【5】最後の決断

 水の音が聞こえる。ごろごろという音の合間を刻むように、ドクンドクンと脈打つ音が聞こえる。ひときわ早い音が2つ、大きくゆっくりな音が追いかける。


「なにがあっても、絶対に守るから。無事に生まれてきてね」


 優しい声が聞こえる。記憶のどこかに刻みつけられている懐かしい声。優しい声は、続ける。


「慧ちゃん、かいちゃんには、好きなことをして生きて欲しい。好きなことを、精一杯の力でやって、幸せになって欲しい」



 そして、男の低くくぐもった声が聞こえてきた。


「病弱なお前の母親は、妊娠後期にも切迫早産になり、危うく流産しかけたため、長期入院して安静にしていた。3ヶ月もだ。この3ヶ月もの長きの間、病院のベッドからほとんど起き上がることもなく、我が子をお腹に宿した状態ですごした。これもひとえに我が子を無事に世に送り出したいという、母の強い想いからだ。そして、お前たちを産んでまもなく、母親は亡くなった」




 舞台は変わり、目線が父親の腰ほどにもなった頃。隣には自分とそっくりな顔が、自分の顔をのぞきこんでいた。その口元が動く。


「慧ちゃん、そんなにこれ欲しいの?」


 そっくりな顔は自分になにか黒い金属製の塊を渡す。そして「はい」と差し出すと、自分の手に乗せてくれる。


「これ、なぁに?」


「カメラだよ」


 そう言って、そっくりな顔は満面の笑みを浮かべた。きっと、自分が物欲しそうな顔をして見ていたんだろうな、と思った。


 低くくぐもった声は、解説でもするかのように、映像を流しながら説明調子で続ける。


「お前の兄は、別にカメラに飽きたわけでも、自分に才能がないからとお前に譲ったわけでもない。お前が欲しそうにしていて、喜ぶ顔が見たかっただけだ。おかしな話だよな。お前も兄も、それぞれに誕生日プレゼントをもらったはずなのに」




 次に映像は、夏の暑い陽射しが差し込む窓辺へと変わる。自分と父親とが喧嘩している。


「やだ!もうプールなんて行かない!水泳なんてだるいから、もうやめる!」


 そこに仲裁に飛び込んできたのは、自分とそっくりな10歳くらいの男の子。


「慧ちゃんは、1人みんなよりも泳ぎが上手だから、スイミングスクールのみんなにいじめられてるんだよ」


 大きくなり始めたてのひらが、自分を父親からかばうようにして立ちはだかる。


「だから、今日は僕が代わりに行って、みんなにやめろって言ってくる!」


 低音を響かせて、解説者は語り出す。


「10歳になってまもない頃。お前の兄が交通事故で亡くなったのは覚えているな?この日はお前がスイミングスクールの夏合宿初日で、お前がどうしても行かないって駄々をこねるもんだから、お前の父親が無理に引きずって玄関先まで連れて行こうとしてたんだ。それを、お前の兄が仲裁に入り、代わりにスイミングスクールバスに乗ったことで…事故は起きた。そして、兄も亡くなった」


《やめてくれ………》


「お前がおとなしくバスに乗っていれば、兄は助かったのにな」


《もう、やめてくれ………》


「こうやって、お前は選択してないようで、ちゃんと自分で選択をしている」


《……………》




 舞台は変わり、16歳の冬。伯母が病院のベッドに寝ている。その顔には呼吸器と、枕元には心電図がピッピッと規則正しく音を刻んでいる。


 寝ていた伯母がベッド脇にいる自分に気づき、震える手を差し出し、弱々しい声で告げる。


「慧ちゃん。伯母ちゃんになにがあっても、絶対に水泳はやめないでね。きっとお母さんが生きてたら、慧ちゃんに同じこと言うと思うの」


 そういい、伯母はふたたび眠りに落ちる。その姿を見下ろしながら、なにもできない自分が不甲斐なくてやるせない思いにむしばまれていた。


「結局、伯母が亡くなってから、お前はなにもかもがわずらわしくなり、特に大事にしていた水泳すらも捨てた」


《違う………》


「母の願いも、伯母の願いすらも無下にしたんだ」


《そんなこと………》


「なにより、自分の才能を台無しにしたんだ」


《俺は…俺は………》


「カメラだって、自分が将来が不安になっただけだろう」


《そんなこと…ない》


「だったら、なぜ。やめる必要があった?」


《それは…!彼女が妊娠したから!》


「それで、なぜやめるか理解できんね。第一、カメラを売る必要すらなかったのに」


《もう………頼むから、やめてくれ!》


「結局、お前はなにかのせいにして、そこから逃げ出したいだけだ。いつだって、逃げて楽な方へ楽な方へと流れていってる。それもお前のれっきとした選択の結果だ」


《そんなこと…!!!》


「やり直した後も、やり直すたびに“やり直したい”と願った。どの結末を迎えようとも、満足しないくせに」


《もう、分かったから…!》



 ◇ ◇ ◇



「3つの扉を選ばなかった感想は?」


 男がすぐ目の前にいる。その遥か頭上に、高くそびえる2つの皿が見える。天秤の下の空間に落とされたようだ。


「自分が招いたことなのだと、やっと理解しました」


 慧斗はうなだれる。行き場のない思いとやるせない後悔の念とに押しつぶされそうになる。実際に、もう行き場はなかった。


「おとなしく、地獄にでもどこにでも行きます。お願いですから、幽霊にだけはしないでください」


 男はふふんと鼻を鳴らす。さらに男は声を上げて、笑い始めた。慧斗は、自分がそんなにおもしろいことを言ったのか?と思った。しかし、反論する気力も起きない。


「誰が、そんな楽な道を選んでいいと言った?」


「へ?」


 それから手を天高く振りかざすと、高らかに告げる。


「お前は、ふたたび一から出直すんだよ。人生をがいい」


 その声とほぼ同時に、周囲に激しい地鳴りが響き渡る。大きく天地を揺り動かすような音の振動が天秤に伝わり、天秤は震え始める。そして、左右の皿が右に左にと傾く。下に下がった皿が重さに耐えきれなくなったのか、地面へと傾き、先端が突き刺さる。と、その皿にちいさな段差がゆっくりとつき……階段状に変形していた。


「天の采配は、お前にさらなる勤めを要求する」


 男はそう告げると、階段を指し示し、慧斗を段上へといざなう。そして、決まり台詞ぜりふのように厳かに敬礼をすると、ゆっくりと最後の言葉を告げる。


「再び、巡り合うことがなきよう、切に願う」


 その言葉を聞き、慧斗は1段1段ゆっくりと確実に階段を上り、光の中へと消えていった。

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3つの扉(短編) 月冴(つきさゆ) @Tsukisayu

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