雨の別荘
カネサダ
雨の別荘
「ううっ――」
深久は声を出して泣いた。現実を直視する事に耐えられずに、瞼が勝手に閉じる。だが、すぐに目を開ける。開けなければならない。
待ち受けていた現実はさっきと変わらなかった。目の前には、孝明の死体があった。血だらけの、愛しい人の死体だ。
初めて会ったときから、深久は孝明に好意を抱いた。一目惚れといってもいいもので、少女のように胸を高鳴らせていた。
それから数ヶ月、深久は孝明の優しさに触れ、心から愛した。そして昨日、孝明の友人の父親が所有する別荘にやってきた。そこでは素敵な思い出が作られるはずだった。
しかし、目の前には孝明の死体。
深久の両手に、ベタベタとした液体がこびり付いていた。孝明の血だ。
「孝明っ――。うう――」
押し殺そうとするが、泣き声が漏れる。涙を拭った拍子に、顔にまで孝明の血が付いてしまった。
深久は孝明の身体に触れた。温かい孝明の身体。
もう、孝明は喋れない。深久を抱きしめてくれる事も、キスをしてくれる事もない。
――どうしてこんな事に。
もう何度も何度も自問したことをまた繰り返す。その問いかけが無駄な事だと解りきっていても、繰り返さずにはいられない。
もう、わけが解らないのだ。どうして自分が孝明の死体を目の前にしなければいけないのか。どうして彼が死ななければならないのか。
孝明の体には、何か所も包丁で刺された跡があった。
深久は、泣きながら部屋にあった電話から受話器を取る。繋がってはいなかった。深久は次に携帯電話を取り出したが、画面には圏外の文字が表示されていた。携帯電話がこの別荘で使えないのは、ここに訪れた時から知っていた。
この別荘はリゾート地から少し離れた場所に建っていて、周りには同じような別荘がいくつかある。だが、現在人が宿泊している別荘はない。人がいるであろう一番近いペンションまで、何キロも離れている。それでも、他の別荘の電話は使えるかも知れないし、表には孝明の車が停まっていた。
だが、玄関は開かないのだ。
――孝明。
深久は――闇に向かって小さく呟いた。音のない世界――耳が痛くなるような沈黙が、深久とこの建物を包んでいた。
だが、ずっとこうしているわけにはいかなかった。今は行動を起こさなければいけないのだ。
――冷たい。
凍えるように、冷たい。手足の感覚が曖昧で、耳が痛い。そして喉が痛い。空気が乾燥している。一呼吸事に、凍った空気を吸い込んでいるようで、喉に痛みが走り、体中に冷気が流れているような気がする。
ここは冷たく、なにより暗い。いや――これは深久が瞼を閉じてしまっているからなのかも知れない。だが、瞼を上げるようにさっきから何度も脳が命令を送っているのはずだが、視界は変わらない。
意識がドロドロしている。まるで濁ったフィルタを脳に掛けられているように意識は不明瞭だった。
体を包む闇の冷たさから、ここは深海なのではないかという錯覚に襲われる。
さっきから呼吸をして――いや、もしかすれば、空気と思って吸い込んでいるのは、冷たい海水なのかも知れない。海水が、体中に行き渡っているのだ。だとすれば、この身体の冷たさにも説明がつく。
――違う。
深久は死んでいない。生きている。
深久の意識は囚われたヘドロの中から、ゆっくりと浮上を始めた。ゆっくりと、
確実に。
孝明の居る寝室を後にした後、深久は静かに玄関に向かった。足を動かすたびに、廊下がギシギシと軋む。出来るだけその音を出さないように進む。この建物の中に居るであろう、『人間』に自分の居場所を知られるわけにはいかない。
急に自分の周りが広くなり、不安を覚えた。玄関のある広間に出たのだ。
玄関にたどり着き、深久は無駄だと解っているドアノブを回してみる。
