誰かのハッピーエンド
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誰かのハッピーエンド
手に油のにおいが染みついている。卓上にあったウェットティッシュで爪の間の赤色を擦っていると、ノックもなしに控室のドアが開いた。
「水野、お前もうちょっとコメント何とかしろよ。せっかく宣伝にきてるってのに」
扉を閉めるなり、画商の上島が乱暴に言った。画商のくせに、絵が売れるならとマネージャーのような仕事もこなす男だ。
水野は手元から目を離さずに答える。
「喋るの苦手って知ってるでしょ」
「苦手でもやれ。そうすりゃ個展の集客が増えて、お前の大好きな金が増える」
がちゃん、と音を立てて机に置かれたのは、マジックで「洗浄済」と書かれたジッパー付きの保存袋だ。中には大量の小銭と紙幣。水野はウェットティッシュをゴミ箱に落とし、保存袋から十円玉を一枚取り出した。袋は再度封をして、学生の時に買った厚手のトートバックに放り込む。
重曹で丁寧に磨かれた十円玉を口の中に入れる。異物を吐き出そうとする喉の動きを無理やり抑え込んで飲み込んだ。喉がひりひりする。唾液があふれた。自然と吊り上がる唇を隠さずにいると、上島がわざとらしいため息をつく。
「この後は?」
わざわざキャップのふたを開けてよこされた水を飲み干す。少し思案して口を開いた。
「帰って描く」
「送っていこうか。妙な事件もあるし」
「事件?」
「ニュースぐらい見ろバカ」
投げ渡された新聞。イラストレーターに似顔絵師、水彩画作家、業界ではそこそこ名の知れた人間が相次いで失踪しているらしい。さほど興味はわかなかったが、上島は送る方が安心できるというので彼の車に乗ることにした。
事件の片翼と出会ったのは、思いがけずその翌日だ。夕飯を買ったコンビニの帰り、詰めの中の赤はまだとれず、夕日は広い空を染めていた。
「君は、金の亡者として有名だね。同業者には君を嫌う者も多いようだ」
水野の正面に立ったのは、スーツの上に薄っぺらい白衣をひっかけた男だった。四十を超えたところだろうか。汚れた白衣のポケットに手を入れて、ひらひらと裾を風に遊ばせながらニヤついている。
「いい儲け話がある」
「業界の人なら、俺のビジネスパートナーをご存知では?」
高校時代、学祭で飾った絵を見た上島に声をかけられた。気づけば画家を名乗るようになり、多方から声をかけられたがプロデュースはすべて上島に一任している。
「金を集めに執着しているくせに、使う気がないどころか金を憎んでさえいる。不思議な男だね」
「は?」
「報酬は十億。さすがの君でも、絵一枚で十億は稼いだことがないだろう」
男がポケットから手を出して、一枚のメモを水野に握らせた。淡い緑色の紙切れには、ミミズが暴れまわったような字で住所が書かれている。ここから歩いて十分もかからないであろう場所だった。
「君は今私を疑っている。それはまま正しいし、何なら命の危険あるわけだが、君は行く。なぜなら金が大好きだから。違うかい?」
男はガラス玉のような無機質な目で水野を見つめた。
生きていくには十分すぎる金額を稼いでいる。それでも、水野はできる限り金を集めなければならなかった。目標額はない。ただひたすらに、集めることが重要なのだ。
「金があれば、なんでもできますから」
誠実さは人を救わない。愛で人は生きられない。生きるのに必要なのは腹いっぱいの食べ物と、自尊心を満たす服、体を休める寝床。すべて金で手に入る。
生ぬるい風が頬を撫でる。思い出すのは、小学4年生の夏。
涼しさを求めて開いた家の扉から、外より熱い空気が飛び出した。足元だけが妙に冷えていて、リビングで父親が揺れていた。天井の照明からつるされたロープから、体がだらりと垂れていて、絶句する母の横には買い物袋が落ちていた。割れた卵の黄身がフローリングを撫でている。
父が営んでいた小さな機械部品工場には差し押さえの札がいくつも張り付けられて、そのうち家も売り払われた。児童養護施設から毎日通った病室で、母は「家に帰りたい」「あの人と一緒に仕事がしたい」と繰り返した。
いくらあれば父は死なずにすんだのか、いくらあれば家を買い戻せたのか、今更知る気はない。残っているのは金なんかのために父親が自殺した事実と、死に際の母の願いさえかなえてやれなかった自分の無力さだ。
遠くで下校の鐘が鳴っている。律儀に水野の沈黙を見つめていた男が、小さく首を傾げた。
