【2】黒い扉

『ちょっと、慧斗けいと。聞こえてるの!?』


 電話の向こうで、女がなにか言っている。というより、なにか慧斗に対して怒っているような口ぶりである。


 ここで慧斗は思い出す。話してる女は、自分の付き合っている彼女。最近、残業続きで、ここ1ヶ月は1度も会えていない。女の方からしてみたら、怒っても仕方がないのかもしれないが、自分は決して遊んでるわけでも、女を無視しているわけでもないので、怒られるのは心外である。しかし、そんな言い訳が通用するわけもなく


「悪い、花菜かな。うんうん。ちゃんと聞こえてるよ」


相槌あいずちを打つ。本当は内容はまったく耳には届いていなかった。


 花菜は仕方ないなぁと言い、ふたたびとりとめのない話を始める。


 いつもこうだ。少ない空き時間で彼女と電話をしているのに、口を開けばやれなんだの、こうじゃないだの。正直、不平不満は聞き飽きた。


 5分ほどうんうんと話を聞くでもなく、軽く相槌を打つと、いつものように嘘の言い訳をする。


「あ、悪い。部長に呼ばれたから。じゃ」


 女の返事も待たずに、通話終了ボタンを押す。すると、本当に部長から「ちょっと、湯川ゆかわくん」と呼ばれてしまう。部長が「ちょっと」と呼ぶときには、ろくでもないオチがついてくる。


 慧斗は大きくため息を吐くと、一服していた煙草を消し、屋上から室内へと戻ることにする。


 部長からの言いつけで、結局この日も会社に泊まることになってしまう。


 慧斗は人から頼まれると、嫌とは言えない性分である。もちろん、断れないのも性分ではあるが、それ以上に人に任せることに不安を覚えるよりは、自分の手でなんでもした方がずっと安心できるからでもある。


 それに、部長はよく「湯川にお願いすると安心だ。頼りにしてるよ」と言ってくる。慧斗は自分が誰かの役に立てると思えば、少しくらいの無茶でもやってのけてしまう。人から自分が“必要とされている”。それがなによりも慧斗の意欲をき立てた。



 湯川 慧斗は現在22歳。営業部に配置換えになってから3年。それ以前は総務部にいたのだが、営業職になってから忙しい業務が続いている。朝早くからやれ会議だの打ち合わせだのをした後、取引先を回る。昼休憩を取れないこともざらで、気づけば1日が終わっている。そして、土日も休まず出勤している日が、3週間も続いていた。


 自分と同い年の新人達が横を通る。彼らは慧斗から見て“仕事も適当”だし、“上司からのいいつけを守らない”、“残業よりも飲みを優先する”など、ありえない働きぶりである。それなのに、大学卒というだけで自分よりも高いお給料をもらっているのではないだろうか?


 慧斗は思い出していた。自分の父はよく「親の死に目に会えなくても働くことが重要だ。それが男ってもんだ」と言っていた。実際に、父は常に家におらず仕事人間だったし、自分も18歳で働き始めてからは、ほとんど休みなく働き続けている。父が入院したときも「見舞いに来なくて大丈夫」といわれ、病院から連絡が来たときにはすでに父は意識不明。手遅れの状態であった。しかし、これも父の望んだこと。と自分に言い聞かせ、ますます忙しい日々を送ってきた。


 この時期、ちょうど慧斗は別の会社に転職を考えており、父と最後に話した日は、会社の面接試験と予定が重なってしまっていた。面接時は携帯電話の電源を切っているし、電源をつけると残されていた留守電を聴いて急いで病院に駆けつけたものの…父とは結局最期に話すことも叶わなかった。



《これでいいんだ。間違ってない》


《でも、もし………別の人生をやり直せたら》



 このときから、慧斗は口癖のようにこう口ずさむようになっていた。



   ◇ ◇ ◇



 久しぶりの休みの日に、花菜の家に遊びに行くことにした。1ヶ月半ぶりに会う彼女は、髪型も変わっており、別人のようであった。


 花菜の家には1匹の犬がいる。タロという真っ黒い柴犬。元々はタロは慧斗が飼っていた犬であったが、営業職になってから家に帰れない日が多くなってしまったので、当初花菜に「1週間面倒見てて」と、軽い気持ちで預かってもらっていた。それが、今ではすっかり花菜の犬になってしまっていた。


