第6話 ナオちゃん
──梅雨が終わったと思ったら、どんどん暑くなる一方だね。皆さんは水分補給はこまめにしていますか?
──昨日の話なんだけど、台湾カキ氷を食べてきました。マンゴーが乗っていて、氷がふわふわしてるの。タピオカはまだ食べてないよ? 本当だからね?
──質問コーナーとお悩み相談室にそろそろ移ろうか。まず一枚目は、ラジオネーム・凛子さん。『顔出しのお仕事、お疲れ様でした。ユキさんめちゃくちゃカッコよかったです! また会えるお仕事はありますか?』あはは、ありがと。
──そうだねえ。実は、ちょっとあるんだよね。あ、こういうメールばかり選んでいるわけじゃないからね! 誤解しないように。
スタッフが笑う。僕は笑うどころじゃない。問題発言が飛び出した。ちょっとあるとは、どういう意味だ。
──渋谷で、ナオキ君と仕事をしたでしょう? ぜひまた司会と通訳をお願いしたいとお話を頂いてね。大学の文化祭の仕事なんだけど。
──また公開収録をすることになりました。どこでどんな縁が待ち構えているか、本当に分からないね。また関東だけど、お近くの方、ぜひ遊びに来てほしいな。
──僕は、お弁当に添えられている沢庵に徹します! ナオキ君の出番を取ったりしないので、心配しないでね。
ラジオからは、大学名と場所や時間帯が飛び出す。すべて、僕の大学の文化祭と一致している。本当に、縁はどこで転がっているのか分からない。けれど話は僕に話は伝わっていない。部長は何も言っていなかった。
部長に「通訳の方はどうなりましたか」と送ると「誰か来るらしいよ」と返事が来た。あんまりだ。ナオキ以外どうでもいいという思考回路がだだ漏れだ。悔しくて、クッションをぼすんぼすん叩いた。
僕は机と葉書に向かい合い、さっそくペンを走らせた。
──ユキさん、こんばんは。こんな偶然ってあるんでしょうか。ユキさんが公開収録を行う大学は、僕の大学なんです。どうしよう、うれしい。放送サークルに所属していて、慌ただしいですが、準備を進めています。しかも、八月二十日は僕の誕生日でもあるので、最高のプレゼントになりそうです。むっちゃ楽しみにしています! ハルより。
気持ちの抑えきれなくなった僕は、こっそりと部屋を出てらポストのあるコンビニまで走った。深夜に投函したところで取りにくるのは午前九時だ。意味のないことでも、大いに意味はある。彼の手元に届きますように、と拝んだ。意味はなくても、意味はあるのだ。
その日、僕はあまり眠れなかった。
大学の講義を終えた後、さっそくデパートに足を運んだ。
父の日フェアはとっくに終わっていて、今はサマーフェアだ。いつも何かしらイベントを開催している。
「何かお探しですか?」
お決まりの言葉と笑顔に、愛想を浮かべ、僕は違うフロアやな移動した。あまり、得意ではない。というか、こういう行為が好きな人を見かけたことがない。放っておいてもらえた方が、僕としては需要がある。後ろから肩を叩かれた。
「え? な、なんで?」
『ハーイ』
帽子やマスクをしていれば普通は分からないものだが、僕には分かる。二つのアイテムも顔の一部として認識してしまっているから。
『お、お久しぶりです……』
『久しぶり! 何買うの? 今日カレーは? 食べに行く? どうする?』
『今日は食べる予定はないです……ちょっとプレゼントを……』
『日本人はプレゼント大好きだね!』
『そうですかね……人によりけりかと……』
『同じ人?』
『……………………』
『ワァオ』
まだ何も言っていない。
今のところは回りからナオキだと気づかれておらず、僕目線でも怪しげな外国人だ。にしても声が良い。ユキとは違う系統で、ナオキは弾むような、水面の上で弾けるミルククラウンのような声だ。爽やかさと元気が混じった声。
『よし、僕も選んであげよう』
『結構です。ひとりで選びたい……』
マスク越しだというのに、ナオキの口元はへの字に曲がった気がした。
『なんでここにいるんです?』
『今日は休み。明日は北海道に行くんだよ』
『また抜け出してきたんですか』
『だって、寂しいじゃん』
声のトーンが変わり、ナオキの肩が分かりやすいほど下がった。
寂しい。もてはやされる芸能人から聞く言葉じゃない気がして、英語の聞き取りを間違えたのかと思った。
『ええと……一緒に買い物します?』
『いいの? 迷惑じゃない?』
『偶然にも、せっかく会えたんですから。ナオキさんさえ良ければ』
『え』
マスクと帽子の隙間から見える目は青く、確か彼は日本人とアメリカ人のハーフだったと思い出した。
『……バレてたんだ』
『怪しすぎますよ』
『ね、買い物したら、カレー食べに行こうよ』
期待に満ちた目をされると、どうにもならない。返事は「はい」一択のみだ。
『ところで、何買う気? この前のハンカチは受け取ってくれた?』
