【3】白い扉

「ああ、もう!あなたは、本当に役に立たないんだから!」


 そういって慧斗を罵倒ばとうするのは、妻のカレン。6年間付き合った彼女とは、高校を卒業後まもなく結婚した。現在結婚して5年目。2人の間には、5歳と3歳の2人の男の子がいる。


「もういいから、そこで子供達の面倒を見ててちょうだい」


 カレンはそういうと、1人でバーベキューの準備を始めた。


 慧斗は決して要領が悪いわけでも、不器用なわけでもない。ただ単に、カレンにとっては自分以外の誰かのする行動が、すべて気に入らないだけなのだ。いつも自分の思い通りにならないと、ヒステリックに怒っては、相手をこき下ろす。彼女にとっての起爆剤は、なんでもよいのだ。


 中学高校の頃は強くて頼りがいのある性格だと思っていた彼女が、プライドが高くて周囲の誰も信用していない偏屈へんくつな性格だと知ったのは、結婚1年目の子供が生まれたばかりの頃だった。子育てのストレスというにはあまりの変わりようだった。豹変した、という表現の方がしっくりくる。あるいは、これが彼女の本性だったのかもしれない。


 いつものように慧斗は子供たちの手を引くと、庭のプールで水遊びをする子供たちを見守る。理想的な父親と子供たちの仲睦なかむつまじい穏やかな光景。しかし、心は穏やかからは程遠かった。


 と、突然子供たちは泣き始め、慧斗を大きな目で恨めしそうに見ると、結局母親の元へと走っていく。まるで調教されたペットのようだ、と思った。慧斗は大きくうなだれた。


 ときに慧斗の友人たちを家に食事に招くこともあったが、ここでもカレンの態度は変わらなかった。あろうことか、慧斗や友人たちの目の前で揶揄やゆするのである。「うちの旦那は稼ぎも悪いし、役立たずで本当嫌になっちゃう。いるだけで邪魔なのよ」などである。


 その度、慧斗の胸にはこの言葉が浮かぶ。



《どこで間違ったんだろう》


《こんなはずじゃなかった。やり直せれば…》



 慧斗は自分に唯一懐いてくれる犬———タロ———を抱き上げると、タロはクーンと泣き、慧斗のほほを優しく舐めてくれる。タロだけが慧斗を慰め、癒してくれる存在だった。


 不意にため息を吐いたとき、会社から電話がかかってくる。“救いの電話だ”と思った。


 二の句を告げず「すぐに向かいます」というと、カレンと子供たちを置いて会社へと向かう。休日出勤がこれほどに嬉しいこととは。最近の慧斗にとって、会社がなによりも癒しであった。



   ◇ ◇ ◇



 慧斗には、小学生の頃から2つ夢があった。1つは、物心ついたときには始めていた水泳でオリンピック選手になって、金メダルを取ること。もう1つは、カメラマンになって、世界中を飛び回ることであった。


 水泳では中学の頃に国体で新記録を出したし、世界水泳での選抜チームに選ばれたこともある。


 カメラも双子の兄が、小学校低学年の頃に父に買ってもらったカメラを、兄が使わないのでお下がりでもらったところ、みるみると頭角を現した。カメラを始めてすぐに国内のフォトコンテストで優勝し、小学生ですでに神童、あるいはカメラの申し子と呼ばれていた。


 水泳は伯母が入院し、面倒をみることで諦め、カメラはというと、彼女の妊娠を機に封印した。慧斗の胸には、ふつふつとしたやるせない怒りと後悔が残ってしまった。



《こんなことなら、諦めなければよかった》


《なにもかも、やり直したい》



   ◇ ◇ ◇



 ある日、慧斗のスマホに見慣れない電話番号が表示される。電話口に出てみると、聞き覚えのある声が向こうから届く。マサ先輩だ。高校卒業以来だから、5年ぶりだろうか。


 電話口に出るなり、マサ先輩はいきなり切り出した。


「慧(マサ先輩はこう呼ぶ)、お前世界を変えてみたくない?」と。


 マサ先輩は高校のときの1つ上の先輩で、水泳部では慧斗と同じく国体で優勝するほどの実力者であり、背泳全国1位の実力を誇っていた。成績も良く人柄も素晴らしく、おどけた性格とは裏腹に真面目なとこもあり、常に周囲には人がいた。先生からの受けもよく、先生みんなから可愛がられていた。いわゆる、学年に1人は必ずいるような、みんなの人気者であった。


 実際、慧斗も例に漏れずマサ先輩を慕っていた。慧斗がずっと憧れている存在であり、彼以上に尊敬できる人はいなかった。


 その彼が、電話口の向こうにいる。いつになく興奮した。確か彼は高校卒業後にヨーロッパに渡り、帰国後に一流グローバル企業に勤めたのではなかったか。


「ひさしぶりだな」


と続けたマサ先輩は、ひさしぶりに話す後輩に興奮しているようで、浮かれた様子で話し続ける。


 話を聞けば、マサ先輩の勤めるグローバル企業は、新しくロシアに立ち上げる新規事業の担い手を探しているとのこと。その条件に、慧斗はぴったりだというのだ。


「俺にとって慧はもっとも信頼できる後輩だし、お前以上の推薦候補はいない」


と言われ、慧斗はすぐに快諾してしまった。転職の条件もこれ以上にないほど良かったし、なにより、自分の憧れる存在に“必要とされている”ことが嬉しかった。


 家に帰る途中で、ふと慧斗は考えた。果たして、妻に報告して反対されないだろうかと。えもいわれぬ不安感に襲われた。子供たちも一緒についてきてくれるだろうか、と。ひと度不安にさいなまれると、すべてが危うく見え、ますます懸念が持ち上がる。とはいえ、その思いが慧斗の決意を止めるだけの力はなかった。


