【4】紫の扉(後)

 ある寒さのとばりが急激に下り始めた冬の日。数年ぶりに日本列島を襲った寒波が、黄色い銀杏いちょうを散らし、代わりに街中が鮮やかな緑と赤の飾りつけで賑やかになった頃。突然、遥香の勤め先に緊急の電話がかかってくる。それは悠人の通う保育園からだった。


 悠人がお遊戯会の準備をしている途中に高熱を出し、救急車で病院に運ばれたというのだ。


 生まれたときから体の弱かった悠人は、夏を過ぎたあたりからよく熱を出すようになった。この日の朝も、ほんのちょっとだけ熱があり、どうしても休めない仕事もあったため、悠人を保育園に行かせてしまった。遥香は後悔した。


 幸い遥香が病院に駆けつけた頃には悠人の熱は39℃まで落ち、2、3日の入院で済むということだった。遥香はほっと胸を撫で下ろした。


「悠人、本当に良かった。お遊戯会には参加できないけど、ちょっとだけ寝てれば、すぐにお家に帰れるからね」


 すると、小さな口から思いがけない言葉が出てくる。


「ママ………ごめんね」


 そう言って、悠人ははかなげに小さく笑顔を作る。


 遥香の胸が激しく揺さぶられた。心の中にやるせない想いがこみ上げてくる。どうしようもない自分への怒りが、遥香を内側からバラバラに崩していくようだった。その形をなんとか留めるためなのか、あろうことか怒りの矛先が無垢な存在に向かってしまった。


「(こんなときまで)なにへらへら笑ってんのよ」


 こんな小さな子に、気を遣わせてしまった。恥ずかしい、と思った。その無用な羞恥心が、遥香を責め立てる。この日、改めて母親としての未熟さを、思い知ったのだった。


 そして、この頃から悠人は笑わなくなってしまった。



   ◇ ◇ ◇



 数日後、無事悠人は退院し、数日ぶりに遥香が職場に行ったときにことは起きた。


 遥香が裏口を開けて中に入ったところ、休憩室から数人の声が聞こえてきた。パート仲間の主婦達であった。遥香が出勤していることに気づかない女性達は、口々に悪口を言っていた。


「若いからって甘えてんのよ」

「そもそも未婚なんでしょ?きっと、男に捨てられたに違いないわよ」

「前々からちょくちょく仕事も休むし、私達が代わりにシフトに入ってくれるってたかをくくってるんじゃないの?」

「それどころか、なめてんのよ」

「ガキがガキを育てるなんて、所詮無理な話なのよね」

「今どきの若い子は、これだから」


 聞くに耐えない罵声ばせいの嵐だった。


 確かに、寒さで凍える日が続いて、悠人のために仕事をどうしても休まなければ行けない日が、立て続けに続いてしまった。周囲に迷惑をかけてしまっていることも、重々承知していた。心の中は申し訳なさでいっぱいだったし、代わりに入れる日はできるだけシフトに入ったし、自分なりに誠心誠意を尽くしてきたと思っていた。それなのに………


 最終的には未婚の母のせいだと言われ、自分は周囲から差別されてしまう。若いからと優遇してくれる店長の態度も相まって、遥香は周囲からの嫉妬の餌食にされていたのだ。


 どうしても休憩室に入ることができず、結局遥香は遅刻してしまった。そして、悲劇が遥香の身に降りかかる。


「こう何日も休まれた上に、遅刻までされたんじゃ、困るんだよね」


 店長室に呼ばれ、中に入るや否や、店長からお叱りを受けてしまう。叱られて当然だと思った。ここで終わるものと思っていたら、続きがあった。


「申し訳ないけど、周囲に示しがつかないし………飯塚(遥香)さんには、今日いっぱいで辞めてもらうよ」


 遥香の心の中は限界にきていた。この上ない孤独を感じてしまった。明日からの不安に苛まれ、思ってはいけないことを脳裏に浮かべてしまう。



《どこで、わたしの人生間違ったんだろう》


《どこかに、やり直せるボタンないかな…》



   ◇ ◇ ◇



 ますます、遥香と悠人の生活は苦しくなった。苛々することも増えた。最近では、口を開けば不平不満が出てきそうになり、ため息ばかりが出る。


 とりわけ家計簿をつけているときが、1番苦しかった。この時ばかりは、現実から目を背けることもできない。0の少ない残高が、非情な現実を遥香に突きつけてくる。以前よりも長時間働いているのに、暮らしは楽になるどころか、苦しくなるばかり。本当に体も心も限界だった。


 そんなとき、母親の言葉を思い出してしまった。


「『あんたなんて産まなきゃよかった』」と。


 まさか、そのまま口に出していたなんて、思いもしなかった。


 悠人の寝ている床の間を覗くと、悠人はぐっすり眠っていた。その表情は天使のように愛おしく、悠人だけが遥香を癒してくれる唯一の存在だった。


 《良かった…》



   ◇ ◇ ◇



 桜前線が日本列島を北上し、いよいよ東京でも開花宣言が発表された。


 朝から悠人は上機嫌だった。悠人は笑いはしないものの、遥香にはそれが分かる。


 いつものようにテレビ画面にかじりついていた悠人は、桜の映像が流れるといきなり立ち上がり、遥香の元へと駆けてきた。そして、出勤の支度と朝食の用意をしている遥香の袖を引っ張る。“桜を一緒に観に行こう”と言っているようだ。


「今日は忙しいから無理よ。また今度ね」



 ちょうど昼休憩に入り、自分のロッカーから弁当を取り出そうとしたとき、保育園から遥香に電話がかかってきた。今度は携帯で着信を受けることができた。ホッとしたのも束の間、恐ろしい言葉が保育園の先生から発せられる。


