【2】
ばふっ、と布団に飛びこむと、やわらか成分に顔を包まれてそのまま寝落ちしてしまいそうだった。
そのまま「ああああ」と濁点つきで声を出すこと四十秒。
もそもそと起き出した冴子は、とりあえず上着だけ椅子に引っ掛けて冷蔵庫へ。
扉を閉じた手にはビールの三五缶が握られていた。
プルタブを起こすと軽快なポップ音。
一息にあおると苦みと爽快感が鼻から抜ける。夏の夜の気怠さも弾けた。
「ぷはっ……あー、まーた空きっ腹に飲んじゃった」
ま、いいか。と飲みかけの缶をちゃぶ台に置く。
着替えを先に済ませようとしてシャツのボタンに手をかけると、硬い感触が爪に触れた。
首元から入れた手を掴んで引き出すと、ありふれたステンレスの鎖でできたネックレス。
鎖の先にはやや歪な六面体――いつぞやに拾ったあの石だった。
立体の中心には五年前と変わらずにツヤのない黒々とした球体が鎮座している。
これはブルームーンと呼ばれる鉱石の一つだ。この五年の間に名前だけはついた。
青ざめた二つ目の月から重力に引かれて時たま落ちてくることがあるらしい。
世界規模で見れば、小型車ほどのサイズのものも見つかっているらしく、たまにテレビで特集されているのを見る。
珍しいと言えば珍しいものだが、あまり値段のつけられるようなものでもない。
冴子も一度、メ○カリに流そうとしたことがあったが、『月の石』という名の胡乱な商品記事は誰にも食いつかれることがなかった。
紆余曲折はあったものの、今はこうして冴子の胸元に収まっている。
これこの通り、実家のような安心感だ。
ちなみにブルームーンにはバストアップ効果があるという噂が。
(……)
いや、その話はやめておこう。
このご時世に変化しないことは別に悪いことではない。
バストアップの件もそうだが、冴子の姿は五年前と比べてあまり変わっていない。
つまりは『獣人病』の影響を受けていないということだ。
(いつまで、このままでいられるかな……)
たまにそう思う。
『獣人病』の発症には個人差があり、時期も進行の早さもバラバラである。
自分だっていつ職場のオフィスラヴを見つけてしまったり、野良猫にまとわりつかれ――るのもまあ悪くはないが――そんな悩みを抱えることになるか分からないのだ。
他人事ではないし、理解できなくても力にはなりたい。と、冴子は結論する。
部屋着に着替えてサンダルをつっかけ、窓からベランダに出た。
そんなに広くはないが、マンションの六階なので、そこそこ見晴らしは良い。
ベランダの中央にはブルーシートでできた小さなテントがあった。
一枚剥がすと三脚設置された円筒状の物体。
組み立て式の望遠鏡だった。冴子は電源を入れる。
小さな起動音とランプの点滅を見つつ、スマートフォンを取り出して天体観測用のアプリを起動。
そのまま望遠鏡のスリットに差し込む。
これで自動的に設定した天体に角度を合わせてくれる。
家庭用の簡易版でも、最近の望遠鏡はハイテクだ。
緩慢に動き出した円筒が停止する。目当てのものを見つけたようだ。
覗き窓を見ると、ぼんやりとした球体。
すぐにピント調節機能が働き、その全貌を露わにした。
白に近い、シアン色の輝きが視界を焼く。
青ざめた月は何でできているのか、太陽光の反射率が高い。
少しだけ輝度調節をすると、月の表面が見えた。
青光りする地表にところどころ空いたクレーターから、真っ黒な地質が覗いている。
しげしげと眺めているうち、吸い込まれそうな悪寒を覚えて、冴子は視点を逸らした。
それほど本格的なものでもないが、天体観測は数少ない冴子の趣味の一つだった。
三年前くらいに一度ブームが起きたのだ。原因は勿論、『二つ目の月』である。
すぐにブームは走り去ったが、冴子の中には一つの習慣として身に付いていた。
肌に合っていたのだろう。
最近、知り合いの誘いで婚活パーティとやらに参加した時のやりとりを思い出す。
「ご趣味は?」
と訊かれた冴子は「天体観測です」とそのまま言えず、
「あ、アストロ系ですウフフ」
と怪しげな回答をしてしまった。冴子は別にアストロ系でもウルトラ系でもない。
嫌な思い出は忘れよう。心を空にして、観測に専念することにした。
だが天体を眺めているうち、自然と瞼は重くなってくる。
『今回も駄目だろうとは思いますがね』
ふと、脳裏に浮かぶのは昼間の仕事でのことだ。
しゃけさんのあの、諦めたような笑みを思い出す。
彼とのやりとりも長いが、そろそろ内定を勝ち取りたいものである。
彼は、やりたいことがあるのに、どうしてもそれを続けられなかった人だ。
その気持ちが、冴子には分からない。
想像はするし共感もするが、強い実感を抱いたことはなかった。
自分で決めて転職して、住むところも変えて、それで自分は何か変わったんだろうか。
今でも仕事に四苦八苦して解決策も浮かばずに悩んでばかりだ。
(やむを得ない理由でできなかったことなんて、本当はないんだよね)
自分の役割だとか意味だとかについて考えてみるが、やはり判然とはしない。
(いっそのこと、自分も何か分かりやすく『獣人病』に罹ればよかったのにな)
と、そこまで思い至って冴子は首を振った。これはよくない考えだ。
望遠鏡の電源を落とし、部屋に戻る。
卓上のビール缶はすっかりぬるくなっていた。
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