【4】 黄色い扉

 目の前には————今にも泣き出しそうな母の顔と、腕を組んで呆れた表情で俺を見下ろす父の姿があった。


 なぜ、こうなった?俺はなにを間違えた?なにか、言ってはいけない————許されざる言葉を言った気がする。そのたったひと言が、俺と両親とを引き裂くことになる、決定的な


 だめだ。頭に血が上ったせいか、こうなってしまった経緯いきさつがなにも思い出せない。


 ————そのとき、リビングの奥の部屋から小さな子供の泣き声がした。やっと3歳になったばかりの妹が、目を覚まして隣にいない母の姿に不安になったか、ただならぬ空気を感じ取り泣き出したようだ。母はそれまでの出来事はなかったかのように、妹をあやしに行ってしまった。


「————柚子ゆずちゃん、ごめんね」


 と妹を優しくあやす声が、奥の部屋から漏れ聞こえてくる。ほら、いつもこう。この3年間、妹が生まれてからずっとそうだ。どんなに大切な話をしていようが、俺がいくら母親に呼びかけようが、妹が泣き出せば、他のことはすぐに投げ出されてしまう。常に妹につきっきりの母。なにを差し置いても、妹が1番大事な母。3年間、片時もその関係は崩れていない。


 父は父で、ほとんど家にはいない。朝早くから家を出て遠くの会社まで行き、夜遅くまで「残業だから仕方ないだろう」と言いながら、家を空けている。放任主義と言えば聞こえはいいが、ただ単に父は俺や家族に興味がないのだ。実際に父親らしいことをしてもらった覚えもなければ、顔すらも合わさない日々が続いている。特にこの3年、母を介してでしか、父と会話した記憶しかない。当然、高校受験に関しても、将来の進路に対しても無関心この上ない。父は俺の交友関係の1つですら把握してないのではないだろうか。


「で…どうするんだ?」


 藪から棒に、父がいきなり口を開いた。数ヶ月ぶりに父の声を間近で聞く。ただでさえ背の高い父に上から見下ろされ、すっかり見下みくだされた心地がして萎縮いしゅくする。きっと、なにを答えても、父の気にいる言葉などないのだ。普段思ったことを口に出す癖さえも、父の前では無力だ。俺はすっかり黙りこくっていた。


 すると、母が突然奥の部屋から大声で叫ぶ。なにかを言いかける父。しかし、なにも言わず、溜め息を吐き、母を呼びかけるとどこかに行ってしまう。結局、俺の顔を一瞥いちべつしただけで、奥の部屋へと消えてしまった。父の背中が、と、無言でもの語っていた。


 その背中を見て、俺は我を失ってしまった。


 口からなにかが飛び出してくる。ドス黒いもやのようななにかが。その靄が空間全部を覆い、俺から一切の思考力を奪い去ってしまった————


 ————俺はそのまま家を飛び出した。背後からなにか聞こえた気がしたが、振り返りもせず駆け出していた。



   ◇ ◇ ◇



 学校に着くと、すでにホームルームが始まっていた。クラスにいる生徒全員がうつむいており、クラス中が静まり返っていた。そういえば、この日は大事な話し合いがクラスであるって、前日の帰りのホームルームで担任が言っていたっけ。


 普段から遅刻の多い俺は、いつものように手でごめんの仕草をしながら、自分の席へと着こうとした。すると、この日は担任が声をいきなり荒げた。いつもはわりと温和で、滅多に怒る姿を見せない担任が、顔を真っ赤に染め上げ、鬼のように怒っている。


「今日だけは、なにがなんでも遅刻しないでって言ったのに!」


だとかなんとか、言っている気がする。しかし耳が拒絶反応を起こしたのか、周囲の音がなにも入ってこない。自分の心臓がバクバクと脈打つ音だけが脳内に響き、その音で緊張とストレスが倍増していく。


 ————なんなんだ。訳が分からない。朝から家では両親に怒られ(内容は一切思い出せないが)、学校では担任に怒られ…。なんてもんじゃないぞ。


 結局、なにをホームルームで話しているか分からないまま、ホームルーム終了の予鈴が鳴り、担任教師は教室を出ていってしまった。


 担任がいなくなった途端、教室内のあちこちから安堵のため息が漏れる。


「おーい!」


と、毎朝やっているように、よう!と、隣の席の男子に話しかける。すると、そいつは俺と目が合うや否や、なにかかのように目を見開き、目をキョロキョロさせると、


「ちょっと…今日は…」


と言い、クラスで1番目立つグループの方へと駆けて行ってしまった。そのグループのメンバーも、誰一人として俺と目を合わそうとしてくれない。


 ————なんなんだ。ますます訳が分からない。もしかして、クラスのみんな、俺を無視してる?これって………いじめ?


