【4】グレーの扉

「———で、慧。どうなんよ?」


 ほどよくこんがり朝黒く焼けた肌の男性が、慧斗を見下ろしている。男性は慧斗の1つ上の先輩、2年生のマサ先輩だ。


 今年、慧斗とマサ先輩は、オリンピック候補に共に選ばれた。慧斗は自由形50m、マサ先輩は背泳ぎ100mの日本代表の強化選手に選ばれ、今2人はオーストラリアでの強化合宿に来ている。冬場の練習には、オーストラリアは気候的にもってこいなのである。(日本とは真逆の気候)


 マサ先輩はプール脇に座り込む慧斗の横に座ると、遠くで飛び込み台からプールに飛び込む金髪の女性を眺めながら続ける。


「で、慧。お前たしか中学の頃から付き合ってた…名前なんて言ったっけ?えーと、柏木———」


「ああ、カレンのことですか?」


「そそ。そのカレンさんに、今回の合宿も反対されてたんだろ?」


 そうなのだ。慧斗には、中学の頃から付き合っている幼馴染の女性がいるのだが、彼女がことごとく慧斗のすることに反対するので、この頃では顔を合わせるのも苦痛になってきていた。なんでも今回の反対の理由は理不尽で、「慧斗が遠くに感じる」だとかなんとか。お決まりのほほを膨らませる癖で、慧斗を見上げると、怒涛のごとく怒りをぶつけてきたので、それ以来ほとんど話をすることもなく、ここオーストラリアに来てしまった。



《きっと、帰ったらまたどやされるんだろうな》


《いつからこうなったんだろ…本当一からやり直したいな》



「そんなにしんどいなら、別れようとか思わないの?」


「うーん」


 いざ、カレンと別れることを思うと、申し訳なさと3年間付き合ってきたのだから、という忠誠心にも似た責任感が湧いてくる。ただ単に、過ごしてきた3年間がもったいないと思っているだけなのかもしれないが。


「今のとこ、それはないですかね。それに、母さんもカレンのことは気に入ってるから」


 慧斗には病弱な母がいる。慧斗が物心ついた頃から幾度も入退院を繰り返している母であるが、慧斗にとっては母の意見がなにより絶対なのである。母が応援してくれるから水泳もがんばれるし、父との関係も母を介してうまくいっている。


「お前、ほんっとお母さん大好きだよな」


「なかなか母と一緒に過ごす時間もないですからね。ほら、1年の半分は入院してるから。そのせいですよ」


「ふーん。じゃあさ、そのカレンさんと将来結婚したいって思う?」


 慧斗は考えた。確かにカレンは母のお気に入りである。それに病弱な母が弱気になっているときに、ふと漏らしていた言葉がある。「慧斗が早く結婚してくれて、孫の顔でも見れたら安心できる」と。しかし、カレンとは最近顔を合わせるたびに喧嘩けんかしている気がする。一生一緒にいる自信が、今の慧斗にはなく、第一16歳で将来を決めるのは時期尚早じきしょうそうではないだろうか。


 慧斗はふぅっと大きなため息を吐くと


「それについてはノーコメント」


と、遠くから呼ぶコーチに、手を挙げて挨拶あいさつを返す。そして、プールのスタート地点に2人で向かう。


「そういうマサ先輩こそ、彼女作んないんですか?モテるのに」


「いやぁ、俺はほら。1人の女性と仲良くするより、みんなに好かれたいっていうか。とにかく、わずらわしいのがいやなんだよ。女っていえば、やきもち妬くし、すぐに束縛するし、無駄に約束させたがるし、色々面倒だろ?」


