花七宝の影法師・補記

 本作は歴史エンタメ作品です。

 参考文献を元にした要素と本作独自の創作要素が混在しており、一部紛らわしい箇所があるため、本項で補足事項をまとめます。

※本項は適宜追記・編集していきます。


【全体】

●登場人物の名称

 本作はある程度長い期間を対象とした話になるため、史実で官職名や諱が変わる人物がいます。物語上取り上げた方が良いものについては取り上げますが、それ以外は物語全体を通してなるべく名称を統一する方針とさせてください。

 また、作中の会話で諱表記を避けると誰のことを指しているか分かりにくくなるため、諱呼びは特に制限しない方針としています。


●高重茂の名称

 高重茂は「高師茂」と記されている史料もありますが(尊卑分脈等)、本作では同族・南宗継を開祖とする清源寺に伝来していた『清源寺本高階系図』に信を置き「高重茂」としています(※)。また、通称は「弥五郎」「五郎左衛門尉」説があるようですが、本作では「弥五郎」説を採用しています。

(※)参考:戎光祥出版・高一族と南北朝内乱(亀田俊和)


【第1章】

●曽我師助の表記

 彼については「曾我師助」や「曾我師資」という表記も見受けられますが、本作では曽我師助で統一しています。


●重茂の家人・治兵衛

 高一族に仕えた治兵衛という人物は確認できておりません。彼は架空の人物です。


●多々良浜の戦いの後に参陣した武士

 松浦党の降伏は太平記に記されたエピソードですが、詳細は不明です。

 本作では降伏した松浦党の一角として志佐氏を取り上げていますが、これは後年志佐氏が壱岐守護になっていると思しき記録があったことによります。

 問註所康為は実在の人物ですが、この時期に参陣したかどうかは不明です。

 長門国の串崎若宮は建武三年四月に尊氏から恩賞を得ているので、多々良浜前後に足利方と協力関係にあったと思われますが、具体的な活動記録は不明です。白山道渓も架空の人物です。


●高師久の通称

 師久は官職名「豊前(権)守」が伝わっているのみで、通称は伝わっていません。

 師泰が四郎、師直が五郎、その次の重茂が弥五郎となっていることから弥〇郎にしたいと考え、武闘派である師泰に対応させる意味で弥四郎としました。

 前田侯爵家高家系図では重茂と師久(尚)の記載順が逆になっているという点も少し意識しています。


●上杉憲顕・重能の通称

 私の方では官職名くらいしか確認できませんでしたが、この二人は通称で呼び合う親しい関係性である、ということを表現したかったので、本作では憲顕を平一郎・重能を与次郎としています。


●「忠能殿のことは、存じ上げませんでした」

 作者の本音。

 第5話で山田・谷山相論について取り上げたは良いものの、その後、山田忠能が長門国赤間関で尊氏らに合流して多々良浜の戦に参加していること、三月五日付けの着到状が残っていることに気づき、急遽無理のない範囲で辻褄を合わせることに。


●内々で立花を称した大友貞載

創作です。少なくとも私の方では貞載が立花を明確に名乗っている史料は見つけられていません。

実際は「立花氏の祖ではあるが立花を称するようになったのはもっと後」だと思われます。

北条早雲が北条姓を使っていないようなものだったのではないかと。


●軍忠状を誰が書いたのか

軍忠状は参陣した武士が奉行所に提出したとされていますが、当時の識字率も含め「すべての武士が自分たちで用意できていたのか?」等よく分かっていない点があります。

本作での描写は作者の推測を含むものであり、実態はあまりハッキリしていません。


●第10話の兵粮調達について

上京するため尊氏が大友氏等に軍備の支度を命じたことは梅松論に載っていますが、重茂・重成・宗継がそれにどうかかわったのかは特に情報がありません。この辺はすべて創作です。


●島津生駒丸の烏帽子親について

彼が元服した正確なタイミングは不明です。

また、烏帽子親(および一字拝領)についても創作になります。


【第2章】

●北条泰家について

この辺りはすべて創作です。実際のところ、この時期の泰家についてはハッキリしたことが言えません。郎党として登場した杉太一郎という人物も創作です。

ただ、後醍醐天皇に対して決起をした北条時行がこの後赦免されて後醍醐天皇に従っているため、その間に後醍醐方と北条方で何かしらのやり取りがあった可能性はあります。


●備中福山合戦における各将について

この戦いは太平記に詳しく、梅松論で僅かに触れられている合戦です。

この戦いにおける新田側の将は、梅松論では「新田江田某」、太平記では「大江田式部大輔」と記されていますが、現在では「大井田氏経」とする見解が多いようでしたので、そちらを採用しています。


直義方の将については太平記・梅松論ではあまりハッキリとしたことが書かれておらず、唯一「二引両(足利の家紋)の旗を掲げた、直義以外の誰か」がいたことを匂わせるのみとなっています。

天野文書の建武三年七月の項に、天野遠政が提出した同合戦の軍忠状に斯波高経のものと思われる花押が記されていることから、本作ではこの「直義以外の誰か」を高経としています。