ガシャンと音がするだけで扉が開くことはなかった。扉には鎖と南京錠が巻き付けてあるのだ。
――ふう、ふう。
雨の音に混じって、自分の呼吸音が気持ち悪いほど聞こえてる。自然と、左手で自分の口を押さえていた。まるで、自分を窒息死させてしまいそうなほど強く口を塞ぐ。
その事に対して身体が勝手に恐怖し、抵抗しているのか、深久は口を塞いでいる自分の手を噛んでいた。
――二階へ行けば。
一階の窓――今まで目に付いた窓は半開きの物で、そこから外へ抜け出る事は難しい。でも、二階は――。
深久は二階へ向かう。二階の窓からならば、外へ出ることが可能かも知れないから。
中から『何か』が飛び出してくるのではないかと考えながら、深久は部屋の扉が並んだ廊下を歩いた。
二階へ続く階段は、この廊下の一番奥にあるはずだ。深久は廊下の片側に並んだ扉を、涙で滲んだ目で凝視しながら足を進める。
廊下の上げる小さな悲鳴を聞きながら進み、深久は階段にたどり着いた。その一段目に足を掛け――。
がたり。
一瞬で身体がこわばる。手を噛んでいる歯に力が入る。今、確かに、何かの音が聞こえた。
がたっ。
また聞こえた。聞き間違いではない。音は――孝明の部屋から聞こえてきた。
――ふう、ふう、ふう。
孝明の部屋。あそこには――見たくないものがある。出来れば、二度と足を踏み入れたくない場所だ。
それでも、音がした。
本当は、孝明をあんな場所に置き去りにしたくはなかった。既に物言わぬ物体と化してしまった孝明だが、それでも深久の孝明に対する愛情が変化するわけではない。しかし、今は孝明を放っておくことも仕方がない。孝明も許してくれるはずだ。今が、大事な時なのだから。
深久はまた廊下に悲鳴を上げさせながら、孝明の部屋へと引き返した。
ドアノブを回し、部屋の中へと入る。即座に、凍えた鉄の匂いが鼻を襲う。その鉄の臭いの原因が何なのかは、脳が痛むほど理解している。
部屋の中は暗い。それでも灯りを点けることは出来ない。それにまず、点かないのだ。
目をこらして部屋の中を見渡す。ベッド、テレビ、棚が目に付く。だが――。
――ない! 居ない!
叫びたい衝動を必死に押さえる。噛む歯に更に力が入り、冷たい液体が手首に流れ落ちる。それだけは感じた。
この部屋はおかしい。だから、間違っているのはこの部屋ではない筈だ。間違っているのは自分の目、あるいは脳でなければいけない。だが何度目を閉じたり開いたりしても、結果は変わらない。
孝明の死体が見つからない。どこかに行ってしまった。
部屋が暗いから見えないだけかも知れない。深久は部屋に備え付けられている懐中電灯を見つけ、左手に握りしめた。そして少し迷ったあと、明かりをつけた。
光を動かし、部屋の中を改めて見渡す。だが、やはり死体はない。
――生きていた?
深久は部屋の中をくまなく調べた。ベッドの下、クローゼットの中、そして浴室。どこにも孝明の死体がない。ここにあるのは、カーペットに残った血の跡だけだ。
「孝明――」
――ふう、ふう。
身体が、そして身体を包んでいる空気が一層冷たくなってきた。だが、どうしてか汗も流れている。
自分の体の中で、何かが暴れ回っているような錯覚に陥る。
部屋の中を見渡していた深久は、ある場所で目をとめた。それはドアのすぐ側の壁だ。その壁に、帯を引いたような形で赤い物が付着している。
そして、それはやはり壁の一部にあった。ドアのすぐ側の壁。そこに手形が付けられている。赤い手形だ。
深久の心臓が激しく動く。体中に、酸素と冷たいナニカを送っている。
――孝明は動いている。
深久は頭に浮かんだ、血を流しながら動き回る孝明の姿をすぐに打ち消す。
――そんな馬鹿な事はない。
では、死体はどこに消えたのだ?
