第五章 闇の中へ
集結地点 七月一一日 一八二五時
夏の共和国北部は、おおむね二二〇〇時頃に日が暮れる。高緯度帯に位置するのがその理由だが、すでに空の明るさには『陰り』が生じていた。一面にうすい雲が広がっており、太陽は時折しか姿を見せることがない。
そんな天候のもと、カール・シュナイダー中尉は301号車のキューポラから身を乗り出している。
301号車の停車位置は、農地にかこまれた細ながい砂利道だ。後方には部下たちが操るほかの戦車が、エンジンを始動させたままの状態で並んでいる。列の前後には乗用車とバイクが、一組ずつ配置についていた。
黒い戦車兵服姿のカールは、キューポラに背を預けて空を見やった。昼過ぎに二〇度を越えていた気温も、いまは一八度ほどである。
(予報どおりだな)
彼は安堵の溜息をちいさくついた。月明かりが地上に届かなければ、夜の闇はいっそう深くなる。こちらの視界も悪影響を受けるものの、敵から身を隠すうえでは有り難い。
(いよいよ、か……)
中隊指揮官としてはじめての実戦を前に、彼の感情はなかば無意識に高まった。いっぽう内心には、不安もとめどなく渦巻いている。部下たちが期待どおりの役割を果たすか――そして何よりも自身が適切な指揮をとれるか、どうにも確信できないのだ。
不意に、砲塔の影から声がした。
「中隊長どの、そろそろです」
呼びかけてきたのは、砲手のハンス・アイスナー軍曹だ。主砲へ寄かかるように、車体前部へすわり込んでいる。左右の乗降ハッチからは操縦手と無線手が顔をだし、車体後部のエンジンルーム上には装填手が立っていた。
「ん」
そうみじかく応じたカールは、腕時計にちらりと目をやった。二つの針はまもなく、六時三〇分の位置を指そうとしている。
彼は気持ちを切り替え、通話用マイクのスイッチを押した。
「〈アドラー01〉より中隊全車、これより出発する」
部下たちに向けて、カールはゆっくりとした口調でそう言った。〈アドラー〉(鷲)は今回の作戦に先立ち、第3中隊へ付与されたコードネームだ。大隊本部は〈フォーゲル〉(鳥類)、第1および第2中隊はそれぞれ〈ファルケ〉(鷹)、〈オイレ〉(梟)という呼び名が与えられている。
カールの説明はつづく。「各車は車間距離五〇メートル、時速一〇キロを維持してすすめ。無線封止を徹底、僚車の挙動に注意しろ。小休止は一九三〇時に実施予定。以上」
カールは通信を終えると、正面にむけて軽く手をふった。
すぐさま待機中の乗用車から――おそらくシュルツ上級曹長だろう――応答の合図がかえってきた。彼らは先行して行軍ルートの正しさや、安全か否かをたしかめる誘導役だ。最後尾の組は後方警戒と、落伍車が出たばあいの連絡を担当する。
先行組の出発を見届けると、カールはアイスナーへ声をかけた。
「ハンス、周囲にしっかり目を配ってくれ」
「了解」
「エーリヒも、よろしく頼むぞ」
「分かりました」
カールは装填手の応答を聞くと、正面へむきなおった。乗用車とバイクはみるみるうちに速度をあげ、一〇〇メートルほど先にある舗装道を右にすすむ。
カールは通話マイクを、車内モードに変更した。
「出発する。時速一〇キロ、車道に出たら右折しろ」
彼はいったん口をつぐみ、ふたたび開くと操縦手に命じる。
「戦車、前へ」
まもなく301号車は、エンジンを勢いよく噴かしはじめた。後部の排気筒から煙を吐きながら、地面の具合を確かめるようにゆっくりと動き出す。徐々に速度を上げていき、車体の揺れも増していった。
一五秒ほどたった頃、装填手が後続の移動開始をつたえてきた。
(まずは、行軍を無事おわらせることだ)
カールはそう内心で呟いた。まもなく301号車は、舗装道に達するといちど停止する。まもなく進路を右に転じながら動きだし、中隊の僚車もそれに続いていった。
空はまだ明るいものの、着実に暗がりが増しつつある。
急激に弱まる日差しを浴びながら、一一両の戦車は低速で田園をすすみ続けた。
中隊が作戦発起点に到着したのは、二〇三〇時をすぎた頃であった。収穫後に放棄された牧草地で、北西五キロには王国軍占領下の集落が存在する。中間地点には両者を分断するように、幅のひろい未舗装道が伸びていた。