また、吉川家什書には吉川経時による同合戦に関する軍忠状の記録があり、そちらには尾張守が判を押しています。これは高師泰と推定されているようですので、もしかするとその旗下で高重茂が弓を取っていたかもしれません。


●斯波高経の表記について

高経の頃は「斯波」を名乗っていなかったらしいということ、彼の家格が尊氏・直義たちと遜色ないものであることを強調したかったことから、彼とその弟については「斯波」ではなく「足利」表記としています。


●高経の弟・足利彦三郎について

もっともメジャーな呼称は斯波家兼ですが、この頃は「家兼」ではなく「時家」だったようです。分かりやすさ重視で「家兼」にしようかとも思ったのですが、無理して諱をここで出さずとも良いと考え、今回は彦三郎表記で統一しました。

斯波ではなく足利表記なのは前述の理由によるものです。


●後伊予権守

こういう表記は私は見たことがありません。

本作の重成のアレは、適当にノリで言ったんだと思います。


●湊川の戦いにおける薬師寺氏について

太平記において、湊川の戦いで姿を見せる薬師寺氏は十郎次郎という者で、正成に追われた直義を窮地から救い出すポジションです。この十郎次郎と薬師寺公義が同一人物かどうかは明確ではありませんが、本作ではその後の出番も考慮して「十郎次郎=公義」という設定にしています。


●道誉・頼遠参陣の時期について

佐々木氏・土岐氏が尊氏の九州落ちに付き従っていたかどうか・従っていない場合どのタイミングで合流したのかという点については、あまりハッキリとしたことが分かりませんでした。

本作では佐々木(近江)・土岐(美濃)の本拠地との位置関係から、京まで戻ってきたタイミングで合流したものとして扱っています。


●楠木正成の首を届けた使者について

これは太平記にあるエピソードですが、使者について具体名はあげられていません。


●越智遠子について

彼女に該当する人物については「外山座出身である」「楠木正成の妹である」等の情報がありますが、あまり明確になっていないというのが実情のようです。

本作では後々のことも考慮して「大和有力武士の越智氏と繋がりがある」「楠木正成とも若干の縁がある(遠子の遠の字等)」といった設定にしています。


●千種忠顕の法名について

千種忠顕が建武延元の乱の最中に出家したことは史料から確認できますが、法名については確認することができませんでした。本作で名乗っている「道三」は創作です。


●叡山攻めの陣容について

太平記をベースに、ある程度物語として動かしやすい形にアレンジしている部分があります。本作のような陣容だったことを示す史料はありません。


●興福寺に対する活動について

太平記には後醍醐方・足利方がそれぞれ興福寺に何らかの働きかけをしていた話がありまして、それをベースに本作独自のアレンジを加えています。

高一族・上杉・二条家が動いていたとする明確な情報はありません。

後醍醐方で坊門清忠が主体となって動いていたのは、彼が興福寺に関わりのある官職に就いていたことから思いついた創作です。


【第3章】

●重茂らが関東へ下向したタイミング

あまり明確な情報はありません。重茂・憲顕・直常が共に下向したという史料もありません。

憲顕については「建武三年十月十九日に尊氏から下野国の闕所を預け置かれた」「建武四年五月十九日に直義から上野国支配を称賛された」という史料があるため、建武三年末~四年初頭頃には上野国に来ていた可能性が高いものと思われます。


●建武三年末~四年頃の武蔵国の情勢について

情報が少ないため前後の状況から想像で補っている部分が数多あります。

重茂の武蔵守護としての活動は、いくつかの文書を発給したことと戦に参加したということくらいしか分かっていないため、この辺りはほぼ創作と思っていただければと思います。


●高師久の墓所について

私が調べた限り、はっきりとした情報は見つかりませんでした。

本作では東勝寺に葬られ、後年東勝寺の衰退によって墓所もいつしか失われたという扱いにしています。


●対北畠勢に向けた家長の戦略について

史料には確たる情報がなく、これは創作になります。

作中では家長が妹と宇都宮氏の縁談を進めたことが芳賀禅可から語られていますが、これについても時期ははっきりしていません。


●利根川の戦いに参戦した武将について

太平記における利根川の戦いの記事では細川阿波守(おそらく和氏)が参戦したことになっていますが、ほかの記事では一切見当たらず、他の史料からも関東にいた様子が伺えないことから、本作では登場させていません。西国で活動中ということにしています。


●武田政義の去就について

彼は足利方から吉野方から転じたとされていますが、それが北畠勢の侵攻時だという史料は見つけられておりません。このタイミングでの寝返りは創作になります。


●結城道忠(宗広)による新熊野擁立計画について

この計画についてはすべてフィクションです。

それを匂わせるような史料も特にありません。この時期新熊野が鎌倉に滞在していたことから、両者を絡ませようとして考え付いたものになります。


●高重茂の妻について

高重茂の妻については詳細不明です。特に史料らしい史料があるという話も作者は見聞きしたことがありません。そのため本作に登場する葵というキャラクターは、本作の中でのみ生きた人物になります。


