第4話 遮られた初対面
傘の持たない日は久々だ。アスファルトに照りつける日射もなく、過ごしにくさをあえてあげるとすれば、湿気が身体を蝕んでいるくらいだ。途中でコンビニに寄り、ユキのCMでおなじみの紅茶を購入する。最近はこればかり飲み過ぎて、篠田教授からも「紅茶の人」と呼ばれてしまった。
心臓が破裂するんじゃないかと爆音で鳴り響いている。ちょうど道路で爆音では加速するバイクが通り過ぎ、余計に心臓を激しく揺らした。花火の音を聞いても、同じような感覚になる。説明も難しいし、なかなか理解してもらえない。
バイクによって余計に激しさを増す爆弾を抱えながら、僕は渋谷駅を降りた。エンジン音より騒々しい音が鳴る中、重い足取りでラジオ収録の現場へと向かう。一度来ただけの場所は、昨日何度も地図を確認した。テスト並に遅れられないのだ。
もうすぐユキの顔を見られるとなると、気が気でない。ありがとう神様。いるかいないか分からない神に、何度も祈った。ユキ曰く「僕はイケメンでもないし目立たない顔だし、チャームポイントがあるとすれば目尻の黒子くらい」らしい。しかも対して大きくもなく、果たしてチャームポイントになりきれているのか謎だと言う。ユキの黒子になりたいと唸り声を上げた。
彼はきっと覚えていないだろうが「僕は普段から黒縁眼鏡をかけています」と葉書に書いたことがある。お洒落の話で、アクセサリーはまったく身につけず、唯一の眼鏡がアクセサリー代わりだと。そしたらユキは笑い「俺もたまに眼鏡をかけるよ」と同調してくれた。彼は忘れていても、僕はずっと覚えている。僕じゃなく、俺。普段使っているであろう一人称が出て、さらにうれしかった。
その眼鏡を、ラジオ収録の前に僕は外した。話した以上は外すしかない。彼が覚えていると調子に乗って有頂天になったわけじゃない。万が一覚えてくれていたらうれしい。でも、ゲイだと暴露してしまったのだ。なんてことを書いたんだという気持ち、ユキに会える恥ずかしさで、外す選択を取った。
黒い布地に白文字でライブツアーやナオキの名前が書かれたTシャツを着る女性が賑わいを見せていた。僕はいる場所は前から二番目の、向かって左。ユキはどっちに座るのだろう。ほぼ九割が女性を占める中、こんなにも大勢なのに僕はぽつんと取り残された気分だった。歪なものが混じっている気がした。
一時間ほど経った。あっという間だった。テストの一時間は長いのに、ユキを待つ一時間は電光石火だ。
首からIDケースを下げた男性が入ってくる。ユキではない。彼は黒髪だと言った。茶髪の彼は、ラジオスタッフの一員だろう。
「あっ……」
僕の声なんか、甲高い声に簡単にかき消されてしまう。心臓が痛い。うまく息ができない。立っていられず、靴の中で足先を何度も動かした。
光に当たり黒髪は返照し、太陽のようだ。むしろ彼が太陽なのかもしれない。僕の神様だ。すぐに分かった。神様はにっこりと微笑み、僕たちに向かって手を振っている。僕も遠慮がちに振った。
「うあ」
変な声が出た。ユキに対してではない。神様の後に入ってきた男性に、だ。女性たちからの歓声の大きさで、間違いなくナオキだろう。僕はその男性に見覚えがある。
「あの人……嘘……」
一週間ほど前、スリランカカレーを一緒に食べた人だ。帽子とマスクはしていないが、綺麗な顔立ちは忘れもしない。意外と食べ方が豪快な人。ユキとナオキに会えた奇跡で、僕の頭はショートしかけていた。
僕の神様はナオキが座るのを待ち、最後に椅子に座った。なぜ人間は瞬きをしなければならないんだと思う。瞬きの時間すらもったいない。座る姿勢も美しい。運命を感じるのなら、ユキは向かって左側、つまり僕がいるところに座ってくれたことだ。神様は本当に存在していた。ありがとう、ユキ様。
──大丈夫かな? 聞こえてる? 初めまして、DJユキと申します。渋谷はよく来るんだけど、まさかこんな形で仕事をするとは夢にも思わなかったです。まずはゲストを紹介します。シンガーソングライターの、ナオキさんです。
ナオキは英語で自己紹介をした。女性からは、これでもかと言わんばかりに黄色い声が上がる。
──ナオキさんは、いつ来日を?
──一週間前だそうです。
ユキは英語で説明を入れた。美しい、流暢な国連公用語だ。普段から使っていなければ、自信のこもった声は出ない。隣の女性から、感嘆の息が漏れる。
質問は続いていく。用意された質問ばかりだが、ユキはほとんど紙を見ていない。少し長めの横髪を耳にかけると、あることに気づいた。
「ほ、黒子……」
見える距離に僕はいる。チャームポイントになりきれていないチャームポイントは、僕にとっては立派なチャームポイントだ。
──ユキは、とっても英語が上手。なんで?