 それでもタロは、最初のご主人様を忘れないようで、慧斗を見るなり慧斗に飛びかかり、尻尾をはちきれんばかりに振り続けた。久しぶりの癒しの時間であった。


 しかし、これから散歩に行こうとしたとき、胸元が小さく振動する。部長からの着信であった。休日にもかかわらずかかってきた電話に辟易へきえきしつつ、もしもしと出ると


「今すぐ会社に来てくれ!海外のクライアントが、どうしても湯川でないと、と言うんだ」


などと言われてしまう。こう言われては、無下むげにはできない。慧斗が用事ができたむねを、申し訳なさげに花菜に伝えると


「休日にまで仕事?もういい加減休ませてもらったら?」


と、責められる。また、不平不満か。


 この言葉を無視するように慧斗は上着を乱暴に掴むと、タロにだけ別れを告げ、振り返ることもなく職場へと向かう。



   ◇ ◇ ◇



 突然、花菜から電話がかかってくる。時刻はまだ昼間。こんな時間に花菜が電話してくることは珍しい。とはいえ、今は車を運転中で、ただでさえ渋滞に巻き込まれ、取引先との約束の時間までギリギリという時間である。


 後続車にクラクションを鳴らされ、仕方なく慧斗は着信拒否のボタンを押すと、再び動き出した渋滞の列を前に進んでいった。


 それから慧斗が花菜に折り返し電話をできたのは、すでに日も終わりかけた夜中の23時であった。


 おかしい。いつもであったら3コール以内に出る花菜が、なかなか電話口に出ない。それどころか何回かけ直そうとも、出なかった。


 結局翌朝になり、慧斗がのそのそと起きかけたところで、ようやく着信が入る。花菜からであった。


 花菜の様子がおかしい。なにも話さないし、電話の向こうからは鼻をすする音だけがしている。もしかして、泣いている?


「…どうした?」


「………んじゃった………」


「ん?よく聞こえない。なんだって?」


「タロちゃん………死んじゃった………」


 ほんの一瞬だったらしい。花菜が散歩の途中に、ケーキ屋の外の看板にタロをつないでいたとき、けたたましい音が辺り一面に響いた。ケーキ屋の前に、1台の車が突っ込んできた。その車にタロはかれてしまったのだ。小さな黒い体が真っ赤に染まり、すでに息をしていなかったそうだ。花菜はその場で小さな体を抱き上げ、すぐに近くの獣医へと駆け込んだが、すでに手の施しようがなかったということだった。


 そこで気づく。昨日は、慧斗の23歳の誕生日であったのだと。花菜とタロは、慧斗の誕生日のために、ケーキを買いに出かけていたのだ。そういえば、その日は“夜遅くなってもいいから、自分の家に来てね”と、花菜はしつこく言っていた。その約束すらも忘れてしまっていたのだった。



《仕方ないんだ…》


《でも、もし………やり直せたら》



   ◇ ◇ ◇



 それから、時間関係なく花菜から電話がかかってくることが増えた。夜はおろか、日中の働いている時間までひっきりなしにかかってくる。花菜はタロが亡くなって以来、精神的に不安定になり、仕事にも行けなくなってしまったようだ。それどころか、メンタルクリニックにも通い始めたのだという。


 ずっと一緒に過ごしていた家族が亡くなったことの意味、その喪失感を慧斗は本当の意味では理解できていなかった。それは、自分の生い立ちにも起因する。



 慧斗の母は、自分が生まれてすぐに亡くなってしまった。顔も覚えていなければ、母との思い出もなにもない。それに、慧斗には双子の兄もいたのだが、兄は自分が10歳のときに事故により亡くなってしまった。


 父はこの頃から働き詰めになり、自分を伯母おばに預けるようになった。伯母には子供がいなかったので、慧斗を実の息子のように可愛がってくれた。しかし、伯母も持病の心臓病が悪化し、慧斗が16の冬に還らぬ人となってしまった。それから2年後、父も過労により亡くなってしまって、今に至る。


 肉親は身近には1人もいなくなり、本当の意味で、天涯てんがい孤独になってしまった。


 家族が亡くなることに、あまりにも慣れっこになり、無感情になってしまっていたのだった。仕方のないことであった。



   ◇ ◇ ◇



 慧斗には、中学時代から高校時代までの6年間ずっと付き合っていた彼女がいた。この彼女はとても強い女性で、少々の悲しい出来事なら笑顔で吹き飛ばすことができ、慧斗の身の上を聞いても、同情するでもなく、息をするようにごく自然に扱ってくれた。慧斗にとって初めての経験であった。