 家に帰るなり、慧斗は意気揚々とカレンに転職について話した。間髪入れず、猛反対された。理由も聞かず、真っ向から反対されてしまったのだ。挙句には


「なに冗談言ってんの?ついてくわけないでしょ。行くなら1人で行けば?そうやっていつも、私1人に子育て押し付けて、本当に何様のつもりなのかしらね」


などと言われてしまう。あまりにも非情な妻の態度に、初めて慧斗は怒りを覚えた。なぜ、これほどにひどい言葉を浴びせられなければいけない?自分が転職すれば、給料だって今よりも2倍以上になる。なにより、自分が今以上に会社にとって必要とされる存在になれるというのに。


 それに、今の仕事についても妻はいつだって文句を言うし、常に馬鹿にしていた。それが今や、今の職場の方がいいだの、ここまで会社に育ててもらって、なんて恩知らずなの、とまで言われてしまう。取りつく島もなかった。


 結局、妻の反対を押し切ると、ロシアへは1人で行くことにした。



   ◇ ◇ ◇



 ロシアに移住して2年後、いきなり妻から手紙が届いた。封筒の中には1通の紙切れだけが入っており、その左上に離婚届の3文字が踊っていた。


 その日は会社のプレゼンがうまくいき、取引先から絶大な信頼を得ることができ、慧斗はご機嫌だった。それが、突然届いた手紙で一気に気分が落とされてしまった。絶望した…と思った。しかし、どこかホッとしている自分もいた。慧斗は驚いた。


 すぐに日本に帰国する航空便を取り、急いで帰路に着く。しかし、カレンとも子供たちとも会うことが許されなかった。弁護士が間に立ち、離婚協議を余儀なくされた。慧斗の思惑など、少しも取り合ってもらえなかった。


 そして、まもなく離婚は成立した。


 子供たちはカレンの実家に引き取られてしまったし、もちろん、父から受け取った遺産を含む預金も、すべて養育費という名の下取られてしまった。家のローンだけを残し家も取られ、財産と名のつくものは、すべて取られてしまった。


  それでも、慧斗は久しぶりの自由を勝ち取ったのだ。



《本当に良かった》


《これで、すべて一からやり直せる》



 しかし、このときの慧斗にとって、離婚はいっときの不幸にすぎなかった。これ以上の不幸は続いたのだ。


 慧斗の勤めていたロシア支店が、まもなく閉鎖することになってしまったのだ。開発事業に失敗し、グローバル企業は事業を縮小するのだという。


 家も家庭も財産も、飼っていた犬も、仕事でさえもなくなってしまった。なにもかも失ってしまったのだ。


 慧斗のまわりの景色が歪んだ。雪の降り積もった針葉樹も、地上一面を覆い尽くす白銀の世界も、なにもかもが歪んで見える。その景色がガラガラと崩れ落ち、その瓦礫がれきに埋もれる自分が見える。俯瞰ふかんで見るその光景は、恐ろしく美しく、それでいてこの上なく残酷であった。


 すぐにマサ先輩から電話が入る。


「心配すんな。日本に戻ってきたら、新しい会社紹介してやるから」と。


 しかし、慧斗の耳にはその声すらも遠く聞こえ、なにも感じなかった。絶望の音だけが慧斗を支配していた。


 そうして、その身を白銀の世界へと溶け込ませていく。このまま埋もれて、誰にも気づかれず、俺はこの世からいなくなるのかな。薄くなっていく空気の中で感じたのは、ひんやりとした死の感触だけであった。



   ◇ ◇ ◇



「白い世界は、ずいぶんと冷たかったであろう?」


 いつの間にか、薄暗い空間に戻されていた。のっぺら坊は天秤の反対側で大きな欠伸あくびをすると、こちらを振り返る。相変わらず、顔は真白なキャンバスのまま。


「いやだ…いやだいやだ。なんでこんなもの見せたんだよ」


「お前が“やり直し”を望んだんだろうが」


「どこがやり直せてるんだよ!?むしろ悪化してるじゃないか」


「都合のいい解釈をするんじゃない。やり直せたからって、いい未来になるとは限らないんだよ。愚か者め」


 悔しさで、慧斗の顔が自分でも歪んでいるのが分かる。歯噛みし、のっぺら坊を鋭くにらみつける。


「こんなの認めない!」


 そういうと、慧斗は天秤の端からもう一方の天秤の皿に向けて、助走を始めた。反対側へと飛び移ろうと考えたのだ。


《この距離なら、飛べる!》


 ほんの3mほどの距離が、飛び立った瞬間に10倍にも膨れ上がった。慧斗はそのまま真っ暗な空間に飲み込まれていく。


 叫ぶ間もなく落ちていくと、そこにはグレーの扉が出現し、大きく口を開けていた。そして、慧斗の体はすっぽりとグレーの深淵へと飲み込まれてしまった。


 遠くでは「愚かな」と言っている声が聞こえた気がした。

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