カールは各車を定位置につけると、乗用車にのりかえて大隊本部へと向かった。本部といっても戦車が二両と、機関砲をそなえた数両の対空戦車などからなる小所帯だ。そこで他の中隊長たちと合流し、作戦を前にした最終ミーティングへ参加する。
部下たちの元へもどったのは、一時間後のことであった。
第119旅団は前衛と本隊に分かれて布陣している。
このうち装甲大隊を基幹とする前衛は、アルファベットの『L』を横にしたような隊列を形成した。第1中隊が幅三〇〇メートルの横列で並び、その左後方に第2中隊、そして第3中隊の二列縦隊が隣り合っている。駆逐戦車を装備する第4中隊は、擲弾兵大隊に増援として送られたのでここには居ない。大隊本部そのほかは、ふたつの『壁』の内側に配されていた。
そしてカールの第3中隊は、壁の外側へ面した位置にいた。二列縦隊の左側に中隊本部と第2および第三3小隊が順に配置され、右には第1小隊と、臨時編入された擲弾兵小隊のSPW(装甲兵員輸送車)が並んでいる。
「今のところ、基本計画に変更はない」
空がようやく暗くなりだした頃、301号車の傍らにたつカールは部下たちへ告げた。三人の小隊長と本部班長に、完全武装の歩兵下士官が一名加わっている。周囲の明るさは、みなの表情をかろうじて読みとれる程度だ。
太陽は地平線に到達し、間もなく姿を消そうとしている。
「日付が変わるのと同時に出撃し、われわれ前衛は右翼、旅団長直率の本隊は左翼から正面の集落へ接近する」
カールは左手を首元へやり、ジャケットから覗くシャツの襟をわずかに緩めた。水路や池が点在するからか、涼しいわりに湿度が高く感じられる。まとわりつく空気が、妙に鬱陶しい。
「第一目標である集落は、本隊が制圧を担当する。牽制砲撃そのほかにより、これを支援するのが前衛に課せられた最初の任務だ」
カールはそこまで言うと、歩兵のほうに目をむけた。舟形帽の下に赤毛がみえる、曹長の階級章をつけた若い下士官だ。肩にスリングを伸ばした短機関銃をかけ、ヘルメットは腰のベルトに留めている。
「よって擲弾兵はしばらく、車内にて待機してもらう。いいな、ケルン曹長」
「はっ、承知しております」
下士官はそう答えてかるく頷いた。擲弾兵大隊からの増援である彼らは、各中隊に一個小隊ずつ組み込まれている。前衛にはその他に、同じく擲弾兵大隊の自走カノン砲小隊と、旅団本部に属する装甲偵察小隊も所属する。装甲偵察小隊は先行して、敵陣地の監視任務を遂行中だ。
「曹長、擲弾兵小隊の状況をおしえてくれ」
「我が第3中隊第3小隊は、装備・人員ともに定数を満たしております」カールのもとめに応じて、ケルン曹長は説明しはじめた。「人員は下士官六名および兵卒三二名、SPWは各分隊および小隊本部の計四両です。携行火器のほかに軽機関銃を車載ふくめて九丁装備。指揮車は二センチ単装機関砲を搭載しております」
「ふむ……」
曹長の言葉をきいて、カールはみじかくそう呟いた。
彼らは至近から襲いかかる敵歩兵の迎撃といった、用心棒的な役割を主として担当する。戦車の覗き窓は視界が狭く、死角が多いので待ち伏せに存外弱いのだ。またSPWは薄いながらも装甲をもち、後部にそなえた履帯によってある程度の路外機動力を確保している。戦車の随伴役として、不可欠といっても過言でない存在であった。
「わかった。宜しく頼むぞ」
「かしこまりました」
ケルン曹長はそう答えると、周囲にむけて会釈した。将校・下士官の何人かが、こくりと頷きかえすのが見える。演習で何度かチームを組んだため、すでに顔見知りなのだ。それから隊列や作戦中の諸注意などを、カールはひとつひとつ伝達する。出撃に同行しない本部班長とも、負傷兵や落伍した車両の回収について打ち合わせた。
ひと通りの説明を終えると、彼は腕時計に目をむける。夜光塗料でほのかな輝きを放つ針が、二一五八時を指していた。
「各員、時計を合わせるので準備しろ。二二〇〇時だ」
部下たちは了承し、腕をあげてそれぞれの時計を見やった。ヒューズをはずして動きを止め、針の位置を指定された時刻へと調節する。まもなくカールのそれが、二一五九時を指した。
「一分前」
カールはそう呟くと、ふたたび口を閉じて押し黙る。部下たちはヒューズの先端に指を添え、いつでも腕時計を動かせるように待機した。
「一〇秒前」
永遠のような沈黙のひと時を経て、彼はふたたび口をひらく。
「……四、三、二、一、今!」