●青野原の戦いの展開

この辺は太平記を下敷きにかなり大胆なアレンジを加えています。

他にこの戦いに触れられている有名な史料としては難太平記がありますが、あちらは今川主体の内容となっており、本作で今川はそこまでクローズアップしないため、あまり参考にしていません。


●青野原後に北畠勢が伊勢へ転身した理由

これは研究者の間でも意見が分かれているようですが、

・新田義貞は少なくとも叡山で後醍醐と一度袂を分かっている

・北畠顕家はあくまで後醍醐に属する勢力である

・美濃から越前にへの転身は京や吉野と逆方向に向かうことになる

・近江への道は無傷の足利勢が塞いでいる

・これまでの戦いでかなりの損耗が発生している

という要因から、本作では軍勢を整え直すため伊勢に行く以外の選択肢が取れなかったと解釈しています。


【第4章】

●後醍醐天皇から後村上天皇への皇位継承について

実際のところ後醍醐の真意は不明としか言いようがなく、周囲がどのように働きかけたかも明確なことは分かりません。この辺りの描写は完全に本作の創作です。


●伊勢貞継の風呂好き

少し先の話になりますが、伊勢貞継は妙にお風呂に関する記録が残っており、そこから「風呂」を貞継の個性にしようと決めました。


●赤橋登子の上京

実のところ登子が建武の乱のときどこにいたかはよく分かっていません。

尊氏との間に子が生まれていることから、本作とさほど変わらない時期には尊氏の元に合流していたと思われますが、仔細は不明です。

尊氏の正妻としての立場を強化するため、という流れは本作の創作です。四条家が尊氏に接近しようと縁談を持ち掛けたという記録もありません。


●延暦寺アンチ近江佐々木一族

本作ではなかなかの延暦寺アンチっぷりを発揮している氏頼ですが、実際に彼個人と延暦寺の具体的な関係性を示すようなエピソードはありません。

一族である佐々木道誉が延暦寺系列の寺と揉めた際、佐々木氏と延暦寺の関係性の問題点が取り上げられることから、本作ではそこをシンプルにまとめようと思い立ち、氏頼含む近江の佐々木一族をアンチ延暦寺と位置付けています。


●邦省親王

本作の邦省親王は、後醍醐系以外の大覚寺統の人々を代表する存在として描いているため、史実上の邦省親王を下敷きにしつつ、インパクトのあるキャラクターにしようと独自の特色をつけています。

彼個人の動向や特徴については、八割方本作の創作と捉えていただいた方が良いかもしれません。


●堀川具親と邦省親王の関係

本作では邦省親王派としてその側近的立ち位置になっている堀川具親ですが、実際に両者の関係がどういったものだったかを示す史料は確認できていません。

堀川家は邦省親王の後二条流と縁があるため、そこから両者の関係を創作しています。


●四条家に出仕している上杉重能

四条隆蔭に上杉一族が仕えていたのは記録にもありますが、これは重能ではなく上杉朝定の兄とされる重藤のことを指します(園太暦・師守記)。他の上杉一族は四条家との繋がりは不明確です。

本作では物語上の様々な要因から、上杉一族と四条家の関係性を強いものにすべく、重能も四条家に仕える運びとなりました。


●上杉重能の子供たちについて

主に重季・顕能・能憲の三人がいるものの、実子・養子どちらか今一つはっきりしないうえに、それぞれの情報が混同されている点があるようで、非常にまとめるのが困難な兄弟たちとなっています。

そのため「本作ではとりあえずこういうことにしておこう」ということで、実子重季、養子顕能・能憲という形にしています。


●師直と二条家の関係

本作での「菖蒲」にあたる二条家の女性と師直が子を設けるような間柄だったのは確かなようですが、この女性が二条家においてどういう立ち位置だったのか、そもそも家格の釣り合いが取れていないのではないか等、疑問が残る部分もあります。

本作はその辺りをややマイルドに扱っています。お茶を濁した、と言っても良いかもしれません。実際のところはよく分からないですね。


●博多商人、慶元(後の寧波)を焼亡させる

大分無茶苦茶な話ですが、これについては本作の創作ではありません。

「十四世紀の歴史学」という書籍で紹介されているエピソードで、おそらく史実だと思われます。中世人を怒らせると怖いですね。


●日向の地にて

このエピソードはほぼすべて創作です。

畠山直顕が日向国を掌握するまでの流れ、興福寺の所領に手を出して問題になった件については「南北朝武将列伝・北朝編」で紹介されていた情報を参考にしています。


●高重茂が引付頭人になったときの引付方の構成

この時期の引付方の構成は明確でないため、若干時期はずれていますが、康永三年の引付方改編時の記録を参考にしています。


●妙法院焼き討ち事件直前の歌会

妙法院焼き討ち事件の前、同寺で歌会が開かれていたことは太平記などでも触れられていますが、そのときの顔触れは特に記録がありません。本作では有名どころがずらりと顔を出していますが、これは物語上の都合です。


●聖恵のこと

聖恵が途中から別人に成り代わっている……などという記録は残っていません。

聖恵については本作の創作による部分が非常に大きいため、史実とは別物と割り切っていただければと思います。

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