【3】 赤い扉

 目を開けると————というより、目はすでに開いていた。


 薄汚れたクリーム色の天井が見える。まわりには薄水色のカーテンがぐるりと一周取り囲み、左側から暖かな陽光が降り注いでいる。それに、頭には柔らかい枕の感触と、ちょうどよく調整された涼しい風が心地良い。どうやら俺は病室にいるようだ。


 俺は家で倒れていたんだろうか?そのあと救急車で運ばれた?だめだ…なにも思い出せない。それより疲れたな…などと思いつつ、再び眠りに落ちようと意識が遠のきかけたとき————


 ベリーの香りが鼻をくすぐる。それから、中学の頃より幾分長くなった少し茶色に焼けた髪と、変わらない黒目の大きな瞳が心配そうに覗き込んでくる。


「こ、香坂!?」


 恥ずかしい。ベッドに横たわる姿なんて、異性にとてもじゃないけど見せられない。ましてや、ずっと気になっていた相手になんて…。


 俺は顔を隠そうと、慌てて横を向いた————はずだった。しかし、意識だけが顔を動かそうと、幾度も幾度も横に向かうのに、体はあたかも金縛りにあったように微動だにしない。


 おかしいおかしいおかしい!手も足も動かないし、顔もビクともしないし、口すらも動かない。唇はカサカサに乾いてるし、喉の奥が焼けるように痛い。動け動け…頼むから動いてくれ。


 俺は半ばパニックに陥っていた。怪しい男の忠告なんて、頭の端からすっかり抜け落ちていた。霊感なんてあるわけもないし、金縛りにも当然遭ったことなどなかった。心霊番組を見ては、嘘っぱちだと笑い、怖いとも思ったことがなかった。だからか、肝試しも進んで実行したし、散々怖がる友人を背後から襲って驚かせたりもした。とにかくオカルト番組が好きで、霊体験をしたと恐怖におののく友人を、なんて楽しそうなんだとうらやましくすら思っていたというのに。そんな俺が、16年生きてきて初めての霊体験を!?


 すっかり動揺した俺の心をしずめてくれたのは、香坂の涙だった。


「香坂…?」


 当然、声が出るはずもない。


 香坂は真っ先にクラス委員に立候補するようなやつだし、男子相手にも一歩も引かない勝気な性格で、小学校の頃はよく喧嘩をして先生に怒られていた。その理由は、大抵誰かを守るためであった。そんな凛としたところが男女共に人気を呼び、俺も好ましく思っていた。そんな香坂の頬に一筋の涙が伝っている。それは、一度も見せたことのない姿だった。


「あんた…ほんとばか」


 香坂はどこぞの人気アニメのヒロインの口癖のような言葉を吐くと、俺のおでこを軽くつつく。柔らかく温かな感触がくすぐったい。そういえば、こうやって香坂の顔を真正面から見るのは何ヶ月ぶりだろう。すると、香坂はくすりとかすかに笑顔を浮かべる。


「まさか、久しぶりに見る顔が、こんな間抜け面だなんてね」


 相変わらずの口の悪さ。けど、どんなに毒を吐いても、憎めない愛嬌あいきょうがある。正義感が強く、いざというときには彼女以上に頼りになるものがいないのだから、口が悪いことなんて彼女の欠点にならないのだ。とはいえ、見舞いに来ておきながら、病人相手に間抜けだなんて…まったく。などと思っていると、香坂は再び口を開き、怒涛どとうのごとく話し始めた。


「ほら。悔しかったら言い返してみなさいよ。黙ってるなんて、あんたらしくもない。いつもみたいに、思ったことをそのまんま口に出しなさいよ。あれ、無意識なんでしょ?意識がなくたって喋れるって、自慢げに言っっ…っつ………」


 ベッドに重みがかかり、ギシっと鈍い音を立てた。香坂がベッドに突っ伏し、激しく泣いているのだ。


 こんなに悲しみに打ちひしがれる香坂を初めて見た。悲しみと後悔の念がこみ上げてくる。と同時に、心の奥底から彼女への愛おしさが溢れ出してくる。今すぐ起き上がって、大丈夫だからって慰めてやりたい。冗談だよって言って、彼女を驚かせて、いっそのこと叱りつけてもらいたい。どんなに望んでも、腕のひとつも動くはずはない。いくら焦がれても、想いのひとつも伝えてやることはできない。俺にはなにもしてやれない…なにも。


 俺の手の甲に落ちる生暖かい感触が、これが決して夢じゃないことを物語っていた。



   ◇ ◇ ◇



 どれほどの時間が経ったのだろうか。気づけば香坂の姿はなくなっていた。


 それから、クラスの何人かが入れ替わり立ち替わり見舞いに来てくれた。部活の連中も来ていた。中には、苗字すらも覚えていないような生徒もいた。


 もちろん、喧嘩した両親の姿もあった。母は顔が腫れ上がるほどに表情を歪めていたし、厳格な父も見たことがないほど沈んだ表情をしていた。3歳の妹でさえ、理由も分からないだろうに泣きじゃくっていた。


 それぞれ口々に見舞いの言葉と、ねぎらいの言葉とを両親に告げ、なにかを言いたげに涙を浮かべ、病室を後にする。全員が涙に明け暮れていた。


 耳の後ろ辺りからは、ピッピッと、機械的な音が規則正しく鳴り続けている。この不快な音の正体を俺は知っている。5年前に病に倒れ、ずっと入院をしていた祖父の枕元でずっと働いていた————心電計だ。


 動かない体と時間を持て余しながら、俺は無意識下でひとつの事実に気づいてしまった。

 “ 2度とベッドから起き上がることはできない ” と。

 “ 俺は生きながら死んでいるんだ ” と。



   ◇ ◇ ◇



「君は、こうやって


 広い洞窟状の空間に三度みたび戻されていた。青と赤の2つの扉の照明は落ちており、黄色い扉だけがほのかに薄く光を放っている。


「これのどこが人気者なんだよ!全然体も動かないし、ただの寝たきりじゃないか!」


「少なくとも、孤独よりはになる」


「マシってどこがだよ!だいたい、俺は今生きてるじゃないか。こんなに自由に動けてる。俺がいったいなにをしたっていうんだ!?」


「次の扉で思い出す」


 淡々と表情筋も使わずに話す男に、苛立ちが募る。ここがどこだか、男が誰かなんてことより、今自分が置かれてる状況がたまらなく不安だった。今頼りにできるのは目の前の男だけに違いなくても、男のいいなりにだけはなりたくない。不安で喉の奥からこみ上げる吐き気をこらえながら、不満を目の前の男に向けてぶちまけた。


「は?次!?黄色い扉のこと言ってる?やだよ。絶対に入らない。どうせ、ろくでもない映像見させられるだけだろ?」


「愚か者。行動には必ず結果が伴うんだよ。自分でおのれの行いに責任を持つのは、人として当然のことだろう?」


「へ?なにを言ってるの?俺がって言いたいのか?」


「お前のせっかちで向こう見ずな行動が、今回の過ちを引き起こしたんだろう?」


「今回の過ち?なんのこと言ってるんだよ」


「やかましい。説明が面倒だ。自分の愚かな行いを思い出すためにも、とっとと黄色い扉に入るがいい」


 今や怪しい男から怒れる男に変貌した男の手が、俺の背中をドンっと強く押した。押された拍子にぶつかった黄色い扉が重みでギィっと開き、まばゆい世界に身体が吸い込まれていった。

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