その瞬間、全員がヒューズを押し込み、五つの腕時計が同時にうごきだした。これで時計のズレで、行動に支障が生じることは避けられる。
「自分からは以上だ。持ち場にもどり、時間まで待機しろ……諸君らの武運をいのる」
「気ヲ付ケッ」
本部班長の短くハキハキとした号令がかかり、シルエット姿の将校、下士官たちは踵を打ちあわせた。彼らは間をおかずに右手をあげ、上官にむけて敬礼する。
空は地平線のあたりが紫であるほかは、すっかり闇に支配されていた。
カールは手早く返礼し、一同へ解散を命じる。
部下たちは踵をかえすと、思い思いに歩き出した。これから各配置へもどり、二時間後の出撃を待つことになる。
しかし彼は最後尾を進むひとりが、不意に立ち止まったのに気が付いた。その人影は上空を仰ぎみたあと、溜息をついて両肩をわずかに上下させる。カールは足を踏み出すと、その人影――フォン・メッケン少尉へと近づいていった。
「少尉、大丈夫か?」
メッケン少尉は身震いしたあと、パッと後ろに振りかえった。暗がりで表情は分かりにくいが、かなり驚いたのは確かだろう。
カールは口元をわずかに緩め、目前にたつ部下へ尋ねてみた。
「やはり、初めての実戦は怖いか?」
「はい、少し」
少尉はそう答えると、上官のほうへ向きなおる。
「ですが同時に、なんと言いますか……」少尉はすこし言いよどんでから更に続けた。「心の奥底で、高揚感のようなものも湧きあがっています。ついに自分が戦場へ立ち、敵を撃ちたおすために進もうとしている。そのことを今さらながら実感して、非常にワクワクしております」
「ワクワク、か」
部下の思いを耳にして、カールはちいさくそう呟く。
カールはメッケン少尉に語りかけた。「それ自体は悪くないが、作戦中はおちついて指揮をとれ。良い悪いに関係なく、気持ちが浮つくとどこかで足元をすくわれる。感情に引きずられて、判断を誤るなど以ての外だ」
「はい、肝に銘じておきます」
少尉の明るい声に、カールは頷くとしずかに命じた。
「さあ、はやく持ち場にもどれ。部下たちも待っているぞ」
「了解しました、失礼します」
メッケン少尉はそう答えると、すばやく敬礼して暗闇のなかに去っていく。
(多分に強がりもあるのだろうが)
不安で落ち込んだままよりは、はるかにマシではあるだろう。
そんなことを考えながら、遠ざかる部下の背中をカールは見送った。
それから彼は301号車、および302号車の乗員たちを招集する。今後のながれをひと通り説明し、希望者には最後の休息として一〇分ずつの喫煙を許可した。301号車では操縦手とアイスナー、そしてカール自身のあわせて三人が該当する。
カールは乗員たちに先を譲り、301号車の後部によじ登った。
彼は順番を待ちながら、しばらくのあいだ作戦計画の確認に集中した。各手順における中隊の役割を反芻し、それぞれにおける行動を頭のなかでシミュレートする。
「中隊長どの」
考え事へ夢中になっていると、不意に右側の暗闇からアイスナーの声がした。彼は妙にあかるい口調で、カールにむけて告げた。
「お待たせしました、交代します」
「分かった」
カールはそう呟いて、手元の腕時計を見やる。部下たちに喫煙を許可してから、すでに二〇分以上過ぎていた。彼は一旦しゃがみこみ、地面めがけて飛び降りる。グシャリとした土の感触が、足元全体につたわった。
彼は立ち上がり、アイスナーのほうへ向きなおる。
「ところでハンス」カールは部下に尋ねてみた。「作戦まで間もないのに、おまえ随分と嬉しそうだな」
「え? ああ」
アイスナーは一瞬キョトンとすると、恥ずかしげにうつむいて左手で頭をかきはじめる。
「東方ではここ一年ほど、受け身の戦いに終始していましたからね。後退準備のためとはいえ、積極的な行動に出られるのは有り難いです」
「……確かにな」
同意の呻きを漏らしたあと、カールは上着の内ポケットへ手を伸ばした。装甲で敵弾をはねかえし、機動力をもって敵中ふかく突き進む……そんな戦いは久しく経験していない。半年前の冬季戦において、装甲兵団はもっぱら『火消し』任務への従事を余儀なくされたのだ。
カールは手にした煙草のパッケージから、おもむろに一本取って口に咥えた。
「なら、せっかく得ることが出来た機会だ。せいぜい派手に暴れてやろう」
