病床にて      三月六日 一四三〇時

「経過は良好ですね」

 若い軍医は丸椅子に腰かけると、目前のベッドにすわる患者へ話しかけた。くたびれた白衣の下に、フィールドグレイ――灰色がかった緑色の野戦服を着込んでいる。

 患者のほうは上半身をさらしており、左肩のあたりが石膏製のギプスで覆われていた。ベッドの左右は白いカーテンで仕切られ、奥にある石炭ストーブが、室内をほんのりと温めている。

 軍医は説明を続けた。「このままいけば、三日ほどでリハビリに移れるでしょう。予定通り、半年後には退院できるかと思います」

「分かりました」

 ベッド上に居るカールはそう言うと、軍医へちいさく頭を下げた。

 軍医はカルテにペンを走らせ、それが終わるとふたたびカールに目をむけた。

「検診は以上です。明日もおなじ時間に伺います」

「はい」

「では、お大事に。中尉殿」

 軍医はカールにむけて敬礼し、次の患者を診るためベッドから離れていった。

「中尉どの、ね……」

 軍医の後ろ姿を見送ったカールは、ポツリとちいさな声で呟いた。自由にうごく右手でシャツをとり、左手をかばいながら袖を通しはじめる。ギプスを付けているため、サイズはすこし大きめだ。

(どうも、実感が湧かないな)

 カールは入院のきっかけとなった、ひと月前の出来事を思い出した。

 戦闘の終盤において、21号車が被弾したのはエンジン部分のど真ん中であった。後方から爆発音が鳴り響き、事態を察した彼はすぐさま「脱出!」と叫びをあげる。自身は指揮官であるため、部下の離脱を見届けてから車外にでた。

 砲塔上にたったカールは、地面へ飛び降りようと身構える。

 そのとき燃料に引火したのか、車体後部でふたたび爆発が起きた。

 カールは驚いた拍子に足をすべらせ、砲塔から地面に転落した。雪がクッションの役目を果たしたものの、左半身をぶつけて声も出せぬほどの激痛に見舞われる。部下たちの助けでその場を離れ、痛みに耐えながら戦いが終わるのを待ちつづけた。

 手当を受けたのは戦闘が終わり、拠点である無人の集落に帰還してからである。

 彼は体のあちこちに打撲を負ったうえ、左肩を骨折してしまっていた。大隊本部から派遣された軍医は、中隊長と相談のうえ後送を決定する。

 送られた先は占領地内の、接収された民間病院であった。そこでカールは治療を受け、一か月かけて順調に回復しつづけている。打撲と骨折による痛みは、今や殆ど感じない。

 くわえて彼は一週間前に、中尉への昇進辞令も受け取っていた。突然とどいた知らせに多少困惑したことを除けば、彼は現状におおむね満足感を抱いている。


(さて)

 シャツを身につけ終えたカールは、これからどうするかを考えた。

(図書室にでも行くか)

 彼は方針を決めると、ベッドからゆっくり立ち上がった。院内のそれは蔵書が元々すくないうえ、暇を持て余していたこともあって、目を付けたモノは既にあらかた読み終えている。とはいえベッドの上で、じっとしているよりはマシだろう。

 その時、一人の男が目前に現れた。

 その男はおおきな支給品のリュックを背負い、戦車兵用の黒い短ジャケットを着ていた。同色の舟形略帽(名前のとおり、小舟を逆さまにしたような形をしている)をかぶった、覚えのある丸顔をみてカールは思わず声をあげる。

「……ハンス? ハンスじゃないか?」

「お久しぶりです」

 ハンス・アイスナー軍曹は、恥ずかしげに笑いながら敬礼した。21号車で砲手をつとめる部下で、二年ほどあとに入隊した後輩だ。カールとは将校へ任じられる以前から、車長と砲手としてコンビを組んだ仲である。