――死体が動くわけがない。
いいや、動いている。現に、死体はないのだから。
――二階よ。
とりあえずは二階に行く。そしてこの建物から出られるかどうかを調べなければ。
深久は静かにドアを開け、再び廊下へ足を踏み出した。廊下の上げる小さな悲鳴も、先ほどのように気にならなくなっている様な気がした。たぶん、今は懐中電灯の明かりをつけているからだと深久は思った。
「ひっ――」
懐中電灯の映し出したモノを見て、深久は思わず小さな悲鳴を上げていた。今まで自分の口を押さえていた手は懐中電灯を持つ事に使っているため、悲鳴が室内に少し響いてしまった。
赤い手形が、またあるのだ。廊下の壁に。
その手形から少し離れた所には、赤い血が、汚れを消そうと雑巾で半端に拭き取られたような形で広がっている。
足の裏から伝わってくる冷たい床の感触に耐えながら、階段へと進む。階段へたどり着くと、深久は自分の背後に電灯を向け、そこに何も居ないのを確認した後で、階段に足を掛けた。
ぎし。ぎし。
一歩一歩足を進め、鉛のように重く感じる自分の身体を引き上げていく。
ここにきて、急に自分の頭が澄んできたような気がした。自分の瞳にだけ、温もりを感じる。
孝明の死体はなかった。それが何だ。きっと、孝明は生きていたのだ。そうだ。そうに違いない。
じゃあ、孝明はどこへ行ったのか。
――二階。
その考えだけは変わらない。
二階に着くと、深久すぐに電灯を消した。違和感を感じたからだ。
一階とは、微妙に空気が違う気がする。何というのだろう、空気が淀んでいる、と言うのが一番適切なのだろうか。それに、空気の動きも感じるような気がする。
二階には、居る。自分以外のナニカが。息を殺して、肉食獣のようにこちらの様子を伺っている。錯覚なのかも知れないが、深久の脳はその考えをしっかりと刻んで、訂正しようとしない。
深久は一番近くの窓に手をかけ僅かに力を入れた。何の問題もなく、窓は動いた。そのあまりの軽さに心拍数を上げた。
隙間が出来たと同時に、朝から延々と降り続けている雨の音が、少し大きくなった。そして、部屋の空気が動くのを感じる。部屋の空気が外へ逃げ、その代わりに外の空気が飛び込んでくる。
窓の外をのぞき込む。見えるのは、墨汁をそこら中にひっくり返したような漆黒だけ。地面も、外に停まっている車も見えない。飛び降りるのは、少し無茶かも知れない。
それでもなんとかならないものかと、窓から首を出してみた。顔に雨が当たる。
ずるり。
深久すぐに首を引っ込めた。
ずるり。ずるり。
奥から、何かがこちらに近づいてくる。
しゃらん。しゃらん。
ずるり。ずるり。
何かを引きずっているような音が聞こえてくる。しかも、引きずっているのは一つだけではないようだ。二つの音が混じっている。
――孝明?
かも知れない。孝明ならば、一目その姿を見たい。生きているのなら、抱きしめて欲しい。
そう脳の一部が望んでいても、また別の、大多数の部分が深久にその行動を命令する。
近づいてくるナニカに気取られないように、深久は静かに一番近くの部屋に入った。
ずるり。ずるり。
しゃらん。しゃらん。
一つは、足を引きずっているような音。もう一つは――何かの金属を引きずっている音だ。
その音は少しずつ近づいてくる。そして止まった。
向こうは息を殺している。何かを伺っている事がはっきりと解る。
――孝明なの?
深久は叫びたい衝動を必死に抑え、息を殺した。
――どうして?
「ふ――ふ――」
鼻と口から漏れる息の音さえ抑えたくなる。
どうしてこんな事になってしまったのか。深久は、溢れてくる涙を抑える事が出来なかった。
ずるり。ずるり。
しゃらん。しゃらん。
ずるり。しゃらん。
ずるり。しゃらん。
音が深久に近づいてくるのが解る。雨音にかき消されそうになりながら、必死に自己を主張している音だ。
――ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。
足ががくがくと震え出す。
――いひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。
やはり聞こえる。笑っている。心底楽しくてしょうがないという笑い声だ。何がそんなに楽しいのか。
まるで――子供がずっと欲しかったおもちゃを独り占めしたときのような――。
ずるり。
音が――。
しゃらん。
近づいてくる。
身体の震えがどんどん増す。心臓の方も、そんな身体に相応しく暴れている。身体が、中からバラバラに壊れていくような錯覚がする。
ずるり。しゃらん。ずるり。しゃらん。ずるり――。
雨音が大きくなる。だがそれ以外は、自分の呼吸と鼓動以外聞こえなくなった。
――あ!
