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 エレベーター、各階をつなぐパイプ、密室、切り取られた空間、ひとときの安心、息継ぎのできるオアシス、選択までの猶予、モラトリアム、引きこもり、焦り。

 どの階を選ぶべきなのか、それが問題だった。

 逃げるのか、抗うのか。

 前者ならば迷わず一階へ、後者ならば一階も含めてどの階へ行くのか。

 時間はあまり残されていない。

 扉の上部には各階の簡単な説明が書かれていた。


『R GINZA SIX ガーデン』

『13 レストラン&ラウンジ』

『6 アート・ブック&カフェ/レストラン』

『5 ファッション&ライフスタイル』

『4 ファッション&ライフスタイル』

『3 ファッション』

『2 ファッション』

『1 ファッション』

『B1 ビューティ』

『B2 フーズ』

『B3 観世能楽堂(多目的ホール)』

『B4 駐車場』


 ちなみに十二階から七階まではオフィスフロアということで、一般客用のエレベーターには表記もボタンもなかった。

 屋上と十三階はすでに通ってきた道なので、選択肢は残りの六階から地下四階。

 六階は『アート』で『ブック』で『カフェ』で『レストラン』なのだから、行かないほうがいいだろう、同じ轍を踏みかねない。

 五階から地下一階までは、それこそ危険だ。もちろんここはギンザシックスなのだから、こんな俺にもぴったりな店もどこかにはあるのかもしれなかったが、そんな曖昧な希望にはすがりたくなかった。姉の指図も聞くつもりはなかった。

 地下四階に行くくらいなら素直に一階に行くべきだろうし、ならば、地下三階はどうだろうか。

 ギンザシックスの地下三階、観世能楽堂。

 能楽堂。

 能。

 それは長らく恐怖の象徴だった。

 俺と姉と父母の四人は、年に二回、夏と冬の長期休暇を使って祖父母の家へと出かけていた。

 祖父母の家までは車で四時間ほどかかるが、俺はその道中のほとんどを寝て過ごしていたためいつも景色はおぼろげだった。ガレージに入る振動で目を覚まして、それからふらふらと玄関を抜けて、廊下を歩いて居間へと入る。ソファに座ると、開け放たれた襖の向こう側に、小さな畳の部屋の、床の畳がよく見えた。

 それ以上の部屋の中身を見ないようにしながら、俺は慎重に立ち上がった。

 おそるおそる襖に近づき、影からそっと中を覗く。

 部屋の右奥には床の間があり、左奥には押入があった。

 そしてそれらの間には、ひときわ大きくてでこぼことした木の柱があった。茶色は濃く、表面は光沢がかっていて綺麗だった。

 触り心地も悪くない、ひんやりとしていて、それでいてどことなく温もりも感じられる、息づかいすら聞こえてきそうなほどの不思議な感触だった。

 俺はそのことをよく覚えていた、だからこそ、俺はいつもこうしてその柱に近づこうとしてきた、だが、いつもそれは失敗に終わって、こうして影に隠れながらその柱を眺めていることしかできなかった。

 それがなぜなのかといえば、その柱の上部から吊り下げられていた、ふたつの能面のせいだった。

 いつからそこにあったのかはわからない、もしかしたら最初からあったのかもしれない。ふたつの能面が、切り出されたままの木の板に、横に並べて付けられていた。とても簡素なものだったが、簡素だからこそ、そのふたつの能面が際だって見えた。

 後に調べて知ったことだが、右の面は小面の面で、左の面は般若の面というのだそうだ。

 般若の面のその怒りの形相といったら、子供心にも伝わってくる得体の知れない力強さがあって、小さかった俺の瞳には、他のなにものよりも、むしろ格好よく映っていた。おどろおどろしさは人間にはない力を予感させ、日曜の朝の怪人かもしくは怪獣を思わせて、心が躍るようだった。

 つまり、だから、俺が心底恐怖心を抱いていたのは、その横に飾られた、小面の面のほうだった。

 面長な輪郭に、肌が白く、目が細く、口が赤い。

 無表情、無感情、無思考。

 なにも伝わってこないその顔からは、意思の疎通ができないからこその怖さが感じられた。

 どうすればよいのかがわからなかった。喜んでいるのならば祝えばいい、怒っているのならば謝ればいい、悲しんでいるのならば慰めればいい、楽しんでいるのならば笑えばいい。しかし、なんの心の動きもなく、ただ無のままだったとしたら、俺はなにをすればよいのだろうか。

 わからない、だから、怖かった。

 俺はその日も遠巻きに柱を見て、そして能面がまだそこにあることを確かめた。

 思わず見止めた小面の面が、反対に俺を見据えてきていた。

 気がつけば俺は身じろぎひとつできないでいた。

「どうしたの? あれがほしいの?」

 と突然、姉の声が聞こえた、かと思ったら、俺の横をいともたやすくするりと抜けて、つかつかと部屋の中へと入っていく。仁王に立って柱を見上げて「あーあれはちょっと届かんわ。ほら、椅子持ってきて」と俺を急かす。

 俺は腑に落ちないなにかを抱きつつも台所に行って背の高い椅子を持って怖じ気付いて立ちすくんでいた襖の横をすんなりと通って柱の前にそれを置いた「じゃあ、取ってきて」の言葉に「なんで?」という疑問をわき出させつつも俺は椅子の上に立っていて、そうしたら手が届くすぐのところにすでにふたつの能面があった。

 俺は目を閉じた、両手を伸ばした、うまいこと面の付いた板の両端を掴んだ、それを柱からそろりと取り外そうとして、格闘して、そして足をすべらせてまっさかさまに。短い人生に走馬燈なんかいらなかった。

 畳に身体をしたたか打ち付ける、と思った矢先に、感じたのは干したばかりの布団の香りで、ふわっと羽が舞ったかのような真っ白な肌触り。

 持ち上げた身体にはしっかりと能面の付いた板が抱き抱えられていた。

 俺と一緒になって落ちてきたのだろう。俺が掴んで離さなかったのか、俺が壊さないように守りきったのか、そんなことはどうでもよかった。

 般若の面は相変わらず怒っていた、落としてしまってごめんなさい。一方の小面の面は相変わらずなにも言わない、のかと思っていたら、姉がその面をひょいと取り上げて、自分の顔にあてがって「似合う?」

 その面は姉とは正反対の顔をしながら、姉の言葉を口にした。

「似合わない」

 姉は笑った。

 だから俺も思いっきり笑った。

 俺は目の前のひとつのボタンを押していた。

 向かうべき先はもう一階ではなくなっていた。

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