「君は、ある女の絵を描けばいい」
男の影が細い電柱に向かって伸びている。
「……どんな女です?」
尋ねる声はかすれていた。
「世界一美しかった女、とでも言おうか」
愛おしそうに細められた男の瞳に、街灯の青白い光が入り込んだ。
「美しかった?」
「そう。過去形だ。残念ながらね。彼女は自分の顔に一本のしわを見つけてしまった。誰にでもある老化なわけだが、それを赦せなかったらしい。私はほら、このように平凡な顔をしているから、見てくれなんてそう気にする必要もないと思うわけだが、彼女はどうも、美しくなければ愛されないと本気で信じていたようだ」
笑みを絶やさない男は、何故か哀しんでいるように見えた。彼は再びポケットに手を入れて、踵を返す。
「では、また会えるのを楽しみにしているよ」
穏やかな声と細い背中を見送って、水野は手にしていたビニール袋の中身を取り出した。夕飯替わりのカロリーバーをその場で腹に詰め込んで、ポケットに忍ばせていた一円玉を数枚水で流し込む。メモに書かれた住所を携帯のマップに打ち込んで、先ほど通ったばかりの道に引き返した。
目的地には、二階建ての一軒家があった。ブロック塀で囲われた敷地の中に小さな庭があり、花壇からひまわりが伸びている。門の横に「高垣」の表札。インターホンを押してもチャイムはならなかった。
門をくぐって玄関を強めにノックする。返事はない。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか」
大声で言う。あたりは静けさを増したようだった。今引き返せば、もう二度とここには来ないだろう。自分の中であと一度きりと決めて、殴るように玄関をノックした。それからゆっくり三十秒数えて、踵を返そうとしたところで戸が開いた。
「画家?」
出てきたのは、水野より少し背の低い男だった。おそらく水野より年下。少年と青年の間のような見た目で、伸び放題の髪の間からぎらついた目がのぞく。くっきりと隈が浮き上がっているが、しっかり寝て髪を整えればモデルにできそうだ。
「水野佑といいます。いろいろ書きますが、専門は油絵です」
「仕事のことは白衣の男に聞いた?」
「はい。高垣さんでよろしいですか?」
「そう」
「絵のモデルは女性だと伺っていますが」
高垣は質問に答えず、水野の頭から足先までをじっくり眺めてから体をずらした。家の中に入ると、素早く戸が閉められる。鍵をかける音が妙に耳に残った。
「携帯」
差し出された生白い手に、電源を切った携帯を置く。高垣はそれをジーンズのポケットに入れると、無言のまま歩き出した。
玄関から入って右手の階段を上り、二階の端部屋に案内される。部屋の中央にはイーゼルとキャンバス、木製の椅子が置いてある。キャンバスの横には油絵に必要な道具が一式そろえられていた。
白衣の男と出会ってから、一時間もたっていない。周到さの所以を尋ねようとして口を開き、また閉じる。イーゼルの先にあるものを見て、沈黙せざるを得なかった。
部屋の隅にあるベッドに、女が寝ている。それも裸で。
「この人を描いてほしい」
高垣が言った。ベッドに近づき、女をのぞき込む。口元に手をかざしてみるが、息をしていなかった。レースのカーテンを通り抜けた夕焼けが、女の肌の上を滑った。
「トイレも風呂も部屋の中にある。食事は僕が運んでくる。絵が完成するまでは出さない」
一か月後の個展に必要な絵はすでに完成させて上島に託してある。宣伝については、ここに来る前に一言メールしておいたので何とかしてくれるだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、「死んでるんですか」と問うと、高垣の声に初めて感情がこもった。
「きれいでしょう?」
まるで宝物を自慢する子供のようで、しかしたっぷりと色情を含んだ声だった。改めて女に目を向ける。
美しい女だった。人間が神様の作った人形だとするのなら、彼女はきっと一番時間をかけて作られた。本当に同じ材料からできているのかすら怪しい。女の頬に手を伸ばすと、
「触るな!」
と激しい声が飛ぶ。高垣に突き飛ばされてたたらを踏んだ。
「姉さんに触れていいのは僕だけだ」
高垣はそう言って、腰まで伸びた女の黒髪を丁寧に撫でつけた。それから赤い唇にキスをする。呼吸をやめた女は変わらず目を閉じている。
不意に、昨日見た新聞記事が頭をよぎった。
