第4話 墓守と星降る月夜②

 翌日、まさかの奇跡は起きた。

 その日は、夕方までどんよりとした曇り空が広がっていたにも関わらず、日が沈むと一面に星空が広がったのだ。あちこちで流れ星が見え、エステルは大喜びしてキャンバスとイーゼルを墓地に引っ張り出した。

 筆を動かし始めると、僕の声はエステルに一切届かなくなる。飲まず食わずで(死んでいるので必要ないのだが)、一心不乱に絵を描き続ける。そのとてつもない集中力が乱れない事を僕はよく知っているので、差し入れの夜食でも作ろうと一度小屋へと踵を返した。今夜は長くなりそうだ。




 と、思ったのも束の間。


「え、もう終わったの?」

「集中して描いてしまえばあっという間ですから」

 サンドイッチとボトルに入れたホットミルクをバスケットに詰めてエステルの元へ戻ると、彼女はすでに絵を描き終えていた。

 今夜は夜が明けるまでとことん付き合うつもりだったのに、何だか拍子抜けだ。ホットミルクをマグカップに注いで手渡すと、エステルは目を輝かせながら受け取った。生き返ってから嬉々として日々を過ごしている彼女は、屍人ゾンビに必要ない飲食をとりわけ好んでいる。


「……見ても?」

「いいですよ」

 では、許可が下りたので遠慮なく。

 少し後ろに下がったエステルに代わって絵の前に立つ。ランタンで照らした先には、キャンバスいっぱいに描かれた星空が広がっていた。


「うわあ…………」

 自然とため息が零れる。

 その風景画は僕の心を震わせ、思わず魅入ってしまう魔力を持っていた。当たり前のように毎日見上げていた夜空が、こんなにも美しかったことを気付かせてくれる。何気ない日常の一部も、エステルの眼にはこんなにも鮮やかに映っているのか。


「すごい………」

「ありがとうございます」

「何て言えばいいんだろ、…………上手く表現できないんだけど、とても素晴らしい絵だと思う」

 これほど学がない事を悔やんだことはない。エステルの絵はこんなに素晴らしいのに、それを伝える言葉を僕は知らないなんて。例えるならば、彼女の描いた星空は、言葉で言い表せないほど美しかった。町の人達が言っていたのは本当だったんだ。

 一目見た瞬間、僕の心は奪われた。


「気に入りました?」

「うん!すっごく素敵な絵だよ!」

「では、この絵はルナに差し上げます」

「…………え、?」

 バスケットのなかを物色しながら、エステルが何て事のないように言う。聞いた話によれば、この絵は彼女が死ぬ間際まで描き続けたもので、死してなお完成を願ったものだ。それなりの愛着もあるだろうに、こんなにあっさりと手放すとは。


「いいの……?」

「はい」

 ハムサンドを頬張るエステルが頷いた。


「この絵が未完成のままだったことが、ずっと心残りだったのです。ですが、ルナのお陰で描き終えることが出来ました」

「僕は何もしてないよ。描いたのはエステルだ」

「けれど、未完成のキャンバスを取りに行ってくれたのはルナです。屍人ゾンビの私はこの世界にとって異物な存在。町を歩き、我が家の門を潜り、自室で夜空を眺めながら絵を完成させることは出来ません…………許されません。皆を怖がらせてしまうから」

 顔と同じように血色の悪い自分の掌を見つめながら、彼女は寂しげに言う。

「そんな事ないよ」と言いかけて、止めた。普段から屍体を見慣れている墓守の僕ですら生き返ったエステルを初めて見た時は心底驚いたのだ。迷信深い町の人達が彼女を見れば驚きを通り越し、中世の魔女狩りを再現して屍人エステルを火刑に処すとか言いかねない。口を噤んだ僕を見て笑うエステルは、やはり寂しそうだった。


「ですから、完成したのは貴方のお陰でもあるのです。感謝の意を込めて、この絵はルナにプレゼントします」

 エステルが僕を見上げる。彼女の深紅の瞳に見つめられると、上手く話せなくなる。見つめ合うと素直にお喋り出来ないってやつだ。彼女の描いた絵を見ている時と同じような感情がどんどん溢れてくる。


 この絵は、エステル自身だ。


 見ていると心臓が締め付けられ、だけど嫌な痛みではなくて。何だかあたたかくて安心する、抱き締めたくなるような気持ちになる。エステルの絵を見てきた人達もこんな気持ちに成ったのだろうか。これが、恋い焦がれるという気持ちなのだろうか。

 そこで、はたと思い当たる。

 そうか。これが恋なのか。

 僕はエステルが好きなのか。

 自覚するとゾワゾワとした何かが全身を駆け巡った。それはエステルと出会った時に感じた雷に打たれたような感覚に似ていた。心臓が早鐘のように脈打ち、見ていると胸が苦しいのにずっと見ていたいような気持ち。

 初めての恋だった。


「エステル、僕…………!」

「はい、何ですか?」

 隣を見遣れば、彼女が首を傾げた。

 沸き上がった勇気に背中を押され、ありのままを伝えたくて口を開く。

 けれど想いが音になることはなかった。もし、この気持ちを告げてしまったらエステルがいなくなってしまうような気がしたのだ。言葉にすると、この奇跡のような現実が終わってしまうような、そんな不安に駆られた。

 僕は生者。彼女は死者。決して相容れない存在同士ならば、伝えるべきではないのかもしれない。きっとエステルを困らせてしまう。


「…………ありがとう、大事にするね」

 シュルシュルと、あっという間に勇気は鳴りを潜めた。本当に伝えかったものとは別の言葉を吐き出す。ぎゅっと唇を噛み締めて、飛び出そうとする想いを殺した。僕が黙っていることでこの非日常な日常が守られるなら、この想いは無かった事にしてもいい。


「僕は、エステルと出会えて良かった。一緒にいると楽しくって、いつもワクワクするんだ」

「ありがとうルナ。私も貴方との日々は楽しいです。もしかすると、私はルナに出会う為に生き返ったのかもしれませんね」

 そう言って、エステルが顔を綻ばせた。生き返ってからの短い間で見た、一番の笑顔だった。そうだと良いなと強く思った。

 もうそれだけで、全部いいような気がした。

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