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屋上をあとにした俺は、ギンザシックスの十三階、レストラン&ラウンジをとぼとぼと歩いていた。
本来ならば英気となるはずの武田真治の余韻が、今はとても重く感じられた。屋上からの道すがら、壁や花壇に植えられた緑の癒やしを目にしてきたが、この鬱屈とした気分は払拭され切らずに、依然として俺の中でくすぶり続けていた。意気揚々とはしゃいでいたあのころがひどく懐かしい、そんなふうに思えてしまえるほど、今の俺は決定的に違ってしまったのだ。
自分でもわかるくらいに、足取りはふらふらとして定まらなかった。それでも俺はかろうじて目の前の道に目を落としながら歩を進めていく。
どれくらいの時間そうしていただろうか、ふと顔を上げると俺の前には綺羅びやかな店が立ち現れていた。視線をあげると、店の名前なのだろうか、梁にあたる部分に『THE GRAND GINZA JAPAN』と書かれていた。
そんな店先で俺はあまりにも無防備だった。口をぽかんと開けて目も虚ろにしてしまっていた。
奥の窓ガラスまで一直線に抜ける店内は、黒を基調としたシックなデザインに茶がアクセントとして光り、まるで俺の想像する一流ホテルの入り口そのものだった。左右の柱とそれらを結ぶ梁が奥に向かって規則正しく並んでいて、神社の鳥居を前にして自然と気持ちが引き締まるのに似た荘厳さを感じざるをえなかった。
そして、そんな中を、カジュアルな格好をしたひとりの女が颯爽と歩いていた。堂々とした足取りは微塵も臆するところが見えず、奥に見える窓の手前を左から右に通り過ぎていくところだった。周りの視線を独り占めにしてしまうような圧倒的な存在感とは裏腹に、この場を満喫しつくしてやるという野心を一切隠そうとしない華やかさを全身に咲かせていた。
「指原莉乃(さしはらりの)……」のことは詳しいとは言えないまでも知っていて、『ガッテン!』や『さし旅』で何度か見たことがあった。他にもネットニュースなどでアイドルやタレントとして活躍している姿を何度も目にしてきていた。
そんな指原莉乃がそこにいて、ギンザシックスを指原莉乃(さっしー)はクスッと笑いながら謳歌していた。
その様を目の当たりにして、俺は強制的に自分自身を省みさせられてしまった。ギンザシックスの十三階、高級飲食店が並ぶレストラン&ラウンジという場と、そんな場を手中に収めんとする指原莉乃の気にあてられて、俺の口はわなわなと震えだし、俺の目は勝手に見開かれていった。ここは俺なんかが足を踏み入れていい場所じゃなかったのだ、なぜ俺はこんなところに来てしまったのか、もうここにはいたくない、早く帰ろう、そう思わずにはいられなくなっていた。
声を出すこともできずに、俺は店の入り口から後ずさるようにして、一目散に逃げ出していた。地上に降りる手段を探し回るが、あったのはエレベーターがひとつのみで、エスカレーターや下り階段は見あたらなかった。
追い詰められた俺は、意を決してエレベーターの到着を待った。
エレベーターの扉は指原莉乃のいるあの店から一直線に伸びる通路に面していた。幸いなことにエレベーター手前の壁がせり出していて、待つための空間は指原莉乃からは隠されていた、扉から離れ過ぎなければ問題はない、そのはずだ。
俺は待った。息は荒く、汗は止めどなく流れてくる。頭がくらくらとして、足からは力が抜けていく。崩れ落ちそうになって、膝をつき手をつく。しかしバランスはそのまま崩れ去っていき、後ろに大きく尻もちをついてしまった。
はっとして店のほうを向いた。店の入り口とその向こう側に指原莉乃が見えた。指原莉乃は俺のほうを見ているようだった。指原莉乃のその遠くの瞳に反射して、無様な自分がよく見えた。そして、そんな自分自身は、どこからともなく漂ってきたかぐわしい香りとないまぜになって飲み込まれていき、気がつけば俺は自宅の台所に立っていた。
「そんなに怖がらなくて大丈夫よ、さあ、持ってみて」
そう言って母は、俺に包丁を持たせた。子どもでも扱いやすい大きさの、動物の絵が描かれたかわいらしいものだった。俺は初めて握る危険物に、おっかなびっくりを隠せないでいた。
そんな俺の様子を感じ取ったのか、姉が遠くから「小心者にはムリね」と言った。俺は睨むように姉のほうを見たが、椅子の背もたれで後頭部しか見えず、その向こう側で画面に映った指原莉乃が笑っていた。
「そんなことないわ。怖がり過ぎは確かに問題だけど、怖がらないことのほうが問題なんだから。あのね、人はね、怖がるからこそ成長できるの。つまり、今あなたが持っているその包丁も、今あなたが感じているその怖さも、実は同じものなんだってこと。ほらたまに、包丁で人を刺しちゃうとか包丁を持って人の家に押し入っちゃうとか、危ないニュースがいろいろやっているじゃない? あれは怖さを感じられなくなった人が包丁の危なさを忘れてしまったから起きていることなの。だから、包丁を危ないと思えて怖さを感じられているあなたは、絶対大丈夫だよ。あとは、その包丁をどう使えばいいのか、その怖さにどう立ち向かえばいいのかを、ゆっくりと学んでいけばいいの。そのために必要なのは一歩を踏み出す勇気と、それからこれね」
母は両手の指を丸め込み、手首から先を前方に折り、肘を曲げて肩の前あたりで固定した。そして俺を見ながら「必殺、猫の手よ」と言い切った。俺はそんな母を真似て、包丁を置いて両手で猫の手を作る。姉のほうからはくぐもった笑い声が聞こえてきていたが、母は少しも気にすることなく俺の頭を撫でてくれた。
「あとは、そうねぇ、自分をちゃあんと信じてあげることね。難しいかもしれないけれど、それができればこれからも怖さを克服していけるはずよ」
そのやり方をついぞ母は教えてくれなかったが、姉が俺の作った肉じゃがを食べながら「あんたが一体なにものなのかってことだよ」と言っていたのを思い出した。
俺は口を結んで目を閉じて、震えるままの身体を起こして、服の汚れを撫でるように払い落とした。エレベーターの到着音に合わせて目を開くと、目の前の扉が開いていく。俺は店のほうを向くことなく、扉の中へと入っていく。
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