音は止まった。自分の隠れている部屋の前で。つまり――居る。今、部屋の前に居る。
「はあ、はあ、はあ、はあ――」
――小さくなれ!!
深久は必死に、鼓動を小さくするように自分の身体に願う。だが、言うことを聞いてくれない。
不気味な音が、部屋の前で止まった。
――偶然よ。
馬鹿な。
――錯覚よ。初めから、音など深久に近づいてきてなどいない。
そんな筈がない。
感じる。今、ドアを隔てた向こうに、確かに何かの息づかいを感じることが出来る。深久が自分の呼吸を何とかして隠そうとしているように、向こうも同じ事をしている。だが、その所為でこの空間の何かが歪んでしまっているような気がする。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。張りつめた空気のまま時間が流れていった。その間、深久の身体と心臓の震えは続いていた。
ふと――深久は、雨音が小さくなってきている事に気が付いた。そんな中――
ぎしり。
あの音だ。
ぎしり。
床が軋む音。誰かの足が、廊下を踏みつけている音。
その音が、徐々に離れていく。自分の部屋の前を通り過ぎ、階段の方に向かっている
少しだけ――ほんの少しだけ、深久の鼓動が小さくなった。
「ふう――」
深久は呼吸を整えつつ、出来るだけ音を出さないように、そっとドアを開けた。懐中電灯を点けるわけにはいかないから、あまりはっきりと様子を伺うことは出来ない。それでも、廊下には何も居ないようだった。
深久はゆっくりと、部屋から身体を廊下に出していく。
まるで、宇宙空間に飛び出していくような戸惑いと抵抗があった。隠れていた部屋も、廊下も何も変わらないはずだ。それでも――。
首が部屋を出た瞬間、首を何かの刃物で切断されるような感覚が襲ってきた。首が違和感を訴える。何かの劇薬を首に掛けられたように、チリチリとした痛みがある。
慌てて左手で首をさすってみるが、何もおかしな事はない。ただの錯覚なのだから。
ゆっくり、それこそ芋虫のような緩慢さで、息さえ止めて最初の一歩を踏み出した。足音の消えた、階段の方へ向かうのだ。
――孝明。
さっきは思わず隠れたままだったが、あの足音の主が孝明だったならば――。
――それなら、今度こそは。
深久は音を一切立てないように、細心の注意を払って進む。それでも、自分の呼吸と、床の軋む小さな音は出てしまう。気が狂いそうなほど堪らないもどかしさを感じる。
ぎしり。
音がした。
身体の中に冷たい鉄の激流を感じた。
深久の足が――いや、全ての身体の動きが止まる。呼吸も、心臓さえも止まったかと思った。
今、既に聞き慣れた、床の軋む音が聞こえた。だがこれは――。
――どこから?
自分の足下からではない。正面――つまり眼の前に広がる、真っ黒な口を広げている廊下からでもない。
全身ががくがくと震え出す。首がズキズキと痛み出す。
痛いほど、目が見開かれる。その所為で、涙がこぼれてきた。単に目を、ほんの一瞬閉じれば済むことだが、それすら出来ない。目を閉じ、自らが暗闇に飛び込んだその一瞬で全てが終わってしまうような気がするからだ。
音は背後から聞こえた。
――どうしよう。
今すぐ振り返るべきだ。それは解っている。だが、さっきの硫酸か何かが原因なのか、首はさび付いてしまったかのように動かない。
――このまま、振り返らずに走って逃げるのはどうだろう?
いや――今の自分では、それすら出来ないかも知れない。
足も、床から伝わってくる冷たさに害されたのか、床に凍り付いてしまっている。
それに――今度は背中にナタが食い込む映像が鮮明に浮かんできた。自分は床に倒れ込み、背中にはナタの刃が生える。
――どうして?
背中に大量のゴキブリでもはい回っているように、ぞわぞわする。
――どうしてナタなの?