「やきもちはかわいいじゃないですか」


「そゆもん?俺にはよく分かんね」


 そういうと、プールの踏み切り板の上でスタート位置につく。おでこに着けたゴーグルをはめると、横にいるマサ先輩を見ずに続ける。


「1人と付き合ってみたら、気持ちわかりますって」


 ちょうどそのとき、スターターピストルの音が鳴り響く。慧斗はマサを一瞥いちべつすると、プールに飛び込んだ。



   ◇ ◇ ◇



 日本に帰国すると、案の定カレンはふてくされていた。しかし、それ以上に慧斗を驚かせた出来事が起きてしまった。


 慧斗の伯母(父の妹)が亡くなったというのだ。伯母は母が留守がちなため、よく慧斗と双子の兄の面倒を見てくれていた人なのだが、ここ最近は心臓病が悪化してしまい、ペースメーカーを入れていた。最近では調子もだいぶ良くなり、容態も安定してきたと聞いていたのに。


 伯母の訃報ふほうは、思いがけなく慧斗を絶望へと追いやった。


 母は体調が優れず入院をしていたし、父は自分の妹が亡くなったというのに、葬儀にも参列せず、ふたたび仕事で中国へと長期出張に行ってしまった。


 伯母の葬儀も終えたある日、朝から慧斗は怒りに震えていた。父についての苛立ちももちろん、帰国してしばらくは鳴りを潜めていたカレンの傍若無人ぼうじゃくぶじんな振る舞いが、慧斗の怒りに触れたのである。


「そんな合宿やら練習ばっかりで、全然相手にしてくんないんじゃ、もう一緒にいられない!水泳と私、どっちが大事なの?」


 この言葉に、慧斗は返事もせずカレンの前から身をひるがえすと、一目散にプールへと向かった。


 なんでがんばってるだけなのに、こんなこと言われないといけない?そもそも、彼女と水泳、比較する対象じゃないだろう。理不尽にもほどがある。


 慧斗は怒りの感情のまま、プールに飛び込む。無心に泳いだ。とにかく疲れ果てるまで泳ぎ続けた。そして、泳ぎ始めて3時間ほど経過した頃。アクシデントが起きた。


「い………ってぇ」


 右肩に激痛が走る。あまりの痛みにプールの中でうずくまってしまう。息も絶え絶えにプール脇から上がると、そのあまりの痛みに気絶してしまった。


 目を開けると、そこは学校の医務室であった。


「目、覚ましたか!」


 心配そうに慧斗を覗き込むのは、マサ先輩。この日はテストのために部活は原則休みになっていたため、放課後の自主練に来ていたマサ先輩がプール脇に倒れる慧斗を見つけ、医務室まで運んでくれたのだ。


「良かった。大事はなさそうね」


 というのは、保健の穂積ほづみ先生。20代ながらも恰幅かっぷくがよく、すでに貫禄がある養護教諭である。


 穂積先生はホッと息を漏らしながらも、一応大学病院で診てもらったほうがいい、ということで、慧斗はマサ先輩に付き添われて大学病院へと訪れた。


 有名なスポーツ選手もよく訪れるという、スポーツ障害専門の整形外科へとやってきた。症状を見るなり、医師の顔は険しくなる。そして、様々な検査を終え、ふたたび診察室へと通されたのは、夜22時を過ぎた頃であった。


 開口一番、医師は申し訳なさそうに顔をしかめると


上腕骨近位端じょうわんこつきんいたん骨折という症状ですが、位置が悪く手術をしないといけません。手術後にリハビリをしていただきますと、日常生活は支障なく送れると思いますが………水泳は、今までのように泳ぐのは難しいでしょう」


と告げた。絶望の鐘が鳴った、と思った。今まで13年という年月積み上げてきたブロックが一瞬にしてガラガラと崩れ落ち、広いプール一面を覆い尽くす。そのブロックがプールの水を溢れさせ、津波となって慧斗へと押し寄せてくる。大量の水流に飲まれ、ぶくぶくと泡を吐いた状態でそのまま溺れてしまうイメージだった。


 マサ先輩は散々慰めてくれたが、声は慧斗の耳には届かない。



《なんで…俺がこんな目に》


《なにもかも、やり直したい》



   ◇ ◇ ◇



 水泳ともカレンとも別れた慧斗には、自由が訪れた。


 水泳と同じくらい入れ込んでいたカメラに、のめり込んだ。むしろ、カメラの方がずっと慧斗の心を掴んで離さなかった。四六時中カメラについて考え、色んな場所に行っては撮る。とにかく撮りまくる。その甲斐あってか、高校3年生にして、国内のフォトコンテストで優勝をした。さらに、国際コンクールでも優秀賞という名誉を受けることになる。


