【4】

 数日後。

 冴子は天井を見上げて蛍光灯と天井のシミを眺めていた。

(お腹すいた、眠い、帰りたい)

 でも帰れないので現実に戻ることにする。

 視線を下げてパソコンに向き直った。

 伸ばした手には栄養剤が握られている。パキッ、と蓋を捻り、中身を飲み干した。

 これも空きっ腹に効くタイプのドーピング剤だ。

 残業上等。一気に仕上げてしまおう。

(あと一時間で終わらせれば二十三時には帰れるし、ちょっと遊んでからでも五時間は寝れる――)

 冴子の脳細胞がフル活動を始めるその刹那、

「おっ、やってるねえ田嶋君?」

 悪魔の呼び声が背後から響いた。冴子の瞼がすっと落ちて半目になる。

 椅子を回転させて振り返れば、ヤツがいた。

「……課長」

「もう開けてるね。それじゃもう一本いっとく?」

 提げていたコンビニ袋から高そうな栄養剤を取り出す男は、細い目でにまっと微笑んだ。

 青島平蔵あおしまへいぞう。同僚の間ではヒゲ茶瓶と呼ばれている。

 『獣人病』部分性M目猫科。顔面に横綱の張り手をくらったようなぶにゃっとした笑顔と、猫のように長い六本の髭がチャームポイントだ。

 脳内で強引に褒めたが、冴子は普段、あまりこの人と会話をしない。

 職場で居眠りをする人を指してたまに、『あの職場では猫を飼っている』と揶揄することがあるが、青島はそれを地で行くタイプである。

 日中のほとんどを居眠りして過ごし、夜になると起き出しては仕事をし始めるのだ。

 しかも会社の近くに住んでいるらしく、どんなに帰りが遅くても問題ないらしい。

 ――いやほら、猫って夜行性だからねえ。

 そう言って総務を黙らせたことがあるとかないとか。

 役職から外すと残業時間がとんでもないことになる都合上、安易に降格もできない。

 ある意味、『獣人病』と仕事を両立していると言えるのかもしれない。

「後日のためにもらっときます。高そうだし」

 栄養剤を受け取る冴子。あとでラベルを貼って冷蔵庫に入れておくことにする。

 青島は冴子のデスクを流し見て、

「どうだろう田嶋君。仕事楽しんでる?」

「ぼちぼちです。あ、一応、新巻鮭さんは二次に進みました」

「あらまき……ってあの全身性の人? やるじゃない」

「ここからですけどね」

「内定とった二人はどうなったっけ? あの若い子達」

「天野さんは結局辞めちゃって次、探し中です。ええと、滝登さんは現場を変えてもらって続投ですね」

「なーるほど。交渉したわけだ」

 腕組みをして頷く青島。

 昼間はずっと寝ているわりに、部下の仕事の進捗は意外と把握しているようだ。

 冴子は内心で少し驚く。

「それでどう? 最近」

 細い目をちらりと開ける青島。

 冴子にも言わんとしている事は伝わった。おそらくは、最初の質問だろう。

 キャリアコンサルタントはその曖昧さを見逃さない。

「……今が楽しいかは、よく分からないです。正直、なんとなく続いてますけど」

「なんとなくかー。それじゃ一次落ちだねえ」

「これ、抜き打ちの考課面談ですか?」

「や、僕も時間外だからさ。役職権限は使わないよ」

 ぬけぬけと言う。この人、心臓にも猫ヒゲが生えているのではないだろうか。

「でも大事だよ。楽しむのはね」

「はあ」

 溜め息まじりに頷いて冴子は肩の力を抜く。

 真面目に話すだけ無駄なのかもしれないが、ついでに一つ訊いてみることにした。

「私、この仕事向いてないんでしょうか?」

「んん? ぶっちゃけ話ってやつかな?」

「訊かなかったことにして下さい」

「いやいや待ちなさいな。田嶋君の適性かあ。そうだなあ」

 猫ヒゲを爪で弾きながら考える素振りをする青島。腹の立つ仕草だなと冴子は思った。

「ま、向いてるっちゃ向いてる……って感じじゃない?」

「曖昧さ回避でお願いします」

「ぐいぐい来るね。でも外してはいないと思うよ?」

「ええー……」

 何のこっちゃと露骨に不満げな冴子。

 青島はそれを満足そうに眺めて――この人、絶対性格悪い――また細い目を開く。

「君もそろそろ五年目だろ? ならそろそろ分かってきたはずだ」

「どういうことです?」

「世の中、本当にぴったりハマる仕事なんてほとんどない」

「課長それ、元も子もないです……」

「事実だよ」

 青島が告げる。残業の後にきつい一発だ。

「でももう一つの事実もある」

 青島がヒゲをつまんで引っ張ると、上がった口角からやたらと鋭い犬歯が見えた。

「仕事が決まった滝登さんも、辞めてしまった天野さんもそうだけど、いまだに田嶋君のもとには通い続けてるだろう? だから君は、向いてると言えば向いてる」

「何にですか?」

 なんだろうね。と青島は首を捻る。少しだけ悩んだようだった。

 答えは分かっているのに、言葉だけが見つからない。そんな一瞬の間を置いて、

「人助け?」

 ハテナ付きの半笑いで言う。

 冴子はぽかんと口を開けた。

 その後に溜め息、苦笑、しかめっ面の三段活用を経て、

「もういいです」

「ははは、怒った?」

 と、その時。トラディショナル・メタルな着信音が鳴り響いた。

 こんな時間帯に珍しい。と思いつつ、冴子は青島と視線を交わしてから端末を手に取る。

「はい。田嶋です――」

 電話の相手は国立病院の緊急外来窓口からだった。冴子の首筋には悪寒。

 不穏な気配を感じたのか、青島も薄く目を見開く。

 次に電話口から発せられた内容に思わず冴子の息が詰まる。


 ――しゃけさんが自宅で大量に睡眠薬を服用して、病院に運ばれた。

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