「悠人くんが、いなくなりました」と。


 遥香は走った。仕事もほっぽり出し、取るものもとりあえず、保育園へと向かった。頭の中にあったのは、ただただ祈りの言葉だった。


《お願い…無事でいて》


 保育園では先生達と、近くに住む有志とで構成された捜索隊が出ていた。遥香はお辞儀だけをし、すぐに付近を探し始める。


 保育園の周りはすでに探し尽くしたのか、諦め顔で歩いている捜索隊の面々が遥香の目に映り込む。


 そのとき、フッと遥香の目に美しい桜の花びらが触れる。そういえば、桜が開花したのだという。


 まさかと思いながら、遥香は川へと走っていった。


 川には1人で行ってはいけないよ、と悠人にはきつく言いつけていたはずだ。本当に、きつく言っていたのだろうか?もしかして、甘かったのかもしれない。悠人は賢い子だ。自分から危険なことなんてするはずもない。でも、桜を朝からあんなに見たがっていた。次のお休みには一緒に見に行こうねって…わたし、ちゃんと言ったかしら?言ったわよね…。


 遥香の頭の中は矛盾した思いで、混線状態であった。


 桜の香りが、遥香の鼻をくすぐる。橋のたもとに辿たどり着くと、遥香の全身に花びらが舞い落ちる。と同時に、地面がぽつぽつと水玉模様を描き始める。小雨が降ってきたのだ。


《花散らしの雨にならないといいけど》


 遥香の心の中は、どこよりも綺麗に澄み渡っていた。


 きっと悠人はすぐ見つかるはず。もしかしたら、ひさしぶりの悠人の笑顔が見られるかもしれない。「心配かけてごめんなさい」って声も聞けるかも?


 希望に満ちた表情で、橋の中央へと到着する。そのとき、ふと、遥香の耳に水音が響いた。橋の中央から、なんとはなしに、橋桁はしげたを覗き込む。すると、なにかが目の端に映り込む。


 薄桃色の花びらを浮かべた川のさざなみにゆらゆらと揺れる、小さな肢体したいが、そこにはあった。


 人形だと思った。ただの壊れて、水浸しになった人形。あるいは、よくお風呂に浮かべるプラスチック製のアヒルのようにぷかぷか楽しげに浮いている、あの人形だ。


 夢ならいいと思った。夢なら醒めて欲しいと思った。醒めて欲しくないと思った。夢を見続けていられたら幸せだと思った、果てしないどこまでも美しい鮮やかな夢を。


 現実ならいいと思った。現実ならおもしろいと思った。おもしろくなんかないと思った。現実は、遥香から音も光も色彩も奪った。視力でさえも奪われてしまったと思われた。


 変わり果てた無惨な姿を見た遥香は、たった一言つぶやく。そして笑顔を浮かべた。


「きれい」


 遥香の心は、完全に壊れてしまった。



 泣きもしなかった。叫びもしなかった。不気味な笑いだけが無機質な顔に浮かぶ。


 そして、葬儀当日。遥香は小さなひつぎに納められた最愛の息子を目に焼きつけ、静かに目を閉じた。




   ◇ ◇ ◇



「こうやって、お前はんだ」


「違う………」


 顔の真っ黒な異常に背の高い男は、遥香の前で腰を屈める。遥香の顔を覗き込むと、再度ゆっくりと、確実に言葉を発した。


んだよ」


 遥香の中に苛立ちが募る。男に対する苛立ちで、男の胸ぐらを掴もうとしたが、手がすかっすかと空を切り、男には指一本触れられない。


「無駄だと言っただろう」


「なんなの?わたしを責め立てるため、こんなもん見せるわけ?」


「これは、ただの確認事項だ。それ以上でもそれ以下でもない」


 非情な男は、低音を響かせて、淡々と話し続ける。


「次は、3つめの扉を開くがよい。なお、この扉を開いた後は、この空間に戻ってくるが、すぐに扉のうちのどれかを選ばないといけない———」


「いや…絶対にいや」


 間髪入れずに遥香は男に食い下がると、きいっと男をにらみつける。


「3つ目だって、またひどいものを見させられるんでしょ?どうして…どうして、こんなつらい想いをまた味わわないといけないのよ………」


「お前が犯した過ちだろう。自分のやったことには責任を持て」


「違う!違う!わたしのせいじゃない!」


「どちらでもかまわん。最後の扉へと入るが良い」


「もう、最後の扉を見るまでもない。ピンクの扉を選ぶから」


「………本当に、それでいいんだな?」


「そもそも、未熟で身寄りのないわたしが子供を授かること自体、間違ってたのよ」


「誰だって初めての子育ては未経験であり、大変だ。身寄りがない者だって、この世には大勢いる。それに、未熟ならば経験を積めばいいだけのこと。やる前から諦めてどうする。人間なんて、元より未熟に決まっておろう」


「だって…だって………」


 遥香の中に悲しみに打ちひしがれた想いが蘇ってくる。自分の中にこれほどの喪失感があるだなんて。後悔の念に苛まれているだなんて。


 本当は見て見ぬ振りをしていた。だとのだ。


「幸せからどん底まで突き落とされるくらいなら。だったら………だったら!」


 遥香は渾身こんしんの力を振り絞り、叫ぶ。


「最初からない方がいい!!!」


「これを見ても、そんなことが言えるかどうか、試してやる」


 男は遥香の頭上に手をかざす。かざしたてのひらから目もくらむ光が飛び出し、遥香の全身をくまなく包み込むと、最後の扉———水色の扉が開くまでもなく、遥香の体は扉の向こうへと吸い込まれていった。

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