【3】紫の扉(前)


「ああ、もう。ほんと邪魔!1人で遊んでなさい!」


 1人息子の悠人ゆうとは、母親に差し出した玩具おもちゃを申し訳なさそうに小脇に抱えると、いつもしているようにテレビの前に陣取る。


 その姿を確認するでもなく、遥香はテーブルにひじをつくと、吸いかけて灰皿に乗せていた煙草を再び口元へと持っていく。


 ああ、まただ。また苛立いらだちのままに声を荒げてしまった。遥香は自分の気の短さに辟易へきえきする。癇癪玉かんしゃくだまのように弾ける気性が嫌でたまらない。しかし、怒りがどうにも抑えられないのだ。なぜそうなってしまうのか、自分でも分からない。きっと、自分は病気なのだろう。そう思って、結局いつものように煙草をふかしては、頭の痛い家計簿の“今月の残高”の欄を書きつづる。


 書き終わると、しおりはさみ、これから仕事に行くために身支度を始める。


 この栞は大切な人がくれたものだ。それに、大切な人が好きな花でもある。22のことを思い出し、遥香は小さくため息を吐く。


「いい?なにかあったら、お隣のおじいさんのとこに行くのよ?」


 4歳になったばかりの悠人は、振り返り声もなくうなずくと、見ていたテレビ画面に再び顔を戻す。


《ほんと、可愛くない子》


 遥香は浮かんでくる言葉を打ち消すように顔を左右に振ると、いつものように使い古してぼろぼろになった自転車にまたがり、仕事場へ向かうことにする。


 いつからだったろうか。息子の悠人がしゃべらなくなったのは。昔はよく笑う子だった。言葉を覚えるのも周りの子よりもずっと早くて、当時は母親として誇らしかったことを覚えている。それなのに、いつからか息子の笑い声すら疎ましく感じ始め、気づけば息子の顔から笑顔は消えていた。



   ◇ ◇ ◇



 遥香は16歳の夏から、1人で子育てをしている。


 妊娠が発覚してから2ヶ月くらい経過した頃。“自分になら母親業は務まる”“自分は絶対に母のようにはならない”、と自信満々に母に告げた。いつもなら怒る母が、珍しく黙り込んだ。その日から、元々留守がちな母が1週間家を空けることも珍しくなくなった。


 そして、2ヶ月くらい経った頃だろうか。母はまもなく家を出て行ってしまった。その後、音信不通になっている。


 母が離婚してから10年、ここ2年はまるきり会っていなかった父の弟——叔父さん家族と一緒に暮らすことになった。叔父は父よりも10歳も歳下で、4年前に亡くなった父の代わりに、たまに遥香の家にやってきては遊んでくれていた。


 叔父には家族がいて、その家には子供が2人もいた。自分より6歳も小さい9歳の男の子と、10歳も小さいようやく幼稚園に通い始めた5歳の女の子がいた。


 優しい叔父は奥さんを説得してくれ、遥香はすぐに叔父夫婦と養子縁組を組んだ。新しい家族には、最初こそもてなされたものの、1ヶ月もすると腫れ物を触るように扱われた。その家の母親は子供に優しかった。手を上げることもなかったし、声を荒げることもなかった。むしろ、子供に甘すぎるくらい甘やかしていたので、子供達の方が遥香を邪険に扱った。


 遥香は15歳にして身重みおもの体。高校にも通わず、ほとんど血の繋がっていない家族と暮らしている。近所からも陰口を叩かれるであろうし、仕方のないことではあるが、あまりにも居心地が悪い。遥香は自分の体を、新しい義理の母は遥香を持て余した。



 当時は近所に住む遠縁のおばさんに連れられて産婦人科に通い、毎日が充実していた。日に日に大きくなる自分のお腹に向かって、「元気に生まれてきてね。ママが幸せにしてあげるからね」なんて言っていた。


 たとえ他の子と同じように高校に通えなくても、遊ぶお金欲しさにバイトができなくても、全然気にならなかった。人生で今が1番幸せだと思っていた。



 ある日、すでにお腹がはちきれんばかりに大きくなっていた遥香が横断歩道を渡っていると、曲がり角を曲がったばかりの背後から来た自転車にかれそうになった。遥香はとっさに身をひるがえし、お腹をかばったが、その拍子に足を道路脇の溝に引っかけてしまい、全治3ヶ月の大怪我を負ってしまった。出産予定日まで3週間と迫った頃であった。