「今まで連れてきた人間はどうしました?」
「逃げるから殺した。放っておいたら姉さんを奪われる」
ふてくされたように言う高垣の前髪をかき上げてみる。驚いた顔は、女のそれとよく似ていた。もしかしたら、この女よりも―――。
「やめろ」
高垣は水野の手を払いのけて、もう一度女の髪を撫でた。そのまま部屋を出て、扉を閉められる。内側にはドアノブがなかった。ちらりとカーテンの隙間をのぞいてみると、こちらもはめ込み型で開けられない。ぐるりと部屋の中を見渡して、息を吐く。木製の椅子に腰を下ろして、筆を手にした。まずは、下地を作らなければならない。
部屋にこもってから三日。高垣が運んでくる食事は毎食牛乳とあんぱんだった。栗入り、クリーム入り、白あんなど、妙にバリエーションを利かせているのが不愉快だ。水野はゴマが多いあんぱんをかじりながら、もくもくと筆を動かした。
「姉さんは牛乳とあんぱんが好物なんだ」
高垣は濡れたタオルで姉の肌を拭いながら言う。
「体型維持のために月一回しかあんぱんを食べられなかったんだよ。その分も僕が食べてあげるんだ」
カレーが食べたい。施設で食べた安っぽいカレー。無尽蔵な子供の腹を満たすためなのか、肉がないのをごまかすためか、一つ一つの具が大きかった。
窓の外から子供たちの騒ぐ声が聞こえる。今、助けを求めて叫んだら、あんぱん地獄から抜け出せるだろうか。息を吸い込んで、結局吐き出した。冷房の効いた部屋から、うだるような暑さの外に出る気にならなかった。
「姉さんはね、かわいそうな人なんだよ」
高垣はタオルを足元に捨て、今度は櫛で長い髪を梳かし始めた。水野は最後の一口を食べて、包装袋を床に捨てる。この部屋にはゴミ箱がない。その代わり、床に捨てておけば高垣が勝手に片付ける。
「きれいであることにしか価値がない。ほかには何もできないから、美しくなくなったら捨てられる。それでよかったんだ。しわくちゃになって、みんなに捨てられた姉さんを僕だけが愛してあげるつもりだった。どろどろに甘やかして、二人だけで生きるはずだった」
ポケットの中の五円玉を舌にのせる。せりあがる快感のままに浮かべた表情は、おそらく一人語りを続ける高垣と似ている。
「それなのに姉さんは死にたいって言う。ひどいでしょ。でも僕は姉さんの願いはなんでもかなえてあげたいんだ」
「だから殺した?」
高垣の手の中で櫛が折れた。それをこちらに投げつけられる。二つに分かれた櫛の一つは床に転がって、もう一つは壁にぶつかった。
「あいつがね。姉さんがあいつを選んだんだ。あいつが姉さんを殺して、きれいな姿のままいられるようにした。―――こんな悔しことってある? あいつが、姉さんの願いをかなえたんだ。僕じゃない! あいつが、あいつが! 姉さんを愛してるのは僕だけなのに!」
しゃぶりつくした五円玉を牛乳で飲み込む。外から甲高い笑い声が聞こえた。少女の声は、コンクリートの街によく響く。
「絵が完成したらどうするんです?」
「……姉さんと一緒にいく」
ひどくかすれた声だった。
「本当は本物と一緒がいいんだけど姉さんの願いは永遠に美しくあることだから、君の絵で我慢する」
「写真でよかったのでは?」
「人間の美しさは、人間じゃなきゃ表現できないよ」
果たして、そこに横たわる女はまだ人間と呼べるのだろうか。空になった牛乳パックを握りつぶす。ぽつぽつと、控えめな雨音が格子越しに耳に届いた。
頭が痛い。眠気のせいか、右の瞼がぴくぴく痙攣している。寝て、起きて、あんぱんを食べて絵を描く。どうしようもない苛立ちが喉から胸のあたりに滞っている。自分の髪から女物のシャンプーの香りがするのも煩わしい。
絵はほとんどできている。完成といってもいい。ただ、何かが水野を躊躇わせた。何かが足りない。
水野は千円札を一枚かみちぎって飲み込んだ。
「ねぇ、まだできないの?」
「もうちょっと」
「もう限界だよ。姉さんがいないんだ」
高垣が女の頬を撫で、口元のほくろを舐める。首、鎖骨、胸。白磁のような肌の上をねっとりと這っていく。
頭を掻くと、すましたバラの香りが周囲に舞った。舌打ちをして足元のあのぱんをとる。乱暴に袋を裂くと指先に痛みが走った。左手の人差し指。腹を上に向けて挟んでみると、小さな切れ目からぷくりと血が膨れ上がった。水野はその血と女を見比べて、
「そうか」
とつぶやいた。