そんな疑念を抱きながら、深久は必死に首を回す。ぎしぎしと、骨が軋む音が聞こえるような気がする。そして――ギチギチと、肉が裂けていくような気もする。
――うひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。
その笑い声が、深久の全てを断ち切った。もう、骨がねじ切れても構わない。肉が飛び散っても構わない。
背中のゴキブリがいっそう暴れ出す。
振り返ると、そこに人影があった。絶望的なまでに、その距離は近い。
向こうも、深久と同じように自分の呼吸を必死に抑えていたのだろう。その我慢していたものを爆発させたような感じだった。
人影は何かを振り上げている。両手で、棒のようなモノを天井に捧げるように振り上げている。
――孝明。
それは紛れもなく孝明だった。愛している、孝明だ。例え口から血を流し、着ている服がどす黒く染まってしまっていても、それは孝明だ。大好きな孝明だ。
「た――」
名前を呟こうとしたその瞬間、振り上げられていたモノが深久に向かって振り下ろされる。空を切る音と共に、振り下ろされたモノが深久に迫る。
空気が、何かが深久に迫っている事を告げる。深久の身体が勝手にそれを避けようと、後ろに動く――いや、違う。転んだだけだ。
猛烈な勢いで迫ってくる何かに深久は圧倒され、今まで床に凍り付いていた足が離れ、バランスを崩し、深久は後ろに倒れ込んだ。
深久は無様に尻餅をついた。だが、その痛みを感じたのはほんの一瞬だけだった。
ごつん。
鈍い音がして、自分の足のすぐ側の床に、何かがぶつかった。そのぶつかったモノを目にして戦慄した。鉄パイプだ。鉄パイプが、床に僅かにメリ込んでいる。もしこれが頭に命中していたら――。
破裂したスイカが頭をよぎる。
すぐに、その鉄パイプが持ち上がる。持ち上げているのは、やっぱり孝明だ。
「――――」
孝明の口が、理解出来ない不気味な言葉を発する。
孝明は再び鉄パイプを振り上げた。
深久は全力で自分の四肢に命令を送り、痺れにも似た奇妙な感覚を引きずりながら立ち上がる。そして孝明に背を向け、そのまま走る。それが最善の選択だと、脳の何処かが大声で叫んでいる。
再び空を切る音が聞こえ、背中が奇妙な風を感じた。恐らく、鉄パイプが再び振り下ろされたのだろう。
――どうしてこんな事に。
何度も何度も、こんな無駄な事を叫び続ける。孝明は死んだのではなかったのか。
――包丁がお腹に刺さったのに。
深久は、再び部屋の中に逃げ込もうとした。
深久はドアノブに手を掛ける。その瞬間、そのドアに鉄パイプがたたき付けられた。孝明は、深久のその行動を許さないらしい。
深久は再びバランスを崩し、ドアに全体重を預けた。自然と、孝明の方を向く形となった。そこを再び鉄パイプが襲った。
グシュ。
鈍い音がした。音の主は、自分の左足首だ。そこに鉄パイプが直撃したのだろう、可哀想に、深久の左足は奇妙な方向に曲がってしまっていた。それでも、トマトのように潰れなかっただけマシと思うべきか。
誤魔化しようのない、激しい痛みが深久の身体を走り抜ける。
――ひひひひひひひひひひひひひひ。
深久の上げた悲鳴は、その笑い声にかき消される。
深久は嗚咽を堪え、歯を食いしばりながら立ち上がった。使い物にならなくなった左足の分は、壁に手を掛けて補った。
孝明は深久の目の前に立っている。しかし、その佇まいは今の深久と同じで、何処か不安定だ。その様子は、苦しげにも見えた。
ガシャン。
今度は、自分のすぐ後ろにある階段の下から音が飛び込んできた。窓が割られた音だと、すぐに理解した。
「――――」
一階から、何かの叫び声――いや、うめき声が聞こえる。人ではない。獣の声だ。それも、何処かで聞いたことのあるような獣のうめき声だ。
「――――ろ」
今度は、目の前の孝明が叫び声を上げた。同時に――緩慢な動作で鉄パイプを振り上げる。
――もう避けることは出来ない!
