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 頂点というからには、向かう先は屋上に決まっていた。

 入り口ひとつ目の扉をくぐり風除室へ入ると、シンとした空気が身体を包み込んできた。ここが分水嶺だと言わんばかりの静けさを胸いっぱいに溜め込んで、大きく吐き出す、そして、ふたつ目の扉を抜ける。早足に近くのエレベーターへと乗り込んでRのボタンを押し、そこから体感数秒で再び扉が開く。出た先の小部屋から外へと続く通路を行くと、ゆっくりと視界が開けていった。

 青い空と、白い雲、外周を囲むガラスと、その向こう側には一本の赤白の鉄塔が生えている。ガラスの手前には縁にそって木々が植えられていて、奥の鉄塔に負けじとその身体を高く伸び上がらせていた。そしてそのさらに手前、俺の足の向く先には、長方形の芝生広場があった。

 ここがギンザシックスの屋上、その名もギンザシックスガーデン、ギンザシックスの頂点なのだ。

 俺は芝生の真ん中へと歩いていき、そこで上体を大きくそらして、両手を空に向かって思い切り突き出した。目を開ければ薄いながらもまごうことなき青さが広がり、目を閉じれば日の暖かさに土や草木の匂いが舞い上がる。天高くいながらにして地上を感じ、銀座にいながらにして自然を感じる、まさにここが頂点、俺は今そこに立っている。

 ついでに大声でも上げられていればまったくそれらしくなったのかもしれないが、残念ながらその願いは叶わなかった。

 伸びきった身体に、ふと、軽快なサウンドが響いてきたのだ。

 音のするほうを見ると、芝生の横の水面広場にひとりの男が立っていた。その広場は床面に薄く水が敷かれているため、裸足になるのはうなずける、のだが、その男はなぜか上半身も裸だった。

 見せびらかされずとも魅入られてしまう鍛え上げられた肉体と、その腕に抱きかかえられている金色の吹奏楽器が日の光に照らされてきらりと光り、巧みな吹き鳴らしに合わせてウェーブがかった髪がなびいて、整った顔立ちに汗が一筋。

 俺はその男のことを知っていた。民放バラエティ番組にもよく出ているらしいが、NHKのとある番組で話題になり、その動画がYouTubeでも見られるようになっていて一部で人気を博している、その男の名前は「……武田真治(たけだしんじ)」

『みんなで筋肉体操』でおなじみの、『筋肉サックス』でおなじみの、あの武田真治がそこにいて、武田真治はギンザシックスでサックスを吹き荒らしていた。

 武田真治はしなやかな筋肉を豊かに使って、踊るようにサックスの音色を操っていく。ギンザシックスガーデンは今や武田真治のものであり、武田真治一色に染まっていく。その中にいる俺も当然ギンザシックスガーデンとともに染め上げられていき、武田真治の一心不乱な演奏姿と武田真治が奏でていく音楽とに吸い込まれて、気がつけば自宅の父の部屋にいた。

 父は運送関係の仕事をしていて家にいることはあまりなかったが、たまに帰ってきたときには、決まって自室で音楽をかけながら、ひたすらに筋肉を鍛えていた。クラシックなときもあればロックなときもあったが、その音は父の部屋を飛び出して外にまで漏れ聞こえてきていた。

 その日は比較的に静かなサックスの曲だった。俺は姉に強引に引きずられて父の部屋を訪れていた。

 てっきり怒号でも飛ばすのかと思っていたら、父の筋トレが一段落するのを待ってから、姉は静かに声をかけた。

「そんなに鍛えてどうすんの?」「筋肉は裏切らないからな、お前たちもどうだ?」「アームストロングにでもなろうとしてんの?」「なれても大佐だろ?」「死ね」

 姉は姿見を顎でしゃくって、踵を返して部屋を出ていってしまった。

 父は姉の示した姿見に向かってポーズをとりながら「どこからどう見ても、武田真治」なんてことをつぶやいていた。父がそれでいいのならそういうことにしておこうじゃないか、なんてことを思った矢先に「武田真治? ダサ」という姉からのメッセージが俺のスマートフォンに届いていた。

 ギンザシックスでサックスを吹く武田真治は、俺にはとてもまぶしく見えた。まぶしくて、そして、憧れていた。しかし姉にとっては、そうではなかった。姉にとっての武田真治は、仰ぐ相手でもなく、ひれ伏す相手でもなかったのだ。

 武田真治は、ギンザシックスガーデンの支配者となり、気高さとしかしどこか寂しさを背負いながら、ついに演奏を終えて、残心をして、マウスピースから口を離す。

 俺はそんな武田真治のことを真正面からとらえることができなかった。もし武田真治が俺に気がつき俺に声をかけてきたとしたら、俺はなんて言葉を返せばいいのだろうか。「あなたに憧れていました」「俺もいつかあなたみたいになりたいです」「あなたを超えることが俺の目標です」「今はただあなたと一緒にここからの眺めを堪能していたいです」どれも空虚にしか思えなくなってしまった、そのことに、ただ愕然としてしまっていた。

 俺は今度こそ叫び声を上げて、無我夢中で階段へと駆け出していた。

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