 しかし、慧斗の元に2度目の訃報ふほうが届いた。


 父と母と双子の兄が乗っていた車が衝突され、兄は帰らぬ人となってしまった。それに、母は脊椎せきつい損傷により、ただでさえ病弱であったのに、ついに寝たきりになってしまった。身内と呼べる存在が、ことごとく失われてしまった。


 兄は昔から貧しい国や戦争であえぐ人々に関心があった。よく海外ボランティアに行っていたし、将来は国境なき医師団に入るために、日夜勉強をしていた。実際に、水泳に明け暮れていた慧斗と違い、兄は成績も良く、医学部入学は確実といわれていただけに、今回の喪失は慧斗だけではなく、周囲全体の亡失であった。


 この頃から、慧斗は戦場に想いをせることになる。

 兄のできなかったこと、夢を自分が叶えようと思ったのだった。


 慧斗はカメラの腕が認められ、高校卒業後すぐに戦地へと飛び、戦場カメラマンとして活動をし、その合間に個展を開くなどをしていた。


 この向こう見ずとも呼べる活動に、母は猛反対をした。しかし、母の心配事を喜憂きゆうだと笑い飛ばし、慧斗はふたたび戦地へと飛ぶ。


 そんな日々が続いた、4年後の22歳の頃。慧斗は渡航不可能と言われている危険地域にほど近いトルコ湾岸から、とあるイスラム地域へと渡ることになる。


 紛争地帯からは距離もあり、比較的安全と言われている地域だったのもあり、慧斗たち一行は油断していた。


 ガイドが突然アラビア語で叫ぶと、言い終わる前に銃声がした。ガイドがまずその銃弾に倒れ、次々と護衛として雇っていた現地スタッフが撃たれる。そして、残った慧斗は、意味も分からないアラビア語で話しかけられると、そのまま目隠しをされてしまった。


 そこから何時間経過したのであろうか。目隠しをしていたため、どこに連れてこられたかも分からない。慧斗の頭の中にあったのは、無事日本に帰りたいという思いだけであった。


 目隠しをされた状態で、えた臭いの漂う場所を通り、1軒の家へと通される。足場は非常に悪く、1歩1歩踏み出すたびにその身がぐらぐら揺れる。そして、椅子いすのようなものに座らせられる。手足を拘束こうそくされ、そこでふたたび何時間も放置された。


 離れた場所からは数人のアラビア語を話す男たちの声。アラビア語はほとんど分からなかったが、自分が置かれている状況が決して好ましいものではないということだけは分かった。


 そして、突然目の前が明るくなる。光に慣れずにしばらく顔をしかめていた慧斗であったが、目が慣れてくると、3mほど先にビデオカメラのようなものが据え置かれているのに気づく。“あ、これは”とすぐに思い出したものがある。自分はこの男たちのなのだ、と。


 と、突然首元にひやりと冷たい感触が触れる。ナイフだ。自分の首にナイフが突きつけられている。自分はもしかして、このまま殺されるのではないかと思った。


 しかし、男は自分のうしろでなにかを話し続けると、ふたたび慧斗は目隠しをされる。そして、別室へと連れて行かれてしまう。そのまま、数ヶ月…地獄のような生活を強いられた。


 監禁されている間、慧斗は後悔にさいなまれていた。最初の1週間はまだ良かった。隣にはアメリカの報道記者という男が監禁されており、壁越しに会話をできたからだ。その男によると、自分たちはイスラム原理主義者に捕らえられて、人質としてここに置かれている。しかし、金銭目的の監禁ではないし、いわゆる人質でもない。いつ殺されてもおかしくないのだという。


 1週間ほどした頃、隣から声が聞こえなくなった。別室へ移動させられたのか、あるいは………。慧斗は考えないことにした。代わりに考えていたのは、答えのない問いばかりであった。



