【2】ピンクの扉
「ちょっと、
遥香の顔を心配そうに覗き込んでくるのは、親友の
「あ、ごめん。なんの話だっけ?」
「だーかーらー。今週末に合コンやるって言ったじゃん?その
「いや、ごめん。合コンとか異性とか、まったく興味ないから」
「興味ないってさー。もう次の誕生日でうちら20歳だよ?そろそろあんたも彼氏の1人でも作らないと、変な女だと思われるって———」
「ほんっと、ごめん!急ぐから」
「だめ。行かせないよ?」
遥香は両手を顔の前で合わせ、ごめんのポーズをすると、タイミング良く始業のチャイムが鳴る。真希は掴んでいた遥香の袖を離し、仕方なく無下に断る親友の後ろ姿を見送った。
この時間、本当のところ遥香には受ける授業もなかった。とりたてて用事があるわけでもなかった。ファミレスのバイトは夕方から入っているものの、現在時刻は13時。それまで暇を持て余していたくらいだ。
遥香には異性という異性に一切興味がない。というより、交際する意味が分からなかった。親友や女友達は、口々に彼氏の悪口を言うし、どう見ても自分より幸せには見えなかったからだ。
とは言え、今の自分の生活が充実しているとも思っていなかった。大学に行き、その後週5でバイトをするだけの毎日。そんな日々にどこか
大学のキャンパス内を楽しげに歩くカップル達。そんな人達をしかめっ面で思わず見つめている自分に気づき、遥香は被っていた帽子を目深に被り直し、そそくさと校門へと向かう。
《どこで自分の人生間違ったんだろ》
《どっかに、人生やり直せるボタンないかな》
遥香は思い出していた。中学生の頃、初恋の彼がいたことを。手を繋ぐのも恥ずかしくてできず、顔を合わせるのも照れ臭くって、よくお互いそっぽを向いて話していたっけ。そして、その彼とは交際6ヶ月で遥香の方から振ってしまったことを。
振ってしまった理由など、思い出したくもないと、遥香はため息を吐く。あんなことがなければ、別れることもなかったのかもしれない。あんなに大好きで、“この人しかいない”と思って、生涯気持ちは変わらないと思っていたはずなのに………あんなことさえ………
そのとき、うっかり通りの向こうからやってきたベビーカーとぶつかってしまう。自分も
《人にぶつかっといて謝りもしないし、気づかないとかありえない。ほんと、何様のつもりなんだろ。まったく………これだから母親ってやつは》
遥香は思わず心の中で毒づく。滅多に怒りなど感じないはずが、心の中になにか
《落ち着け落ち着け…もう、あの人と会うことはないんだから》
胸を締めつけ、苦しめる思いの元凶を、遥香は知っていた。それでも認めたくなかった。なにしろ、あの人には2度と会うことはできないのだから。意味がないことなんだ。考えるだけ無駄。だから、頭から消し去らないと。
大きく息を吸い、吐く。たったそれだけの動作で、遥香の心の中は晴れやかになった。
深呼吸をした遥香に、笑いかけるものがいた。この世で1番
恥ずかしいと思った。自分もあの母親と同罪だ。母親に謝る気はさらさらないけど、赤ちゃんには申し訳なさで、誠心誠意込めて謝りたくなった。しかし、その純粋な思いも、一瞬にして吹き飛んでしまう。母親が子供に向かって怒鳴りつけたのだ。
《嫌なこと思い出した。本当…最低》
遥香には母親がいない。自分が高校に進学する前に、自分を捨てて家を出て行ってしまった。
母は元々だらしのない人で、父と離婚後遥香を引き取ったのだが、料理もしないし家も留守がちで、母親らしいことなどしてもらった記憶もない。いつも男を作っては、その男に
そんな思いから、自分は子供だけはもたない。そう心に固く誓っていた。
もはや母の顔すら覚えていないし、生きてるのかすら知らないが、男に捨てられていたらいい。あるいは、どこぞでのたれ死んでくれてればいい。そう思っていた。
《母親になる人の気が知れない》
遥香は遠くなっていく母親とベビーカーを
◇ ◇ ◇
都内に何百店舗も展開している有名ファミレスが、遥香のバイト先だ。ファミレスに着くと、近くの大学で学祭があるせいか、店内は客でごった返しており、遥香もバイトに入ってくれと頼まれる。
2時間もした頃、あるボックス席に見覚えのある顔を認める。4人組の男性客の1人が、どこかで見たことのある顔なのだが、なぜだか思い出せない。
その席の担当になったため、注文を取りに行く。と、その見覚えのある客と目が合う。向こうも遥香に気づいたらしい。互いに「あっ!」と声を発し、男の方が声をかけてきた。
「あれ、遥香?飯塚 遥香じゃない?」
声を聞いて、遥香も思い出した。中学の頃の初恋の彼だ。随分と背は伸び、顔も男っぽくなったが、笑うと目の下にしわが出る顔に面影は残っている。
うっかり当時の呼び方「
「お客様、ご注文はお決まりでしょうか?」
と他人行儀に接する。春樹はというと、不思議そうに遥香の顔を眺めては首を傾げ、また顔を見つめる動作を繰り返している。遥香は“しまった”と思った。まさか、自分が勤めているバイト先の近くの大学に彼が通っているとは…