 お腹の子供を守れた喜びのせいか、怪我は少しも痛く感じなかった。歩けないために入院もしたが、新しい家族と一緒に住む必要もなくなったため、この3ヶ月が遥香にとって1番心が安らげる日だったに違いない。


 そうして生まれてきてくれた子供が、悠人だった。遥香にとって人生で最良の日だった。



   ◇ ◇ ◇



 止める義理の両親を振り切って、悠人が生まれて2ヶ月ほど経った頃、遥香はマンションを借りた。借りたとはいっても、しばらくは働けないので、義理の父(叔父)に援助をしてもらっていたのだが、実質上遥香は16歳の夏にして、独り立ちしたといえる。


 16歳といえば、まだ世間では高校1年生であり、親のすねをかじるのが当たり前の年齢。まだまだ甘えたい盛りの遥香も、母親になってしまった。子供と2人きりで暮らすのに不安はあったものの、肩身の狭い思いをして義理の両親の家に厄介になるより、ずっと良かったのだ。


 しかし、そんな日々もそう長くは続かなかった。


 遥香が18歳になるかならないかの夏、悠人は2歳になりたての頃、ついに義理の両親からの援助を打ち切られてしまった。叔父家族の子供達が受験を控えていたのと、事業がうまくいかない時期が重なってしまったからだった。


 そこから2ヶ月は、1人でバイトを掛け持ちしてなんとかしのいでいたものの、さすがに預金が尽きてしまった。


 思い悩んだ遥香は、悠人の実の父———春樹に相談することにした。春樹には自分が妊娠したことも、当然子供を産んだことも伝えていない。


 高校3年生に上がった春樹は、医学部受験を控えて忙しい日々を送っていた。春樹の実家は、その地域では有名な資産家で、なに不自由ない生活をしていた。


 遥香は、ことを簡単に考えてしまっていた。息子の存在を告げれば認知をし、自分と息子共々生活の面倒を見てくれるのではないかと。


 しかし、この認識が甘かった。


 春樹の家の呼び鈴を鳴らすと、すぐに春樹が出てきた。彼は多少驚きはしたものの、2年半ぶりに会った昔の恋人に会えて嬉しそうであった。春樹も未だに遥香が好きだったのかもしれない。それくらい顔を紅潮させ、優しく家の中に出迎えてくれようとした。それが、背後に隠れていた悠人を紹介した瞬間、春樹の態度が一変した。


 悠人を見るなり春樹は動揺し、説明を聞きながら彼の顔色が変わってきた。見るからに怒っているようだった。そして、どんなに説明をしようとも知らないの一点張り。挙句には、遥香の1番言われたくない言葉を聞かされてしまった。


「本当に、俺の子か?」と。


 タイミング悪く背後から春樹の母親が近づいてきたせいもあったのだが、遥香の知るところではない。そのまま玄関から外に追い出されると、扉を閉められてしまった。


 春樹は受験期であったし、寝てないこともあり、精神的に不安定になっていたため、ひどい態度をとってしまった。後から遥香達を追いかけようと家を飛び出したが、その姿は近所のどこにもなかった。



   ◇ ◇ ◇



 秋口になり、18歳になった遥香には、多少は選べる仕事の幅が広がった。悠人も2歳になったタイミングで、ちょうど区が運営する保育園に空きができ、日中は預けることができるようになった。


 できるだけ悠人と一緒に過ごすためには、割の良い賃金を選ばないといけない。とはいえ、人様にいえないような仕事は選ぶことはできない。高校にも行っていない遥香にとっては、多少 間口まぐちが広がっただけで、職業選択の自由などほとんどないに等しい。


 日中はスーパーの惣菜コーナーで働く。ここではまかないと、その日余った惣菜がもらえるので、遥香にとってこれほどありがたいことはない。


 夕方に悠人の迎えに行き、家に帰ってご飯を食べさせてからは、夜の居酒屋のバイトをする。そして、たまに近所に住む遠縁のおばさんに悠人を預けられる日には、深夜も交通整理のバイトをする生活が続いていた。くたくただった。どれだけ遥香ががんばろうとも、ほとんど自由になるお金も時間もない。


 それでも、毎日が幸せだ。そう自分に言い聞かせては、また働く日々。ここでは、遥香自身幸せを感じることができた。



 義理の母親が月1で遥香に電話をかけてくる。優しい彼女は、いつも


「ちゃんと食べていけてる?困ってるならいつでも言って。うちに余裕があるわけではないけど…。もし本当につらかったら、いつだってこっちに戻ってきてくれてもいいのだから。ね?」


