【2】 青い扉
目を開けると————そこは、俺が毎日通う高校の通学路だった。歩道の両脇には
俺の家は高校からほど近い。駅の反対側から5分ほど歩き、駅から続くこの上り坂を5分耐えればすぐ到着、というわけだ。
現在時刻は朝6時前、この時間は人はまばら。朝の通勤途中のサラリーマンが駅に向かって反対側に歩いていくのが数人、ゴミ捨てに門から出てくるおばさんと、すれ違いざまにあいさつをしている。まだ通学する学生の姿はないようだ。
と、見慣れた後ろ姿が、フッとすぐ真横を通り過ぎる。甘いベリーの匂いが、さらさらな髪から今にも香ってきそうだ。
「あ…香坂」
俺は思わず声をかけそうになり、立ち止まる。香坂は隣のクラスの女子であり、小学校からの幼馴染だ。とはいえ、高校になってからはお互いに話す機会もなく、わりと疎遠になっている。そういえば、確か彼女は毎朝この坂を走って登り、弓道部の朝練に向かうと言っていた。
しかし、朝のあいさつくらいはした方がいいと思い、遠くなっていく人影に向かって呼びかける。
「香坂、おはよう!朝練?」
返事はなかった。
「なんだよ。あいさつくらいしてくれたっていいのに…」
長い髪をなびかせ、制服のブレザーを
教室に着くと、当然ながらクラスの誰も来ていなかった。いつも始業時間ギリギリに来る俺が、珍しく1番乗りらしい。
朝日の差しこむ窓際の1番後ろの席が俺の席だ。なんとなく自分の机に彫刻刀で彫られた『今年の目標;早起き』の文字を指先でなぞる。彫ったのはつい最近、大好きな美術の時間に遅刻してしまい、戒めとして机に刻み込んだのだ。なぜだか、無性に懐かしく思える。
まだ時間はようやく6時を回ったところ。ホームルームまでの時間潰しで寝ておこうと、俺はそのまま机に突っ伏し目を閉じた。
◇ ◇ ◇
目を開けると、すでに4時限目が始まっていた。この日の4限は音楽。遅刻にもルールにもうるさい、学校一厳しい先生の授業である。
「うわ…やっば」
教室でうたた寝をしていた俺は、うっかり4限まで熟睡してしまったらしい。俺は慌てて音楽室へと向かう。
1階にある教室から4階にある音楽室まで階段を一段飛ばしで昇っていくと、3階に到達した辺りから音楽室で歌う全員の合唱が漏れ聴こえてくる。歌ってる間に音楽室に忍び込めば、気づかれないで潜り込めるかもしれない。
音楽室の扉を人1人分やっと通れる程度に静かに開けると、1番後ろの空いてる席にこっそりと着席する。音楽教師はピアノを弾きながら自身も歌っているし、目の前にクラス1身長の高い男子がいるため、どうやら気づかれてないようだ。俺は背の高い男子の腕の横から、音楽の教師を覗き見る。
そのとき、ふと教師と目があった。“ 叱られる! ”と思った。先生の機嫌が悪ければ、1番前に立たされた挙句、1人で見せしめのように歌わせられるかもしれない。
「遅れてすいません…」
俺は蚊の鳴くような声で小さく謝罪の言葉を口にすると、教師は何事もなかったかのようにピアノに視線を戻す。教師は怒る代わりに、無視を決め込んだようだ。開口一番怒鳴られるものと思っていた俺は、拍子抜けしてしまう。
結局、音楽の授業が終わるまで、一言も喋らずに終わった。
この日は土曜日だったこともあり、4限が終わると各々が教室に戻り、短いホームルームもそこそこに、そのまま帰り支度を始める。俺はいつも昼飯を一緒に食って帰る同じクラスの
「昼飯なに食ってく?」
進藤からの返事がない。
「おい?おーい?」
今度は進藤の肩を叩いて呼びかけるも、一向に返事はない。それどころか、すっかり自分がいない存在のように無視され続けた。
「みんな?なんでスルーするんだよ!」
その後、クラスに残っている全員に話しかけたが、誰からも返事はもらえなかった。
◇ ◇ ◇
気づけば家の玄関の前に立っていた。いつもしているように呼び鈴を押す。返事はない。仕方がないので、玄関脇の花壇の下に敷いてある小さなマットの下に隠してある合鍵を使い、家の中へと入ることにする。
「ただいまぁ…」
誰からも返事はない。それもそのはず、家の中はもぬけの殻だった。一戸建て3LDKのごく一般的な我が家は、専業主婦の母と、会社勤めの父、妹の4人家族。妹はまだ小さく手のかかることもあり、保育園に預けることを嫌う我が家の養育方針により、母は一日中ほぼつきっきりで面倒を見ている。なので、長時間家を空けることは
時間を確認すると、すでに夜の20時を過ぎていた。外はいつの間にか夜の
「母さん?」
おかしい。この時間に自宅に誰も帰ってきていないことなんて、今までなかった。
ここで思い出す。そういえば、この日出かける前に両親とひどく衝突したんだった。
俺の中に言い知れない申し訳ない気持ちが湧き上がり、急いでスマホの連絡帳から母と書かれた項目の発信ボタンをタップする。だめだ、出ない。虚しい着信音が耳に響き、すぐに留守番電話サービスに接続されてしまう。
諦めてスマホをクッションの上に投げ出したとき、液晶画面に何かが表示されていることに気づく。3件の不在着信と、3件の伝言をお預かりしていますの文字。
なぜだか嫌な予感がする。背中に冷たいものがひやりと落ちる感覚がし、俺はブルっと身震いをする。淡い期待と恐怖が心の中で交錯する。たかが録音メッセージを聞くだけなのに、心の中がひどく騒ついて落ち着かない。
なんとか震える右手を反対側の手で押さえながら、再生ボタンをタップすると————
『祐樹、どこにいるの?連絡待ってます』
『————なんで……………』
『…………………』
◇ ◇ ◇
「青い扉を選べば、君は孤独になる」
という声に、ハッと気づく。いつの間にか、だだっ広いだけの空間に戻ってきていた。
「青い扉はいかがでしたか?この扉の中にお試しで入れるのは1度きりです。この後は、黄色い扉に入っていただきます。なお————」
「ちょっと待って!今のは何!?それにさっきの質問、ここはどこなんですか?それにあなたは————」
しかし、男は俺の問いかけを無視し、黙々と決められた台詞を読む人形のように話を続ける。
「なお、黄色い扉と赤い扉の中に入る際には、それぞれ注意事項があります。赤い扉の中では、何があろうともパニックにならないように、落ち着いて行動してください。黄色い扉の中では、多少驚かれるかもしれませんが、周りの言動に注意しながら進んでください。間違ってもショック死なんて事態にはならないので、ご安心ください」
怪しい男が淡々と喋る姿は、もはや胡散臭いというより、薄気味悪ささえ感じるほどに不気味である。
青い扉の周りだけ暗くなっており、残りの2つの扉は薄明るくボーッと浮かび上がっている。さらに、周囲も青い扉の中に入ったときよりも薄暗くなっている。
「では、こちらの黄色い扉に————」
俺は黄色い扉へと誘う男の手を振り払うと、決死の覚悟で赤い扉を開けた。背後から「順番を守らないと————」と呼び止める声が聞こえた気がしたが、俺の歩を止めるだけの力はなかった。
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