 俺の頭はすっかりパニックになり、思考力が奪われてしまっていた。クラス中を見回しても、いつも仲良くしてるやつら、全員俺から顔を背けている。それどころか、くすくすと笑う声まで聞こえてくる。そんな、誰もが自分の存在を無いかのように扱っている中、目立つグループのリーダーである男子が、いきなり声を掛けてきた。


「ちょっと、祐樹さ………しばらく教室から出てってくんない?」


 俺はあまりにも居心地の悪い教室を飛び出した。背後からなにか聞こえた気がしたが、振り返りもせず駆け出していた。



   ◇ ◇ ◇



 いっそのこと帰宅してしまおうかと、下駄箱のある表玄関に向かうことにする。すると、馴染みのある声が玄関付近から聞こえてきた。すぐに “ 香坂 ” の声だと分かる。救いの神———いや、女神がいた!


 俺は久しぶりに香坂と話せる喜びに沸き立ち、背後から静かに近づいて行って驚かす算段を思いついた。ゆっくり、音を立てないように下駄箱の裏側から近づき、いきなり前に回ってワッと驚かせてやれ。それくらいの軽い気持ちだった。


「————くんって優しいのね」


 香坂の笑う声が聞こえる。鈴のように高らかな優しい声色が、耳に心地好い。相手は男子だろうか。低くくぐもった声が、香坂の声より一回り小さく聞こえる。どこかで聞いたことがあるような————


 そのとき————香坂が楽しげに話している相手の姿を、下駄箱の隙間から目視してしまった。俺の1番の親友————進藤であった。


 進藤と…香坂!?2人が仲の良かったことすら知らなかった俺は、2人が楽しげに顔を向き合わせて笑う姿に、すっかりショックを受けてしまった。まさか…2人は………


 進藤は確かに学年でも1、2を争うほどイケメンだし、誰にでも気さくで優しいし、女子の間ではかなりの人気がある。でも、でも…。進藤は俺が香坂を好きなことを、知っているはずだ。面と向かっては報告したことはなくても、それとなく分かるようには伝えてある。それなのに…それなのに………


 ————俺の居場所がない————



   ◇ ◇ ◇



 走ったのか分からない。どうやって来たのかも、もう分からない。


 気づけば————俺は屋上にいた。


 いつもは立ち入り禁止の札が貼ってあるはずが、なぜか札もなく、鍵もかかっていなかった。しかし、その違和感も覚えずに扉を開け、屋上で1人静かにたたずんでいた。


 朝は家で親と喧嘩をし、教室では担任に怒られ、同級生たちからはことごとく無視をされた。さらに、幼馴染と親友が付き合っている———かもしれない。もう、どうでも良かった。


 俺の居場所は、もうどこにもない。

 この世界のどこにだって、ないのだ。


 孤独感と猜疑心さいぎしんとが、俺の全身に深く重く苦しい闇となって降りかかってくる。黒い靄が、今や周囲の色彩すらも奪っていた。


 んじゃない。俺はなのだ。


 遠くに投げ出したスマホが、かすかに振動してる音が聞こえる。屋上に来たときに転んで落とし、そのまま屋上の端から落ちるギリギリのところで踏ん張っているようだった。俺はよろよろと立ち上がり、フェンスにもたれかかるようにしてスマホの着信ボタンを押した。


「もしもし———」


『あ、良かった!祐樹、今どこいんの?ちょっと、今から教室来れる?』


その発信者は、親友進藤からであった。


「やだよ…なんで行かないと…いけない?」


『へ?どしたんよ、お前。大丈夫か?ともかく、教室来たら分かるから』


「やだ!絶対行かね!」


 俺はスマホの通話終了ボタンを、勢いよく押した。フェンスにもたれかけながら、大きなため息が出て止まらない。始業のチャイムが鳴り、グラウンドにいた数人の生徒が急いで校内へと駆け込むのが見える。


 そのとき、背後からバタン!と大きな音が響く。あまりの音に驚いて背後を振り向くと、そこには屋上の扉に手をかけて立つ見慣れた姿があった。香坂だ。


「アホ裕!!!」


 香坂だけが呼ぶ、中学までの俺のあだ名だ。高校になってからは、「あんた」としか呼ばれなくなってしまった。久しぶりに名前を呼んでくれる香坂に、一瞬心が沸き立つが、すぐに香坂と進藤の笑い合う姿を思い出し、俺は


「何しにきたんだよ」


と言ってしまう。ふつふつと怒りが沸いてきて、声に苛立ちがにじみ出してしまう。


「さっき、あんたが走ってる後ろ姿見たから。ずっと探してたの。まさかと思って立ち入り禁止の屋上に来たら、話し声聞こえたから」


「ふーん。で?何の用?」


「いや、別に…用ってわけじゃないけど…」


「だったら、放っておいてくれよ」


「ってか、もう授業始まってるよ?早く戻らないと———」


「香坂。俺に何か報告することあんじゃないの?」


「え?報告って?」


 香坂は俺が何も知らないと思って、すっとぼけているに違いない。俺は詰問調子で、さらに続ける。


「お前と進藤のこと。お前ら、仲良しだったんだな。全然知らなかった。っていうより、そういう仲だったんだな」


「そういう仲って何?言ってる意味わかんないよ」


「だから。付き合ってんだろって言ってんの」


「え?違うって———」


「どこが違うって?さっきだって、楽しそうに一緒にいただろ。あんな休み時間にまで一緒にいたくせに、なにが間違ってるってんだよ!」


「あ…あれは………」


「やっぱりそうじゃないか!そうならそうって言えよ」


「あれは、そういうんじゃないよー!でも………」


 香坂はバツが悪そうに目をキョロキョロとさせると、うつむいてしまった。俺はなんだか香坂をいじめてる気になり、胸がチクリと痛むが、それでも追及をやめる気にはなれない。