 あるとき、彼女がいじめにあっていたことを知る。しかし、彼女は慧斗に頼ることなく、自分だけの力で克服してしまったのだ。とても頼もしいと思った。


 そんな彼女が、留学することを慧斗に告げたのは、高校3年生の夏であった。相談があるの、と話した彼女は終始不安げに下を向き、到底普段の彼女から想像できないほどに動揺していた。彼女は行くことを迷っていたのかもしれない。なのに、慧斗は引き止めなかった。彼女の夢である通訳の勉強を、邪魔したくなかったからである。


 当然、遠距離恋愛は、彼女が渡米して1ヶ月ももたなかった。それ以来、慧斗の胸の中にはチクリと痛む想いが、たびたび蘇る。



《花菜も、彼女のように強かったら…》


《あのとき、彼女を引き止めていれば………》



 タロがいなくなって、3ヶ月ほどが経過した頃、花菜はようやく働けるまで回復した。慧斗はほっとした。この3ヶ月間、残業もなるべく断り、上司からはぶーぶー言われながらも、できるだけ花菜との時間を作っていた。ちょうどタイミングよく、海外出張で1週間家を空けなければいけない用事ができてしまったので、慧斗は“助かった”と思った。それから1ヶ月、以前のように働き詰めの毎日へと戻っていた。


 そんなある日、夜珍しく早く帰ってきた慧斗は、ソファに横になるなり眠ってしまっていた。そこに花菜から着信が入る。時刻は、23時。


「こんな時間にごめんね。ちょっと、今から会えない?」


 慧斗は考えた。今から会いにいったら、すぐに終電も終わり、電車もなくなってしまう。それに、翌日は朝早くプレゼンがあり、朝6時には会社に行くために準備をしないといけない。だめだ。とてもじゃないけど、体がもたない。


「ごめん、明日早いから無理」


「そうだよね………ごめんね」


 花菜はそういうと、向こうから電話を切ってしまった。いつも慧斗の通話終了を待たずに切ることはないのに…。慧斗はおかしいな?と思いながらも、ふたたび眠りに落ちた。


 それから慧斗の会社に電話がかかってきたのは、昼を過ぎた頃であった。


「今から◯◯病院に来ていただけませんか?」


 嫌な予感がした。全身から血の気が引く音がする。その音をき消すように、続けられる。


櫻井さくらい 花菜さんが、意識不明の重体で運ばれてきました」と。


 慧斗は無我夢中で走った。電車を使ったのか、車を使ったのかさえ覚えていない。ただ頭の中に病院名だけが木霊こだまし、その病院へと体がせわしなくロボットのように動いていた。


 病室を開けると、顔に異常に白い布をかけられたが横たわっていた。見たくなかった。知りたくもなかった。認めたくなかった。確認するまでもない。嫌な予感は的中したのだ。


 花菜は自らの手で、命を絶ってしまったのだった。


 そして、慧斗の世界からはいっさいの色彩が消えた。



   ◇ ◇ ◇



「黒い扉は、お気に召していただけました?」


「召すわけないだろう?これはなにかの冗談か!?」


 キッと慧斗がのっぺら坊をにらみつけると、のっぺら坊はゆらゆらと体を揺らし、慧斗が今まで入っていた黒い扉を異常に長い指で指し示す。そして


「これも、1つの選択」


と静かに言う。


「こんな選択あるか。こんなの、嘘に決まってる」


「これは、実際に起きたことである。それ以上でも以下でもない」


 男の淡々としゃべる様がかえっておそろしく非道に感じ、慧斗は秤の反対側に向かって叫ぶ。


「こんなの認めない!絶対に認めないからな!」


「お前が選んだ道だろう。なにをそんなに息巻いている」


 のっぺりした顔を慧斗に向け、首を左右にゆるりと傾けると、落ちかけた帽子を直しながらのっぺら坊はおもむろに告げる。


「やり直したい。そう言ったな?幾度も幾度も。ならば———」


 のっぺら坊はぐるんと顔を一周させ、ふたたび顔を慧斗に向ける。するとそこには口が浮かび上がっていた。大きく開いた口には、野生の獣のようにとがった牙が覗いていた。そして、告げる。


「その願い、叶えてやろう」


 白い扉が慧斗の前に進み出、扉が大口を開けると、慧斗の体を飲み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る