女のへそを舐めていた高垣が身を起こす。彼は不思議そうな顔で立ち上がった水野を見上げた。右手を握りしめる。そのこぶしで、こちらを見上げる高垣の顔を殴りつけた。鈍い音。激しい痛み。本気で人を殴ったのは初めてだった。
「何を…」
起き上がった高垣の前にしゃがむ。彼の鼻から流れる血を右手ですくって、キャンバスの前に戻った。我ながら上手く描けた。透き通る肌に、ふっくらした唇。あでやかな黒髪。バランスのいい体。まったく、完璧すぎる。その絵を、女の唇を高垣の血で穢した。
「ほら、あんただけの姉さんだ」
高垣は茫然の絵の中の姉を見つめる。赤い唇。鼻を抑えていた手がだらりと下がる。止まらない血が彼の顎をつたって床に落ちていった。
ベッドの上に姉の姿はない。あの画家が姉を背負ってあいつのところに行った。本当は自分で運びたかったけど、それよりも早く姉のところに行きたかった。
カーテンを開ける。青白い月の光が部屋の中心にある絵を照らした。用意したポリタンクから、ガソリンを絵を中心に円を描くようにしてまいていく。最後に絵の前に立って姉を見つめた。なんて醜い姿だろう。彼女は誰よりも美しかったけど、本当は誰よりも醜かった。
「……姉さん」
呟いてキャンバスにガソリンを垂らした。ポリタンクを投げ捨てて椅子に体を沈める。
「姉さんの願いは全部叶えたよ。今からそっちに行く。だからさ、ねぇ?」
ライターを手に握る。背もたれに体をあずけて天井を見上げた。親指に力を入れる。かちり、と乾いた音がした。
「お疲れ様」
男が言った。目線で背負った女を指すと、男は白衣のポケットから両手を出して女を抱き上げた。
「冷たくなったなぁ」
と男がつぶやく。公園の街灯には虫がたかり、時折じっと音を立てて焼けた。
「君には感謝しなければいけないな。画家を見繕っては彼のもとに送り、帰ってきた死体を処理するなんて憂鬱な作業からやっと抜け出せる。あぁ、報酬は駅のコインロッカーにある。現金だと面倒だから君の名前で口座を作っておいたよ。鍵は右のポケットにある。私の手は見ての通りふさがっているから、自分で取ってくれ」
「狂った人たちですね」
男のポケットから取り出した鍵はひんやりとしていた。水野はそれをぎゅっと握り込んだ。
「もちろん自覚している。しかし君が言えたことではないだろう? 君は金を手に入れるために、二人の殺人者を見逃すのだから。むしろ、この後平凡な人々に紛れて暮らす君の方が私たちよりもイカれていると言っても過言ではない」
男は本当に愉快そうに笑った。
「あの人とこの女は、どういう姉弟だったんですか」
水野が男に尋ねる。この妙な男ならその答えを知っているような気がした。しかし男は苦笑して肩を竦める。
「この姉弟に関係性なんてないんだよ」
男が月を見上げる。一口齧られたような形の月だった。
「すべて相手の言うとおりに動くなら、人間が二人いる意味なんてないだろう?高垣浩史という存在は丸ごと高垣由依に飲み込まれていた。実に憐れな姉弟だよ」
「あんたは……」
「なんだい?」
「あなたはこの女をどう思ってたんです?」
途端に沈黙がおちた。分厚い雲が月を覆う。流れる雲からまた月が顔を出したとき、静けさに堪えかねた蝉がミンミンと鳴いた。
「どうだったろうな……愛していた、といってしまうのは違うだろうし、もちろん憎んでいたわけでもない。由依は確かに美しい女だが、良い女かと聞かれると頷きがたい。でも、そうだな、うん」
男は手の中の女にちらりと視線をやって、満足したように頷いた。
「由依と過ごす夜は、私にとって何よりも大切だった」
ただそれだけのことだったんだ、男は静かにそう呟いた。男の背後では灰色の煙が細々と天に向かって伸びていた。
『お前今までどこに居やがった!』
明け方の電話にも関わらず、上島はワンコールで出て叫んだ。喉の奥で笑うと、さらに機嫌を損ねたらしい。
「ちょっと十億稼いできた」
『あぁ?』
消防車の音が近づいて、遠ざかっていった。コインロッカーを開ける。通帳にキャッシュカード、ハンコ。暗証番号4桁を書いたメモの重りには、美しく光る五百円玉が一枚。
「駅にいるから迎えに来てくれる?」
『すぐ行って殴ってやるから一歩も動くな』
電話が切れる。すぐそばで鳴いていたセミがぽとりと落ちた。晴れた空に光がさしている。
口を開けて、五百円玉を喉に落とした。水野の喉を傷つけながら沈んでいくそれに笑みを深める。
「まいどあり」
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