「でも?なんだよ」


「だめ…私からは言えない」


「あ、っそ。進藤から報告させます、ってか」


「違———」


「ふざけんな。お前ら2人して、俺に内緒で付き合ってるとか。そんで2人して、何も知んねえ俺のこと笑ってたんだろ!ほんとやってらんね!」


 俺はすっかり頭に血が上ってしまう。背の高いフェンスを登ると、30cmほどしかない屋上の端へと降り立つ。香坂のキャーと叫ぶ声が聞こえるが、そんなのどうでも良くなってしまっていた。


「と、とりあえず、こっちに戻ってきて!ね?」


「嫌だね。もうどうだっていい」


「ねぇ、危ないから」


「お前だって、どうだっていいんだろ?」


「そんなわけない…わたし、裕のこと………」


だと思ってる。だろ』


 そんな言葉、聞きたくもない。


 香坂は心配そうにゆっくりと近づき、俺に手を差し出してくる。優しい香坂の瞳が、かえって俺をみじめにさせる。同情なんていらない。そんなもんクソ食らえだ。


 俺は言ってはいけない言葉を、この日2言ってしまう。


「俺なんか、死んでもいいんだ!」


 俺はスマホを再び投げつけるように、腕を思い切り回して右手を振り上げた。と、その反動で、左手がフェンスを掴む————


 その瞬間————ぐらぐらと体が揺れた。視界が右に左に揺れ、左手に触れていた金属の硬い感触がぐにゃりと柔らかくなった。目の前に見えていたはずの扉が、上方へ…上方へと上っていく。足に触れていた地面の感触もいつの間にか失われ、俺はバランスを崩し、宙へと投げ出され————


————気づけば、頭から真っ逆さまに落ちていた。


 屋上から覗き込む香坂の顔がはっきりと見える。涙ですっかりぐしゃぐしゃになった顔であった。


 落ちている間、様々な景色が脳裏を横切った。さらに、3階の教室、2階の教室がゆっくりと、上下あべこべに眼に映る。そして、1階の自分の教室が眼に入り————


 色とりどりの折り紙で作られた飾りが、鮮やかに真っ先に眼に飛び込む。さらに、黒板にはとある文字がでかでかと、大きくカラフルなチョークで書かれている。


『ゆうき、お誕生日おめでとう』と。


 その文字を見ながら、頭に激しい痛みを感じ、俺は目を閉じた。



   ◇ ◇ ◇



 目の前で、黄色い扉がうすぼんやりと光っている。


「良く分かっただろう」


 怪しい男が、待ちくたびれたとばかりにドアの横にもたれかかり、俺を見下ろしてくる。


 その男の声を合図に、様々な映像が頭の中に流れ込んでくる。



 ———ああ。そうだったのか———


 俺は自分の身に何が起きたのか、ようやく理解した。


 ———俺は自分の愚かな言動によって、死んでしまったのだ———



 両親も、担任も、今日は特別な日だから、ちゃんと約束を守ってねと言っていた。さらに、進藤だってサプライズパーティをクラスでするからといい、隣のクラスの香坂をわざわざ誘ってくれていたのだ。俺が疑心暗鬼なあまり、周囲が見えている以上に冷たく感じていただけなのだ。


 そこからは、記憶をさかのぼるようにして、過去の映像が映し出される。朝の映像だ。


「おい、祐樹。お前ももう高校生だろう。進路はどうするんだ?」


 父が気まずそうに頭をきながら、そっぽを向いて話しかけてくる。


 俺は久しぶりに自分の様子を気にかけてくれる父の姿に動揺し、うっかり言ってはいけない言葉を言ってしまったのだ。


「父さんには関係ないだろ」


と。これが、一連の出来事のきっかけだった。そこからは、売り言葉に買い言葉。押し問答でお互いが主張を譲らず、ついには家族全員を巻きこむ大喧嘩に発展してしまった。


 妹には元々知的障害があり、手がかかるのだ。それがどの程度大変なことなのか、俺が未熟すぎて理解できていなかった。妹の面倒をみるのも一切嫌がって断り続け、母1人に世話を押し付けていた。そのくせ、自分が構ってもらえないとひがんでいた。


 そんなことも頭の端から抜け落ち、奥の部屋に行ってしまった母に向かって


「俺なんて、いてもいなくても同じだろ!」


と言ってしまったのだ。父はこの言葉に、見たこともないほど怒り狂い、俺は後悔のあまり家を飛び出してしまったのだ。


 全てが、誤解だったのだ。些細な思い込みや、先入観、俺の思慮の足りない頭が作り上げた妄想だったのだ。


 最期の瞬間に見た映像が、俺にとって人生で1番しあわせな日になったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る