『……なんともかんとも』
ラジオを通し、間接的に青が好きだと言ったこと、偶然だとは思いたくない。おそらくだとか、多分だとか、余計な単語が動詞につくのが寂しく感じる。
『迷っています。とりあえず来てはみたんですが』
『ふうん。花は?』
『枯れてしまうと思います。渡すのは八月ですから』
『枯れない花にすればいいよ。俺よくもらうけど、嬉しいし』
ナオキは僕の手を引っ張ると、さっさとエレベーターに乗り込んだ。二人きりの秘密の空間なことをいいことに、帽子を脱いでうちわ代わりにした。
『幸せ者だね』
『僕がですか?』
『君が幸せかどうかは分からないよ。君にこんなに想われてる人が』
『……どうでしょう。勝手にプレゼントを送りつけて、迷惑かもしれません』
『人を好きになる気持ちって、悲しくて流す涙の痛みにそっくりなんだよね』
もしかして。もしかしたら。
ナオキは壁に貼り付けられた鏡を見るが、自分を見ていない。もっと遠くの、遙か先を見ていた。
『恋してるんですか?』
大きな瞳はまん丸になり、来る途中に見た僕を見つめる猫を思い出した。
『……叶わぬ恋だよ』
そんなにもてるのに、とは言えなかった。
寂しいと呟いたナオキも、叶わぬ恋をしているナオキも、芸能人という枠組みを外れた場所にいて、いつも独りぼっちなのかもしれない。僕と変わらないのかもしれない。
『会えないんですか?』
『いや、会えてるよ。けっこう長年近くにいるし』
幼なじみのような人が頭に浮かんだ。遠くに居すぎても、近くに居すぎてもつらいなんて、恋愛は不自由すぎる。全然、自由意志なんかじゃない。
『続きはカレー食べながらにしよう』
降りた場所はただの花屋ではなく、ブリザードフラワーを専門に扱う店だった。どんなのがいいのかと聞かれれば、持ち帰りに不便にならず、青がいいと訴えた。イメージで選んだハンカチだったけれど、彼ははっきりと青が好きと言った。選択肢は他にはない。
値段も手頃で、メッセージカードを無料でつけられると言われ、ハンカチを選ぶときよりも早く決まった。僕は少し急ぎ気味に、買い物を済ませた。というのは、店員がちらちらとナオキを見ているのだ。立ち入り禁止と書かれたドアからも女性店員がやってきて、なぜか付きっきりでお金を支払う羽目になった。貧乏なのに申し訳ない。お得意様になった気分だ。
場所を移動し、わざとらしくメッセージカードはひとりで書きます、というと、さすがに店員はついてこなかった。笑顔はときに最大の攻撃や防御となる。
『ユキ?』
ナオキは後ろから覗くと、カタカナ二文字を首を傾げて読む。
『日本語読めるんですか?』
『少しだけ。難しい漢字はダメだけど。ユキちゃんっていうのか』
何もショックを受ける話ではないのだ。世の中は男性と女性が恋愛するものと相場が決まっていて、それが世界の理だ。僕は「そうだよ」と答えた。それでいい。話をややこしくする必要がない。
『僕の好きな人だけど、ナオって言うんだよね』
『同じ名前が入ってるんですか?』
『うん。ちょっと嬉しいし、運命感じた』
『ナオちゃんかあ』
なんて書こうか。カードに集中していると、視線を感じ、顔を上げる。
悲壮感漂う顔とは今のナオキの顔を言うのだろう。マスクに隠れていても、きっと歪んだ顔も美しい。立場は違えど、片想いの辛さを味わうのは人種も性別も職種も関係ない。
──好きです。大好き。ハルより。
シンプルに、ストーカーになり過ぎず。けれど相手がどう気持ちを受け取るかが問題だ。ストーカーの多くは気づいていない。後ろから覗き込む彼は首を傾げるだけで、漢字はなかなか難しいようだ。
この前と同じスリランカカレーのお店にやってきた。スリランカ紳士が笑顔で出迎えてくれ、一番端っこの席に案内される。
『どうして、好きな人のことを話してくれたんですか?』
『こういう話は嫌い?』
『……あまり、したことないので。ちょっとわくわくしました』
『僕も。そもそも恋愛禁止だし』
『やっぱりそうなんですか?』
『事務所NGじゃなく、僕NG。ひどいよね。人権侵害だ』
そう言うナオキは、うっすらと笑っている。
『それだけ芸能人としても期待されてるってことじゃ』
『だと良いんだけど。問題起こすのはまずいしね』
『恋愛が問題に繋がるんですか?それちょっと横暴じゃ……』
と、言いかけ、僕は頭を唸らせる。もし、DJユキが熱愛と出たらどうだろう。めでたいとケーキを焼くか、発狂して夜叉になるか。僕が唸るのをナオキは不思議に首を傾げる。
どう転んでも、例え相手が女神でも、僕は夜叉になるだろう。
『いくら相思相愛でも、別れたときは女性は切り替えが早い。もうとっくに他人で、今まで撮った写真は週刊誌に売られる可能性だってある。人生めちゃくちゃ。ま、僕にはそんな心配はないけどね』