 カールは先ほど軍医が使っていた、丸椅子を指し示した。アイスナーが荷物を置いて腰かけたあと、彼もふたたびベッドへすわり込む。

「まずは中尉への昇進、おめでとうございます」

 アイスナーはカールへ祝辞を述べると、リュックのほうへ手を伸ばした。おおきめの紙袋を取り出し、上官に渡しながら言葉をつづける。

「こちらをどうぞ。祝いの品としては、少しささやかな物ですが」

 カールは紙袋を受け取り、そっと中を覗いてみた。チョコレートがふた包みにキャンディの箱がひとつ、そして紙巻き煙草のパッケージがみっつ入っていた。

「いや、有り難くいただくよ」

 彼は満面の笑みをうかべて、馴染みの部下にそう答えた。戦時下の物資統制が厳しいため、嗜好品は普段と比べ物にならないほど入手が困難になっている。

 紙袋を傍に置くと、カールはアイスナーのほうを見た。

「しかし、一体どうしてここに? 小隊はどうしたんだ?」

「実はですね……」

 アイスナーはそこまで言うと、今度は懐から一枚の封筒を取り出した。差出人の類いは書かれてないが、表に翼を広げた鷲――陸軍の紋章が刻印されている。

 彼は封筒から書類を取り出し、上官のほうへ手渡した。それを一瞥したカールは、驚きで目を見開いてしまう。そこにはアイスナーにたいして、転属を命じる旨が記されていた。

「お前もなのか」

「はい、小隊長殿とおなじ所です。四日ほど前にとどきました」

 アイスナーは頷いた。

 実は昇進と同時に、カールも転属辞令を受け取っている。そこには『第119装甲旅団、第1119装甲大隊第3中隊長へ任ず』と書かれていた。

「少尉任官から一年ちょっとで昇進し、その上いきなり中隊長か」

 カールは溜息まじりに、そう呟いてみせた。

 戦争の長期化による部隊の大量新設、および最前線における損耗の補充により、現在の帝国軍は慢性的な人手不足に陥っている。

 この問題は軍自身も認識しており、将校については兵卒や下士官向けの速成コースが、すでに開戦直後に整備されていた。大量に必要とされる小隊指揮官レベルなら、現場の人間を教育・昇進させたほうが手っ取り早いからである。

 本来はこのシステムでとりあえず頭数を確保し、『本命』たる士官学校組の養成をじっくり行うというのが、軍上層部の方針であった。だが連邦との争いが期間・規模ともに予想を上回ったことで、予定はあっけなく破綻してしまう。そのため昇進基準や教育課程の簡素化といった泥縄的な対策が――速成組だけでなく士官学校ですら――頻繁に施されるようになっていた。

「本来は嬉しい事だが、この情勢では素直に喜べないな」

 上官の愚痴めいた物言いに、アイスナーがニヤリと笑みを浮かべる。

「まあ、お給料は増えますよ」

 カールはおもわず苦笑して、「そうだな」と答えてみせた。物事の悪い面ばかり眺めていれば、気が滅入って精神がおかしくなってしまう。

 それから二人は話題を変えて、しばらくのあいだ雑談に興じた。カールが治療の進み具合を説明し、いっぽうアイスナーは中隊の近況を口にする。同僚の無事を知らせるその表情は生き生きとしていてが、前線の話にうつるとほのかに陰りがみえたのを、カールは決して見逃さなかった。


 ひと通りはなし終えると、アイスナーは室内に掛けられた時計に目をやった。

「すみません。列車の時間があるのでそろそろ」

「そうか」

 カールは頷くと、おなじく時計に視線をむけた。一五〇〇時をわずかに過ぎた所である。アイスナーが訪れてから、もう三〇分ちかく経過していた。

 部下が腰を上げはじめたとき、カールの脳裏にふとした疑問が浮かぶ。

「ハンス。配属先についてだが、どういう所か具体的な話は聞いているか?」

 アイスナーはわずかに考えたあと、申し訳なさそうな顔をした。

「いえ、辞令書を見ただけで……詳しいことは何も」

「やっぱりか」

 カールは右腕で顎をさすり、うめき声をあげると続けて言った。

「まあ、実際に見てみれば分かることだ。着任までの楽しみにとっておくよ」

「了解しました」

 頷いたアイスナーは、身支度を整えると右手を目尻にあてて敬礼した。

「では、先に行ってお待ちしております」

「おう、またな」

 カールは返礼をかえすと、踵をかえした部下を見送る。

 アイスナーが部屋から去ると、彼は紙袋のほうに右手を伸ばした。キャンディの箱を取り出し、中身をひとつ口の中へ放り込む。ベリー系の果実が原料らしく、酸味混じりの甘さがたちまち舌へ伝わってきた。

 そのうち、扉の向こうで慌ただしい声が聞こえはじめる。

(何かあったのか?)

 カールはキャンディを下で転がしながら、漏れつたわる音に耳を澄ませた。話し声は判別できないが、何名かの男が廊下を駆けているようだ。足音の具合から判断して、どうやら階段をとおって下に移動したようである。

「まったく、死神というのは仕事熱心だな」

 カールはそう小声で呟くと、キャンディのほうへ意識を向けていった。

 病院には東方戦域のあちこちから、千人ちかい患者が運び込まれて治療を受けている。その大半は戦傷者で、当然ながら目を覆いたくなるような――一生残るキズを負った者も少なくない。

 院内では痛みに耐えかねた泣き声や、呻き声が流れるのは日常茶飯事のことである。兵卒たちが収容されている、一階部分の大広間は特にひどい。そこに並べられたベッドでは、ほぼ毎日誰かがこと切れている。将校という立場から、比較的小ぎれいな病室に入れたカールは幸運であった。

 時間をかけてキャンディを舐め終えたあと、カールはゆっくりと立ち上がった。

(……やっぱり、なにか本を借りてこよう)

 彼はゆっくりと歩きだし、扉に手をかけて廊下に足を踏み出した。


 検診での見立てどおり、リハビリはそれから三日後にはじまった。以後も治療は順調にすすみ、わずかな期間をへて彼は退院を許される。

 カールがあらたな任地に出発したのは、三月二〇日のことであった。

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