“ハルハル(遥香と春樹)コンビ”と周囲から呼ばれているくらい、彼と仲良しなのは周知の事実だった。1年の頃から春樹とは意気投合し、最初は異性として意識したことすらなかった。同性の友達のように、いつも一緒に帰っては遊び、時にはやんちゃをしては先生に叱られたりもした。
2年生になってすぐの夏前くらいだったろうか。春樹の方が遥香を意識し始め、目が合うと逃げる日々が1年近く続いた。
そして、3年生になり、春樹と同じクラスになったことで、急速に2人の仲は接近した。すぐに異性としてお互いが意識し、夏前には春樹の方から告白をしてきた。そして、2人は晴れて付き合うことになったのだが、ある事件をきっかけに、遥香から振ることになってしまった。
《また…嫌なことを思い出しちゃった》
遥香は注文を取り終えると、ちょうど休憩時間になり、休憩から戻ってきた時には、彼の姿は店内にはなかった。遥香はほっとしている自分に、なんだかおかしくなって、客の前にもかかわらず思わず笑ってしまった。
本当は、4年ぶりに会った彼に、内心どきどきしてしまっていた。心臓がドクンドクンと
そして、それから2時間後に、再び遥香の心臓が破裂しそうに高鳴る出来事が起きる。
「やっぱりそうだ!遥香だよね?間違いない」
店の裏口を出たところで、1人の男性に腕を掴まれた。春樹だ。自分のシフトが終わるのを、待ち伏せしていたに違いない。
「さっきはいきなりだったから、びっくりしたんだよな?俺のこと覚えてるよね?中学のとき一緒だった春樹だよ」
「………知りません。どなたかとお間違えではないですか?」
遥香は春樹から顔を背けると、そしらぬふりをした。
「え、なんで。その顔と声、絶対に遥香に間違いないって。なんで無視するん?」
春樹が遥香の両肩を掴んだ。すぐ目の前に彼の顔が…そのまつげの長い潤んだ瞳が、遥香の目に映りこむ。どきどきが止まらない。まるで全身が心臓になったように、バクバクと脈打ち、熱を帯びてくるのが分かる。4年経った今でも、彼を好きな気持ちに気づいてしまった。間近で見た彼の顔は、当時よりもずっと大人っぽく素敵に映った。
「や…やめて」
たった一言。それが遥香の精一杯だった。泣きそうになる自分をなんとか抑え、掴まれた肩を手で押し
5分ほどしたところで、ビルの間の
《わたし…春樹がこんなにも好きなんだ…》
と同時に、思い出してしまった。
《 あんなことなければ、良かったのに…!!!》
叫び出したい想いと、逃げ出したい想いとが交錯し、当時の思い出が色鮮やかに蘇る。ビルとビルの間に、深い闇が落ちた。
◇ ◇ ◇
中学3年の秋も色づいてきた10月。その日、たった1度の過ちを犯してしまった。
両親が留守にしていた春樹の家に泊まったことで、ことは起きてしまった。そのほんのちょっとの油断が、一生を左右するのではと思われた。
幸せの絶頂からどん底にまで落とされたのは、それから2ヶ月もした頃であった。
遥香は身体に違和感を覚え、普段見向きもしない母親に訴えると、病院に連れていかれた。“妊娠”していた。
母親は
母親は言った。たった一言。けれど、1番彼女に言われたくない一言を。
「
そして1週間後、再び産婦人科を訪れた。半ば強引に、
母親が乱暴に何かを突き出した。遥香のお腹の中のエコー写真だった。受け取ろうとしたときに、乱暴にぐしゃぐしゃに丸められ、そのままごみ箱に捨てられてしまった。遥香は一言も発さず、ただただごみ箱を見つめることしかできなかった。
そうして、家に帰ったときだった。遥香の胸に、突然激しい痛みが襲った。その痛みの原因がなんだか分からなかった。押し潰されそうな想いだけが、全身を抜けるように貫いた。
罪悪感に
そのとき誓ったのだ。“自分は2度と人を好きにならない”“子供をもつ権利もない”のだと。
◇ ◇ ◇
気づけば、薄暗い部屋に戻されていた。男が目の前に立っており、顔を覗き込むようにして
「ピンクの扉は、いかがでした?」
扉の中に入るまえより、幾分優しい声色で男は言う。しかし、黒い顔は少しも笑っていない。声とは真逆に怒っているのでは?と遥香は思った。
「さい…てい………」
頬に冷たい感触を感じる。何も感じないはずだった。この4年間1度として泣いたことはない。どれほどの罪を犯したかを思い知り、あの日の想いをこの4年間片時も忘れたことはない。自分には泣く権利はないのだ。それなのに、目からは止めどなく涙が溢れて、止まらなくなっていた。
どれほどの時間が経過したのか、すぐ側にいたはずの不気味な男の姿は部屋のどこにもなかった。
代わりに1番右の紫の扉の周りだけが明るく輝き、扉の向こう側からの光が四隅から溢れ出してきているのだと分かる。
「次は、紫の扉に行けってこと…かなぁ」
遥香は恐る恐る紫の扉に近づき、扉のノブに手をかけようと手を伸ばしたとき、扉の方からその身を開いていく。あたかも扉自身に意志があり、遥香をおいでおいでと誘っているようだった。
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