【5】

 分厚い横開きの扉を抜けて病室に入った時、冴子はまたしても息を呑んだ。

 特大サイズのベッドに横たわる男は呼吸器をつけていた。

 それがひどく緩慢に曇ることで、かろうじて浅い吐息が垣間見える。

 ベッド脇の心電図も平坦な波形を示していた。

「しゃけさん!」

 駆けよった冴子の呼びかけに返事はなかった。

 脇に立つ白衣の男に視線を向けるが、若い男性医師は所在なげに瞳を伏せる。

 『獣人化』の医療には未だ謎が多い。

 新巻鮭のように全身性のものともなれば、その体質は最早、人間のそれではないだろう。

 緊急外来で即応できるような事案ではないのだ。

 医師も沈鬱な面持ちで口を開く。

「何度か意識を取り戻しかけましたが、先ほどから心拍が低下し続けています。

体温もひどく低下しており、このままでは……」

「そんな! しゃけさん! 駄目ですよ!」

 冴子は大きな手を掴んで揺さぶってみるが、やはり反応はない。

 頬に手を当ててみると、まるで生き物ではないかのように体温が感じられなかった。

 だが今、冴子の背筋に去来した悪寒は、その冷たさだけに由来するものではなかった。

 何かが失われてしまう気がする。

 自分の中で決して手放してはいけない機会だろうか。

 冴子は硬い毛皮の頬を両手で包む。

 できることは見つからず、目も逸らせなかった。

 硬質な時間が過ぎる。

 時計の針にしては数分のことだったが、冴子には途方もなく長く、凍てついた時間のように感じられた。

「……しゃけさん」

 冴子は呼びかける。糸を手繰るような声だ。それに反応してだろうか。

 生気のない毛皮の、その瞼が震え、薄く開く。

「しゃけさん!」

 もう一度、呼びかけた。

 茫洋とした男の瞳が宙の一点を捉え、焦点を結び、そして冴子に向いた。

「たじま、さん」

「しゃけさん! ああ――ああ! 良かった!」

「すみません……またご迷惑を」

「そんなこと今はいいです……っ!」

 ふっと男が瞳を閉じる。

 また意識を失ってしまったのかと冴子は目を見開くが、男は言葉を続けた。

「……でももう、いいんです」

 諦めたような声。苦笑のような響き。それは彼のいつもの口調だった。

「もう、頑張れないですよ」

「……何を」

「――本当は、田嶋さんが思ってるよりもずっと、手も動かないんです」

 獣の指先が一瞬だけ宙を握ろうとして、力なくほどけた。

 その、長くの懊悩と結果を男が笑う。

「実技なんてできっこない」

「……だからって」

 選んだ答えがこれだと言うのか。

 おかしな話だと、冴子は思った。同時に許せないことだとも。

 何故ならば、

「だって貴方――やりたいことがあるんでしょ?」

 男にはそれがあった。今の冴子にはないもの。見えていない道だ。

 だが男は言う。それが行き止まりだったのだと。

「やりたいことがあっても、できないんです」

「やりたいことの見つからない私はどうすればいいんですか!」

 男の瞼に苦笑が浮かぶ。

「……見つかるでしょ。田嶋さんまだ若いんだし」

「貴方ってぇ……!」

 ぎりっ、と奥歯を噛みしめる。

 その時、冴子の胸に渦巻いたのは怒りとも悲しみともつかない強い何かだった。

 息を吸い込んで胸を張り、ありったけの声量でその塊を吐き出す。

「――私はいま、貴方を助けたいんです!」

 それが答えだった。

 反響する冴子の声に、次第にくつくつと喉を鳴らす音が混じる。

 ぎゅっと目を閉じた冴子の頬にそっと、硬い獣の爪が触れた。

 驚いて見下ろす冴子の視線の先にはいつもの苦笑ではない、本物の熊の笑みがあった。

「それじゃ田嶋さん――おれとおんなじですね」

 涙を掬いとった男の手が落ちた。それっきり、動かなくなる。

「しゃけさん……?」

 呆然と呟く冴子の隣で、心電図の波形が消失する。

 それは明確に一人の人間の死を告げていた。

 実感なんて湧いてこなかった。だって今、この時まで、言葉を交わしていたのだ。

 ゆっくりと立ち上がった冴子は周囲を見渡し、機械を眺め、そして周囲の人々を眺めた。

 そこで理解する。

 自分のやりたかったことと――それが果たされなかったことを。

 すとん、と腰が落ちた。涙は流れなかった。

 がらり、と病室の扉が開かれる。誰かが入ってきたようだった。足音は二人分。

 にわかに騒がしくなる周囲を冴子はどこか別世界のように眺めていた。

 先生お願いしますだとか、こりゃいかんだとか、慌てふためいた声が聞こえていたが、頭が理解を拒否しているのか、全く意味を結ばない。

 しばらくして、視界がぐらぐらと揺れ始める。

 終わるのだろうか、日常。来たのだろうか、アンゴルモア。

「いや田嶋君、来てないよアンゴルモア」

「へ――課長?」

 焦点が定まると、目の前に青島の猫面があった。

 その手は冴子の両肩に置かれている。

 どうやらずっと肩を揺さぶられていたらしい。

「あの私……?」

「大丈夫」

「なにが……」

「大丈夫だ」

 言い聞かせるかのように、青島は繰り返した。

 鋭い眼差しが冴子の視線を捉えて射抜く。

 肩を掴まれたまま、促されて冴子は立ち上がる。

 青島は冴子の様子を確かめてから脇に立ち、ベッドを指し示す。

 先程と同様、はく製のように動くことのない熊の姿と、もう一人――見覚えのない老人が立っていた。

 白衣を着ている。この人も医師だろうか。

「こんばんは」

「こ、こんばんは?」

 なんだか場違いな挨拶に冴子は思わず、素直に返してしまう。

伊丹いたみと申します。普段は大学の方の研究室にいましてね」

「それはご丁寧にどうも――研究室?」

「ええ。研究医をしております。主に哺乳類の」

「哺乳類の……?」

 研究室の医師がアレとソレで、哺乳類だとして、だからどうしたと言うのだろうか。

 冴子の脳裏では点と点が繋がらないまま、にこにことした笑顔で伊丹は続ける。

「法整備が甘くて『獣人病』の緊急外来ってまだないんですよね。それで、私がおっとり刀で来たわけなんですが、そこの彼に呼ばれましてね」

「はあ」

 研究医の指摘に冴子が視線を送ると、青島が頷いた。

 確かに病院の前までは彼と一緒にいたような気がする。

 つまりその後、青島は非番の研究医を呼びに行っていたのか。

 このおじいちゃんを? と、冴子が視線を戻すと、伊丹は続けた。

「いやほら、そこの彼ね。『獣人病』だって言うから私の管轄なんですが」

「はあ」

「見たところ、寝てるみたいですね」

「寝て……?」

「冬眠です」

「え?」

「そこの彼、冬眠してます」

「とうみんって、あの?」

「あの」

「ひと冬寝るっていう、アレ?」

「アレ」

「え、え、あれ……あ、は、は――――?」

 

 本日、二度目の絶叫が病室に響き渡った。

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