とは言ってくれる。しかし、その言葉はおそらく義理の母の罪悪感から出てるものだろう。言葉を額面通りに受け取ることはできない。それに、遥香が自分から“1人で子育てをする”と言った手前、甘えることなど申し訳なくてできない。


 遥香は嘘をつくことしかできなかった。


「大丈夫!悠人のお父さんから援助してもらえることになったから」と。



   ◇ ◇ ◇


 悠人が3歳になったばかりの夏。いつもであったら保育園から帰るときには絶対に通らないであろう道を歩き、大回りして帰ることにした。


 そこは、川が東西に長く伸びており、その上に朱い橋が虹のようにかかっている。そのすぐ脇の川縁かわべりには、青々とした桜の木が緑の絨毯じゅうたんを敷き詰めたように、見渡す限り植えられている。


 遥香は悠人の視線までかがむと、橋からすぐのところまで枝を伸ばしている1本の桜の木を指差す。


「あの木ね、“桜”って言うんだよ」


「さく、ら?」


 悠人は不思議そうに遥香を見ると、桜の木と遥香の顔を交互に見つめる。


「そう、桜。あの桜の木にはね、悠人のおじいちゃん、ママのパパが大好きだったお花さんが咲くんだ」


「おはなさん?ほいくえんのかだんのたんぽぽみたいなおはな?」


「んとね、もっと可愛くって小さくって、とっても綺麗なお花よ」


 悠人はますます不思議そうに首を傾げる。それに、桜の枝にちいさな腕を伸ばして触りたそうにしている。遥香が悠人を桜の木のすぐそばまで抱き上げると、悠人は一瞬びっくりするが、1枚の葉っぱに指先を触れさせると、その顔はパッと薄紅色に輝き、桜の花が咲くよりも満開の花を咲かせている。遥香はその表情がたまらなく愛おしくて、言葉を続ける。


「それにね、この桜の木はもう1つ素敵な思い出があるんだよ♪」



 遥香は思い出していた。それは、中学1年生の春。遥香が入学して1週間が経った頃。その日は父が亡くなってちょうど1年であった。桜の花が咲き始め、学校の庭に植えられている桜の木の下で、1人佇たたずんでいた遥香に、1人の男の子が話しかけてきた。


「桜、好きなの?」


 同じクラスの春樹だった。まだクラスに馴染んでいない遥香に、初めて声をかけてきてくれた男の子だった。


「んー、好き…なのかなぁ。よく分かんない」


「なんだ、それ」


 春樹はいきなり吹き出した。顔をくしゃくしゃにして笑うとできる目の下のしわが、その男の子の優しさを物語っている。


 遥香には笑われる意味が分からなかったが、男の子が楽しそうにしているので、思わず桜の思い出を話し始めた。いったん話し始めると、せきを切ったように、思い出が蘇ってくる。


 自分の父が桜が好きであったこと。春になると、自分をよく桜が見える公園に連れて行ってくれたこと。下手くそな不格好なおにぎりを作ってきてくれたこと。桜を見てるのに、おにぎりの具が梅干しで、なんだかおかしいね。と笑い合っていたこと。


 春樹はずっと笑顔を絶やさず、遥香の話を聞いてくれていたが、あるときからなぜか真剣な表情になっている。遥香が泣いていたのだ。


 その前の年の春は、寒い日が続いたためか、4月の第1週を過ぎても桜が咲き始めていなかった。父は大好きな桜の花を見ることも叶わず、そのまま息を引き取ってしまった。「桜の花を見るまで、俺も死ねないな」と言っていたのに………


 泣いてる理由を、春樹は無理に聞き出そうとはしなかった。代わりにささやかなプレゼントをくれたのだった。



「悠人のパパは桜の枝を折って、ママにプレゼントしてくれたんだぁ。“ないしょだぞ”って言ってね。本当は桜の枝は折っちゃいけないんだけどね♪」


 悠人は内緒の意味が分からなかったのだろうか。もしくは、“悠人のパパ”という言葉が初めて聞く言葉で、理解できなかったのかもしれない。遥香は悠人のパパ———春樹の話を悠人に話したことは、それまで1度もなかったからだ。


「悠人には分かんないかぁ。まだちっさいもんね。春になったら、その可愛くって綺麗なお花さん、見られるからね。来年の春になったら、一緒に見ようね、悠人♪」

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