《なんでこんなになってしまったんだ…》


《どこで間違えた?》


《こんなことなら、カメラなんてしなきゃ良かった》



 正確な日程は分からないが、それから3ヶ月ほどした頃、慧斗の喉元に刃が突き立てられることになる。ひやりと冷たい感触がしたのは一瞬。すぐに感触のするなにかが吹き出し、まもなく慧斗の意識は遠のいていった。


呆気なく23年の日々は終わりを告げた。



   ◇ ◇ ◇



「グレーの扉の中は、かな?」


「なんなんだよ…なんだよ、これは」


 慧斗はうなった。喉からぐるるるるという獣のような声が出る。歯噛みするほど悔しくて苦しく、今自分の置かれている状況がどうなのかより、どこにもぶつけることのできない怒りが、慧斗により深い絶望感を植え付けた。


 しかし、これが虚構なら良かった。いくらつらい想いをしようとも、耐えられる自信がある。しかし、そうではない。


 見させられた映像には、どれも痛みを伴い、どれも真実だと分かってしまったからだ。


「さぁ、十分悩んだであろう。3つの扉からひとつを選んでもらおうか」


「3つとも、どれもじゃないか」


「そう。どれも真実であり、見方によってはバッドエンドでもあり、グッドエンドでもある」


「やり直しできると言ったのは、偽りか!?」


「愚か者。やり直しはできたであろう。2度もやり直しができた」


「どこが!?」


「その時々のお前の選択、お前自身の決定がこの結末を生んだんだろう!何度も何度も!やり直したいと言ったな?その度、お前には選ぶ道がいくつもあった!その中から選んだものを、毎回毎回やり直したいという。実に愚かなおこないだ」


 慧斗はのっぺら坊に気圧されてしまう。のっぺら坊の言うことは正しい。ぐうの音も出ない。反論もできない慧斗を、さらにのっぺら坊は追い詰めてくる。


「反対する母親を振り切って戦地におもむいたのは、自分の意志だろう!?死にかけてる母親を置いて、わざわざ死にに行くなんざ、さぞかし満足しただろうが!」


「それは…違う。そうじゃない。そうじゃない!」


「へえ。なにが違うのか教えてもらおうか」


「戦場カメラマンは崇高すうこうな仕事だ。死にに行くために、戦地に行ってるわけじゃない。世界中の人々に、惨状さんじょうを報道することが必要だと感じたからだ。俺にはちゃんとした使命感があった。誰かがしなければいけないことなら、俺がしたっていいじゃないか」


「ならば…満足だろうが。なにを迷うことがある?」


 慧斗の目の前に、暗くなった3つの扉が近づいてくる。今すぐに選択しろとばかりに、扉ががたがたと今にも扉を開けたそうにしている。まるで、扉自身が自らの意志を持っているようであった。


「いやだ!絶対にいやだ!この3つからは選べない。いや、


 のっぺら坊は黙った。無音の空間が数時間続き、ようやく話し始めた男の顔には恐ろしい顔が浮かび上がっていた。ものすごく恐ろしい形相で慧斗をにらみつけた男は、口惜くやしげに唇を引き絞ると


「………言ってしまったな」


と、うなる。その顔を見てひるんだ慧斗は、その場で尻餅をつく。その状態で男からできるだけ遠ざかろうと、後退あとずさりを始める。このときの慧斗の顔は恐怖に引きつっていたに違いない。


「なにを…?」


 しかし、気づけばおぞましいほどに顔を歪めた男が、天秤の皿の反対側から、いつのまにか慧斗のいる皿へと移動してきていた。そして男が指を高らかに鳴らした。


 扉は目の前から一瞬にして姿を消した。代わりに、大きな穴がぽっかりと天秤の中央付近に開く。


「第4の選択をするというのだな」


「第4?もう1つの選択肢があるのか?」


「そう。これを選んだ者は———自分の目で確かめてみるがいい」


 そして、慧斗の体は大きく開いた穴から放出される不思議な引力に引っ張られ、中へと吸い込まれていった。

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