっていました。これも意図的なものなのですか」
重茂の問いかけに、直義が頷いてみせた。
「敵が『あれなら自分たちが攻めかけて勝てるかもしれない』と思う程度には、兵力を減らさねばならぬ。でなければ、多少兵の配置を変えたところで敵は出てこぬであろう。膠着状態が続けば、大軍を維持し続けなければならぬ分、徐々に我らの方が苦しくなる」
「無論、減らした兵を遊ばせているわけではない」
師直が師泰・重茂の前に周辺の地図を持ってきた。
覗き込む兄弟を前に、師直はぐるりと畿内周辺を扇子でなぞる。
「都から離れた兵――主に足利一門のお歴々には、畿内周辺を固めてもらっている。
「敵の援軍封じというわけか」
「九州で粘り続ける
千寿王の名前に、尊氏が「うむ」と苦しそうに頷いた。尊氏の子で、まだ元服も済ませていない。親としては不安があるのだろう。
取り急ぎ必要なのは、近場から後醍醐たちの元に駆け付けようとする諸勢力を抑え込むことである。
そのため足利一門に畿内外縁部を固めさせ、広大な包囲網をしく。それが尊氏たちの考えた戦略だった。
包囲の輪が広くなる分隙間も生まれてしまうが、仏罰への恐怖を抱えたまま比叡山を囲むよりはましだ、という判断なのだろう。
「だが、興福寺への備えはどうする。都に程近いし敵か味方か分からぬと聞いているが」
「そちらについては重茂のおかげで対策が進んでいる。今の時点で、ほぼ問題なしと言って良いだろう」
「弥五郎が?」
直義の説明を聞いて、師泰が意外そうに重茂を見やる。
こいつに興福寺対策が思いつくような知謀があるのか、と言いたそうな顔つきだった。
いささか引っかかるものはあるが、その気持ちは重茂にも理解できなくはない。
「俺は見聞きしたことを報告しただけだ。対策の方針を考えたのは五郎兄上よ」
「弥五郎の報告によれば、興福寺は大小様々な勢力の集まりだという。そして、都の影響を受けている勢力が多い。特に、摂関家の影響力は大きいそうだ。加えて、各勢力は一枚岩というわけではない。それぞれ利害関係があり、対立要素も多数抱えているという」
ならば、と師直は目を細めながら続ける。
「我らが下手に介入するのは逆効果。介入するなら――その道に長じた者に頼むのが道理だろう」
尊氏や
洛中において押小路と烏丸小路が交わる地。
戦乱の余波も届かぬ静かな池に囲まれた邸宅で、
彼らの先には、光厳院の近臣である
「それでは、興福寺は――」
「うむ。まだ確たる返書はないが、当面は動かぬと見て良いであろう」
「お力添えいただき、まことにありがとうございます」
四条隆蔭からの返答に、憲顕・重能は安堵の息を漏らしそうになった。
隆蔭は光厳院の信任厚き側近の一人であり、寺社に関する対応も任されている。
興福寺以外にも、
また、隆蔭の四条家には憲顕・重能の従兄弟が家司として仕えている。
そういう縁もあって、このところ憲顕・重能は隆蔭と歩調を合わせて足利氏と院の橋渡し役を任されていた。
しかし、この邸宅の主は隆蔭ではない。
興福寺に対する働きかけを行ったのも、隆蔭ではなかった。
憲顕・重能から御礼の言上を受け取った隆蔭は、恭しくそれをこの邸宅の主へと改めて伝える。
隆蔭は四十近く。憲顕や重能は三十前後。
そして、彼らが礼を尽くして相対しているこの押小路烏丸殿の主は――僅か十七歳の若者だった。
彼らの言葉を受け取った若者は、興味深そうに憲顕・重能を睥睨する。
「此度の戦は我らにとっても他人事ではない。それに、院からの御命令とあらば従わぬ道理はあるまい」
しかし、と若者は続ける。
「
「御懸念はごもっともにございます。だからこそ、院の御命令という形を取ったのです」
「重ねて問うが、何かあれば院に後ろ盾になっていただけるということで間違いないな、四条宰相殿」
「はい」
「ならば良い」
若者はその間も隆蔭に視線を向けず、じっと憲顕たちを凝視している。
値踏みしているのか、単に珍しがっているだけなのか。
二人が緊張のあまり唾を呑み込むと、若者は「上杉よ」と口を開いた。
「此度の件、これは戦における一手であろう。表向きは院の御命令という形を取っているが、実際の絵図を描いたのは武家と見たが、どうじゃ」
「は――」
「今日隆蔭卿にそなたらを連れてくるよう申したのは、それを聞きたかったからだ」
実のところ、憲顕・重能は主に隆蔭相手のやり取りをするだけで、他の公家との接触はほとんどなかった。
若者と会うのもこれが初めてである。本来なら、おいそれと会えるような相手ではないのだ。
「答えよ。この二条
若者――二条良基が発する圧は、十七の青年のものではない。
彼は、朝廷の中枢に位置する五摂家が一角・二条家の当主である。
五摂家がこれまでの歴史の中で培ってきた重みが、良基という存在をただの若者とは違うものにしている。
この問いかけの真意は分からない。
憲顕は助け舟を求めようと隆蔭を見たが、彼も良基の真意を測りかねているのか、表情を強張らせるばかりだった。
「――最初に絵図を描いたは、足利の家人・高師直という者にございます」
答えに迷う憲顕に代わって口を開いたのは、重能だった。
此度の件を良基が不快に思っている可能性もある。ここで責任を尊氏に被せるのはまずいと判断したのだろう。
最初に絵図を描いたという補足つきであれば、かろうじて嘘は言っていないことになる。
「ほう。足利の家人か」
「……家人ではありますが、武蔵権守に補任されております」
一介の家人に動かされたとあっては面白くないかもしれない。
そう思って憲顕は咄嗟にフォローを入れた。
五摂家の立場からすればさして意識するような官職ではないが、無位無官の家人とは大きく違ってくる。
だが、良基はさしてそこに気を留めなかった。
不快そうな様子も見せていない。むしろ、その口元は薄っすらと笑みを形作っている。
「足利の家人・高武蔵権守師直か。五摂家の当主を動かすとは、きっと悪い男に違いない」
悪い男という言葉には、愉快そうな響きが含まれている。
「――いずれ会ってみたいものだ」
憲顕と重能は、それに応える言葉を持たなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます