第5話 独自のルール
好きになればなるほど、愛は独占欲に蝕まれ、素直に好きと言えなくなってしまう。
ほんのちょっとの出来心だったのだ。冷蔵庫に入っている期間限定のプリンを食べてしまったくらい、後悔が大きく膨らむ結果となっても。
SNSで公開ラジオについて検索をかけたところ、ナオキだけじゃなく、ユキの隠し撮りの画像まで広がっていたのだ。公開収録は撮影禁止ではなかった。むしろライブツアーの宣伝も兼ねてSNS等で広めてほしいとまで言われていたのだ。けれどそれはそれ。これはこれ。面白くない。嫉妬で燃え上がりつつ、ユキの画像を保存してしまったのだから、僕が一番質が悪い。最低だ。言い訳だけど、欲望には逆らえなかった。
「デザートでも食われたのか?」
「え?」
「そんくらい、でかいため息だな」
「そのくらいの失態は犯したと思う……つらい」
「お前が犯したのかよ」
「うん……同罪」
「これ食って元気だせ」
ハートの形をしたゼリー。酸味の利いたレモン味。僕の心を表しているような、複雑なタイミングだった。感謝を表して、手を合わせた。雷太君、ありがとう。
「八月の文化祭について、今日から決めるんだとさ」
放送サークルは文化祭にかけて、この時期は忙しい。ライブの準備、迷子のお知らせなどをする放送関連、当日の企画。僕らの大学は、文化祭に芸能人を呼ぶのが毎年の目玉となっていた。
部室では、ホワイトボードに企画をまとめる部長の姿がある。裏返すと、白よりも黒の方が多い。まるで僕が書いたユキさん宛ての葉書のようだ。
「芸能人は誰が呼ぶんすか?」
「これからよ。どうしよう。ちなみに去年はお笑い芸人ね」
「さすがにジャンル変えましょうよ」
「例えば?」
「アイドルとか」
「下心見え見え……」
「お前もアイドルが良いよな? 可愛い子いっぱいだぞ」
「興味ないよ……」
女性には、という言葉は飲み込んだ。毎年見慣れているのもあってか、芸能人は特別な感じはしない。ただし、ひとりを除いて。神様は別。
「さっき部長と話してたんだけど、ナオキ来てくれないかなあ?」
同じ放送サークルの子がぼやく。記憶が蘇り、僕はちょっと動揺した。
「ライブツアー中なんじゃないの?」
「でもテレビの生放送で歌ってましたよ」
「あれは急に決まったわけじゃないのよ」
あと一か月だ。急な仕事でOKしてくれる芸能人は、そう多くない。
「一応、連絡してみるだけしてみたら?」
「志摩君は? 誰がいい?」
「れ、連絡してみるだけなら……早い方がいいかと」
「ほらあ! 志摩君も言ってるし!」
「なんでこいつの意見は聞いて、俺のアイドル論は無視なんだよ」
「下心があるからよ」
堂々巡りの中、とりあえずナオキさんの事務所へ連絡をすることになった。おそらく、十中八九は難しい。去年と同じように、断られた場合の第二波を用意しなければならない。このときは、全員がそう考えていた。
からっとした日差しが影をガムのように大きく伸ばす。夕方には帰宅すると、玄関には黒光りのする革靴がある。父がいる。意識していなくても、背中が丸まり肩が落ちた。
「おかえりなさい。暑かったでしょう? 顔が真っ赤よ。麦茶でも飲む?」
「うん……」
リビングでは僕の好きな香りが漂っている。スパイシーで、食欲を増進させ、ナオキとのお忍びお食事を思い出す匂い。
「夏野菜をたっぷり入れてみたのよ。お父さんの後に、すぐお風呂入る?」
「食べる前に入るよ。それとご飯は先食べてていいから」
よかれと思って吐いた言葉は、僕の天使に心ない仕打ちを与えてしまった。そんなつもりで言ったわけじゃない。
「三人で食べたいわ」
「僕は、二人きりの方がいいけど。あの人には先にご飯出したら? きっと待ってないよ」
余計に顔を歪めさせてしまった。綺麗な顔が台無しだ。
「来月、お姉ちゃんが帰ってくるわ」
「そうなんだ。会うの久しぶり。またあの人と喧嘩すると思うけど」
僕の姉は亜紀と言い、宝石店で働いている。たまに通話アプリを通じてメールも交換したりして、仲は良い。僕がゲイだとばれたとき、いの一番に庇ってくれたのは姉さんだった。母よりも、早かった。一人暮らしをしている姉さんは、仕事も忙しくあまり戻って来られない。なかなか本人には言えないけど、ちょっとだけ、ほんの少しだけ、さみしい。
入れ違いにお風呂に入り、今日の出来事をまとめてみた。歌手のナオキ。女性に人気で、今は日本全国ツアーを開催している。あの場では言わなかったけれど、部長がナオキの写真を持っていたのを目にしたことがある。多分、大学四年生の想い出として大事にしまい込みたいのだろう。ちょっとした権力を振りかざし、それほど譲れないものなのかもしれない。ナオキと食事をしたなんて、口が裂けても言えない。彼は覚えているだろうか。もしそうなら、僕も良い想い出としてとっておきたい。ひとりで想い出を背負うのは、かなしいから。
お風呂場までカレーの匂いが漂い、いい加減お腹がゴロゴロし出した。空腹は度を越すと痛みに変わる。父がいる場面では、おやつは食べられないので、もう少しの辛抱だ。
リビングに戻ると、母は笑い、早く座ってと機嫌が良い。カレーが美味しくできたのだろうか。いつも美味しいのに。
「……………………」
悪いものでも食べたのだろうか。飲んでいるのはビールで、つまみになるようなものは漬け物くらい。父はどんな表情でグラスを掴んでいるのだろう。
新聞に顔が隠れているおかげで、僕は席に着きやすかった。
三人で取り始めた食卓は、母と二人で取る食事よりも美味しくはない。美味しくないというのは語弊がある、美味しいのだ。トマトやナス、ししとう、カボチャなとが彩りよく添えられていて、天使の作るカレーは日本一美味しい。美味しくないのは、味の問題じゃないんだ。
会話はいつもの十分の一程度で、黙々と食べ進める作業だった。学食ではひとりが多いのでほぼ『作業』であっても、母がいるときの『作業』は好きじゃない。
「美味しい?」
「うん、世界一」
「ふふ……ありがとう」
早く食卓を去りたいのに、美味しすぎて二杯目に突入した。カボチャが多めに入っている。甘い野菜は特に好きだ。
米粒ひとつも残さずごちそうさまをして、部屋に閉じこもった。なんとも複雑怪奇な夕食だった。
──来月、帰るからね!
姉さんからのメールに、嬉しさを存分に絵文字で並べ、最後に宝石とキラキラを付け加えた。仕事がんばれ、の意味も込めて。
部長が机を叩くと、ペットボトルの水滴が飛んだ。ユキのCMでおなじみ、新作の紅茶だ。ミルクティーが新しく出て、そのCMもユキが担当している。甘ったるい声と同様に、ミルクティーも負けていない。夏に飲むにはきつすぎる。飲むけど。僕の想いも負けてはいない。
「ナオキが! 来る!」
「へ……? マジですか……」
「マジよ!」
数秒遅れて、女性たちからは歓声が上がる。
「あの、ナオキって名前は珍しくもないし、事務所への連絡を間違ったとかじゃ?」
「んなわけないでしょ。来るわよ」
ただし、条件付きらしい。
「うちにラジオを収録できる機材があるって話したら、渋谷のときみたいに公開ラジオで良ければ……ってこと。歌うのは禁止。ツアー中だから、ライブは条件に飲めないってさ」
「充分っすよ。にしてもよくOKしてくれましたね。次に呼ぶ人をいろいろ考えてましたよ」
「ダメ元でもやってみなきゃ分からないね。これからの人生に生かすわ」
神様ありがとう、と部長は天に祈る。雷太君は口を開けたまま若干引き気味でも、僕には気持ちが分かる。
「ナオキって日本語分かるのか?この前テレビに出てたとき、たどたどしかったけど」
「萩原君たちは英語を学んでるんでしょ?」
「学んでます。けど、話せるかどうかは別ですよ。晴弥なら話せるけど」
「志摩君、ペラペラ?」
「ナショナルスクールに通っていたので、一応は」
「うそ、すごい」
「外にスタジオを作って、人を集めて公開収録をするんですよね? 僕は目立つの得意じゃないから、無理です。一緒には出られない」
プレッシャーが凄すぎる。何万人を集める力のある歌手の翻訳なんて、良い経験になるという理想論だけでは超えられない。
「くっそ、英語話せたら女子にもてるのかよ」
「別にもてないでしょ……歌手の方がよっぽどもてると思うよ」
「それ、俺に言うか?」
「あ、ごめん」
「ちょっと通訳の件は事務所側と相談するわ。ナオキだけに好き放題話せはないだろうし」
ゲストは決まった。あとは文化祭まで一直線に走るだけだ。帰り、僕は無くなった葉書とお菓子を買い、家に帰った。革靴はない。リビングから顔を出した母にコンビニの袋を見せると、笑いながらお出迎えしてくれた。母が笑うと、それだけで蕾が一瞬で花咲きそうな気がする。
「牛乳プリン買ってきた。柔らかめのやつ」
「一緒に食べましょう。お茶は何がいい?」
「……アイスコーヒー」
諸事情があり、できれば甘くない飲み物が欲しかった。
「今日ね、お父さん遅くなるから二人でご飯を頂きましょうか。何がいい?」
「簡単なもの」
「サーモンのマリネにする?」
「簡単なの?」
「混ぜるだけよ」
仮に僕が作るとすれば、絶対に簡単にいかないと思う。母さんはいつもこうだ。
「お父さんはあまり好んで洋食は食べないものね」
「あのさ、聞きたいことがあるんだけど」
「なあに?」
「毎週、靴磨きしてて楽しい?」
父の靴が光沢を放っている理由。少しの汚れのない理由。それは、あの人が勝手に決めた家のルールがあるせいだ。お菓子の禁止、食事中のテレビの禁止、一番判断の物差しがおかしな方向に曲がっているのが、週末に妻が旦那の靴磨きをするというルールだった。
僕は良い子でもなんでもない。子供の頃、机上の計算で幅を利かすあの人への反抗心で、おもいっきり靴を踏みつけたことがあった。母は気づいていたはずなのに、何も言わなかった。ただ母の仕事が増えることが見ていられなくて、踏むのを止めた。
「そうねえ……」
笑っているが、楽しい、とはすぐに出てこない母。僕にはそれがすべてに思えた。
「晴弥はどう思うの?」
「真っ黒で、夏に沸く害虫みたいで気持ち悪い」
笑い事じゃないのに、母は楽しそうだ。
「威厳を保ちたいのよ、あの人は」
「何それ」
「晴弥とは生まれた年代も違うし、なかなか理解し合えないと思うわ」
「理解したくない」
「一家の大黒柱がしっかりしてないとっていう考え方の人なのよ。子供を育てるために自分が働き、養っていかないとね。晴弥とは合わないみたい」
「感謝というか、親が子供を育てるのは当然だと思ってる。育てず放置はただの産み落としで虐待と同じだから。それなら、生まれたくなんてない。でも……それでも母さんにはいつも感謝してる。ご飯、美味しいし」
後半になるにつれて声が小さくなっても、母にはちゃんと届いたようだ。
理解し合えない元凶の起源は、僕の帳の内にはいない人で、きっとこんな関係は永遠と続いていく。母にはあの人がいて、姉もいつか素敵な人と巡り会って、結婚するだろう。
僕の将来は、濁ったどぶ川でさ迷う魚を目指して生きているのかもしれない。
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