「お任せください、期待にこたえてみせますよ」
「その意気だ」
「はい」
アイスナーはそう答えると、闇のなかでカツンと踵を打ち鳴らした。
「では、車内に戻ります」
「おう」
カールが頷いてみせると、アイスナーは敬礼を済ませて301号車のほうを向く。車体へ手を伸ばし、履帯に足をかけるとそこを登っていった。
(作戦の準備に手一杯だったからな)
砲塔のキューポラへ潜り込むアイスナーを横目に、カールはそんなことを思った。部下たちが様々な想いを抱くのをみて、正直おどろきを感じている。
彼はライターで煙草に火を着け、うすい煙を空中に漂わせた。
「受け身、か……」
カールは先ほどアイスナーが放ったことばを、小さな声で呟いてみた。第119旅団も本来は、『火消し』に投じるべく創設された部隊である。それがまったく逆――戦車兵の本領というべき任務につくのは、なかなか不思議というべきだろうか。
(違和感をおぼえたのは、その辺りが理由なのだろうな)
そんな事をぼんやりと考えたあと、カールは深々と煙草を吸った。時間いっぱいまで喫煙をたのしんだあと、靴底の土を軽く払い落として車体へあがる。
キューポラを抜けて、車内に潜り込んでいった。
砲塔内部に設けられた照明は、ちいさな電球が天井にひとつきりである。狭苦しい密閉空間では、不気味さに拍車をかける程度のレベルしかない。そのうえ風通しが劣悪なため、車内は湿気がひどかった。
ハッチを開け放ったまま、カールは車長用の硬くちいさな座席に腰をおろす。
「お帰りなさいませ」
座るのと同時に、左前方の砲手席からアイスナーが声をかけてきた。
「うむ、戻ったぞ」
カールは仰々しい返事を済ませると、壁にかけられたヘッドセットへ手を伸ばした。両耳と首元にセットし、準備を終えると部下たちに呼びかける。
「各員、点検報告知らせ」
車長の指示を聞くと、乗員たちはすぐさま作業を開始した。暗がりのなか各種装備を手探りし、あるいは目視でひとつひとつチェックする。
「砲塔旋回機構、異常なし」
最初に知らせてきたのは、アイスナーであった。
「照準レンズに曇りなし、ゼロ調整完了。発射ボタンも異常はみられません」
「了解」
カールが頷いてみせると、続いて装填手が報告の声をあげた。その後も無線手と操縦手が、順番にそれぞれ報告する。
「よろしい、ご苦労だった」
カールは全員にねぎらいの言葉をかけたあと、アイスナーのほうを見た。
「ハンス。打ち合わせで話した通り、まずは敵陣地を砲撃する。照準器の目盛りは一五〇〇に調整しておけ」
「了解。しかし、夜間射撃には遠くないですか?」
「構わん。こちらに目を引き付けるだけでも十分だ」
砲手の疑問にこたえると、カールはつぎに装填手へと呼びかける。
「エーリヒ。別途指示しないかぎり、しばらくは榴弾を用意しろ」
「はい」
「今のうちに、砲弾の格納場所を頭に入れておけ。いいな」
「分かりました。が、がんばります」
「頼むぞ」
カールは若い部下を励ますと、操縦手と無線手にいくつか指示をつたえた。やり取りを済ませたあと、全員へ待機を命じて腕時計をチラリと確認する。まだ四〇分以上の余裕が残されていた。
(この時間は、いつまで経っても慣れないな)
口元をすこし歪ませながら、彼はそんな事をふと考えた。すべての準備が完了し、あとは始まりを待つだけ……こういった合間は、やることが無く落ち着きを失いがちだ。ジメジメした車内の空気も、こうした思いにいっそう拍車をかけてしまう。
カールは背筋をのばし、開け放ったままのキューポラから顔をだした。
彼はそよ風を顔面に受けながら、辺りをぐるりと見渡してみる。夜間行動をとるので車間距離は短め――三〇メートルほどだが、右手と背後にならぶ僚車の姿は、ぼんやりとしたシルエットでしか確認できない。いっぽう正面では第1中隊に属する各車の、車体後部に設けられた識別灯がちいさな緑色の光を放っている。
カールはなんどか深呼吸して、気持ちを落ち着かせようとする。他の乗員たちは息をころし、声を発することなく配置についていた。聞こえるのはゆっくり回転し続ける、エンジンの低音だけだ。
彼らはその時がおとずれるまで、静かにじっと待ち続けた。
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