可能性の話であるなら、彼だってそうなることもある。あくまで仮定の話だったのに、ナオキさんの話は妙に自信と確信があるような言い方だ。そうならない何かがあるのだろうか。
『この前のバナナリーフのカレーも美味しかったけどさ、これも良い感じだね』
スリランカ紳士に今日は野菜カレーがおすすめだよ、上手にできた、なんて嬉しそうに言われた日は、快く注文するしかないだろう。確かに、美味しい。ココナッツが入ったさらさらの野菜カレー。日本とは違う米は、独特の香りがして香辛料の香りとよく合う。
カレーの後は、お酒が飲みたいというナオキのリクエストにお答えした。ナオキの泊まるホテルはバー付きで、そこに行こうと誘われる。
飲み会という大雑把なカーテンに覆われた合コンは好きになれないが、こうして好意のある男性と飲みにいけるのは、嬉しかったりする。もちろん恋愛対象としてではなく、仲良くなった人として。
『ナオキさん、実は言わなかったことがあるんですけど』
『ん?』
カクテルを傾け、横に並ぶ僕を見た。はっきりとした顔立ちに逆光のせいか、やけに眩しく見えた。少しときめいた。
『八月二十日に、大学でラジオの公開録音しますよね?』
『うん』
『実は僕、その大学で放送サークルに入ってるんです。公開録音に向けて、いろいろ準備をしている最中なんですよ』
『ワァオ、ほんとに? また会えるじゃん。僕さ、その場で出会える人を大切にしてるんだよね。日本で生まれて、ハワイ育ち。でも子供の頃から歌手になりたくて、いろんなとこに行った。自分が何者なのか分からなくなるくらい、出身も安心できる場所も見失ってた』
空色の液体は吸い込まれていき、ナオキは二杯目のカクテルを注文した。ジンとライムで作られたギムレット。遠い人を想う、とカクテル言葉を添えて、バーテンダーが笑顔も添える。ナオキには伝えないでいた。その方がいい気がした。
『だから、……えーと、』
『晴弥です。セイヤ』
『晴弥と、友達になれて、嬉しい』
大人びた顔は幼い少年になり、お酒を飲んでいいのかと心配になる。三杯目を注文しようとする彼を、さすがに止めた。段々と英語が聞き取れなくなるほど、呂律が回っていない。
『電話かかってきてますよ』
『晴弥……出て……』
『ええ……僕が?』
内ポケットに入れっぱなしの携帯電話を投げ、ナオキはついに伏せてしまった。焦らなくても、ここはナオキの泊まるホテルだ。
「あの……もしもし」
「…………誰だ?」
声が低い。元々の声質ではなくて、意図的に出された声色だ。完全に警戒されている。
「ナオキさんと一緒にいます。ご飯を食べて、ホテルのバーで飲んでいたら、電話を渡されて、彼はそのまま寝てしまいました」
場所を告げると、一方的に電話を切られてしまった。残ったマンハッタンを飲んだ。カクテル言葉は『切ない恋心』らしい。お尻がむずむずする。
ものの五分足らずでやってきたのは、ジーンズにTシャツというラフな格好をした青年だった。ナオキさんと、そう年は変わらないかもしれない。
「あ、あの……」
「マネージャーの逢坂です。うちのナオキがお世話になりました」
「いえ、ご飯も奢って頂いて……」
バーテンダーに部屋番号を告げ、つけるように言う。また奢られてしまった。
「今日のことは内密にお願いします」
「はい、誰にも言いません」
芸能人だから、いろいろあるのだろう。友達付き合いも制限される世界で、彼が出逢いを大切にする理由が分かった気がした。
きっと、八月二十日のイベントが終われば、彼は元いた世界に帰る。僕とは二度と会わなくなる。それでも、こうして仲良くしてくれた事実は何も変わらない。カレーも美味しかった。ならば、僕も想い出として大切にしたいと思う。
ユキはどう思うのだろう。文化祭で生徒と接し、想い出として大事にしてくれるだろうか。すぐに忘れてしまうだろうか。想い出にされたくない、けれど忘れられたくないと我儘な本能しか心に宿らない。切ない恋心は、なんて欲張りで傲慢なのだろう。
『ほら、いくぞナオキ』
『んん……ナオ……?』
『ああ、俺だ。部屋に戻るぞ』
え、と小さな声は逢坂と名乗る男の耳には届かない。
「すみません、タクシー代を」
「いえ、そんな! 大丈夫です。お大事にして下さい」
一揖した後はお礼を言い、僕はホテルを後にした。タクシー代をもらってしまうと、口止め料となる気がして、受け取れなかった。今日のことは誰にも言うつもりはない。ナオのことも。ナオキの人生の岐路に一緒に立った気がして、怖くて逃げるしかなかった。酔っ払った彼は、ナオと口走ったことを覚えていないだろう。なら僕も、言わずにそっとたたんで置けばいい。
ナオちゃんと言ったときの、彼の滲んだ目が忘れられない。
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