深久は咄嗟にそう判断し、孝明の懐に飛び込んだ。
深久は、もう深久を抱きしめてくれることはないであろう孝明の胸に飛びついた。左足が上げている叫び声は、無視する。
孝明は深久の勢いに耐えきれず、後ろに倒れた。
そこで深久は、『今まで大事に大事に、それこそ大事に握りしめていた武器』を孝明に振り下ろす。
「―――!」
孝明が叫び声を上げる。もしかすれば、今目の前に居るのは孝明ではなく、孝明の姿だけをした『ナニカ』なのかも知れない。
深久の『武器』は、孝明の肩に食い込んだ。
「――――!」
階下から叫び声が上がる。
「――う――な!」
それに応えるように、孝明も叫び声を上げる。
深久は自分の両手に力を込める。『武器』をもう一度使うためだ。孝明は両腕を突き出し、深久を突き飛ばした。
孝明はゆっくりと立ち上がった。もう、その手に鉄パイプはない。
孝明は、もう深久に害を与えるつもりはないようだった。深久が作った肩の傷口を押さえ、
ゆっくりと階段を下りていった。
「―――ろ」
また何かを呟いたが、さっきまでの叫び声とは違い、聞き取れるかどうかさえ定かではない小さな声だった。
深久は手から離れた『武器』を再び手にし、負傷した左足を庇いながら階段へ向かい、孝明の背後に立つ。
「――れ――な」
孝明がその言葉を呟いたとほぼ同時に、深久は振り上げていた『武器』を振り下ろした。
愛する孝明が、自分以外の女の名を口にする事に、深久は耐えられなかった。
脳裏に、孝明とのいくつかの思い出が浮かんだ。だがそれは――霞が掛かったように漠然としていた。
スイカを割るようにはいかなかった。すんなりといったのは最初だけで、すぐに堅いモノに阻まれて、孝明の頭に食い込んだ深久の『武器』は動きを止めた。だが、それで十分だったようで、孝明は糸の切れた操り人形のように崩れ落ち、そのままゴロゴロと階段を転げ落ちていった。廊下にうつ伏せで倒れた孝明。何度か痙攣した後、孝明は完全に止まった。
「―――」
叫び声を上げたのは、一階に居た影だ。影は何かを叫びながら、孝明にまとわりついている。
――元凶だ。
この影こそが元凶なのだ。孝明が死んだのも――自分から孝明を奪ったのも、この影が元凶だ。
いつの間にか、雨音が聞こえなくなっている。雨が止んだのだ。
聞こえるのは、孝明にまとわりついている影の出す耳障りな音と、深久が階段を降りていく音だけ。
深久は左手を壁に掛け、左足を庇いながらゆっくりと階段を下りる。確実に影に近づいていく。
こいつが悪い。こいつさえ居なければ、深久は孝明と愛し合う事が出来た。
こいつさえこいつさえこいつさえこいつさえこいつさえこいつさえこいつさえこいつさえこいつさえ――。
「お願い、やめて……。殺さないで」
そいつは泣きじゃくりながら、そんな事を呟く。だが、そんな言葉を聞いてやるはずない。
深久は影の頭上に、この別荘に来るときから、念のためにと持ってきていたナタを振りかざした。
――ひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ。
深久の心が、大いに笑っている。
笑い声は、自分の心が発していた事に、ようやく深久は理解した。
振り下ろす。
振り上げる。
振り下ろす。
振り上げる。
振り下ろす。
深久は、孝明にまとわりついていた影が動かなくなるまで繰り返した。いや、違った。とっくに動かなくなっていたけど続けたのだから。
とある新聞の記事
山林に囲まれたリゾート地の別荘で、二人の男女の死体が発見された。二人は所持品から、大学生、三島孝明さんと花山麗奈さんと見られている。二人は先月三十一日からこの別荘に泊まりに来ており、予定をすぎても帰らない二人を心配して様子を見に来た友人が死体を発見した。建物の玄関は内側から南京錠で施錠され、建物に侵入後に犯人が逃げ道を塞ぐために行ったと見られている。
孝明さん一階の寝室で襲われた後に麗奈さんのいる二階へ逃げたが、そこで再び犯人に襲われたと見られている。
使われたのはナタで、花山麗奈さんの遺体は特に損傷が激しいという。
また、現場近くの林では同じ大学に通う佐伯深久さんが首を吊って死亡していた。現場には遺書も残されており、男女関係の諍いが今回の事件を起こしたと警察は捜査を進めている。
雨の別荘 カネサダ @kanesada28
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