──学生時代から英語を学んできました。大学でも、英語を専攻しました。
英語でのやりとりも難なくこなし、ユキは日本語にも訳していく。ナオキは最後に、日本語でライブツアーに来てねと言い、笑顔で手を振った。歓声というより、絶叫が起こった。僕はこんな声を、オリエンタルランドのローラーコースターで聞いた気がする。
喉の渇きがどうしても我慢できなくて、僕は鞄からペットボトルを取り出した。水滴すらついていないほど、生ぬるくなっている。
蓋に手をかけたとき、僕は、人生の岐路に立った。回りの歓声や道路を走るトラックの音、すべてが無になった。冗談でしょうと問いかけても、誰も答えてくれない。
「ユキさん……」
なぜか今、憧れの人と目が合っていて。逸らしたのは彼が先だけど、笑っていた気がした。甘い綿菓子みたいに、ふわふわした笑いだった。
──今日、この仕事を受けて良かったと思う。本当にありがとう。司会はDJユキがお送りしました。縁があったら、またどこかでお会いしましょうね。
ユキも手を振る。小さな手に、これでもかというほど気を込めて、返した。また目が合った。きっとみんながそう思っている。それでもいい。幸せで、寂しい。
最後の最後まで手を振ってくれ、狭そうに身を屈めて扉の奥に入っていった。彼の姿が見えなくなると、少しの安心感と満たされた気持ちが渦巻いている。僕の感情なのに、僕が一番分からない。
女性群が移動し、僕も後をついていった。鞄にある小さな小包は、もうすぐ僕の手元から離れていく予定だ。そうであってほしい。さよならが、ときにはこの上ない幸福をもたらしてくれる場合もある。
マネージャーらしき人とナオキが出てきた。沸き起こる悲鳴に、ナオキは笑顔で応戦する。近くで見れば見るほど、千円札を僕に握らせた本人と瓜二つだ。今もその千円は、財布の中で眠っている。
女性の伸びた手から手紙だけを器用に受け取る。花や大きな箱は見向きもしない。受け取れないのかもしれない。わずか十秒ほどで、ナオキはワゴン車に吸い込まれていった。
ワゴン車が見えなくなると、彼女たちは一斉にばらけ出す。もう用済みだと、残る僕は物悲しい気持ちになった。孤独になった裏口は、僕がいる世界と変わらなくても、現実を突きつけられると本来在るべき場所なんだと思い知らされる。
こう悪い方向に考えてしまうのは、暑さのせいだ。少しふらつく身体を折り曲げ、しゃがんだ。残った紅茶をすべて飲み終え、近くのゴミ箱に入れた。
「君、大丈夫?」
顔を上げると、収録のときにいたスタッフの一人が心配そうな顔で見つめていた。
「具合悪い? 救急車呼ぼうか?」
「いえ……平気です」
顔が二重になって見える。視力が良くないせいだ。鞄をあさり、黒縁眼鏡をかけた。うん、はっきり見える。
「ナオキさんなら帰ったよ」
「え」
スタッフの目は、僕の手に集中している。青のリボンで飾られた小さな箱。勘違いされている。
「あの、違うんです。これは」
「もしかして……ユキさん?」
他人の口から好きな人の名前を聞くと、心の中が透かされたんじゃないかと慌てふためく。
「ユキさんなら、もうすぐ……」
「待って、違うんです。いや違うくないけど……あの、これ、ユキさんに渡しておいて下さい!」
一度、壁に頭をぶつけて倒れた方がいいんじゃないのか。
戸惑う彼にプレゼントを押しつけると、僕は全力で走った。中学の頃の運動会以来かもしれない。
走った。とにかく走った。電車に乗っても電車が走り、降りても家まで全力だった。次第に降り始めた雨にも当たり、家に帰る頃にはびしょびしょで、このまま汚い想いなんて流れてしまえばいいのに。雨の方がよっぽど綺麗だ。
勇気を出して渋谷まで足を運んだ。けれど、彼には会えなかった。神様が与えた試練は、まだ乗り越えられそうにない。
エアコンが利いていても、冷や汗はどうかしてくれない。初めての仕事で、引きつる笑顔のまま裏に戻ると、マネージャーがにこにこと笑顔でで迎えてくれた。その笑顔で充分救われる。笑顔でいると、詐欺師と思われる国もあるという。笑顔を大切にする日本に生まれて良かったと思えた瞬間だ。
用意された何種類かの飲み物がある中、適当に手で掴んだのはタピオカジュースで、あえて避けて隣のハーブティーをもらった。マネージャーが小さく笑っている。
「維持張りすぎじゃない?」
「いいんです。ブームが終わってから飲むと決めていますから」
ナオキ君のいた席は、食べ散らかされたお菓子や飲みかけのジュースが散乱し、台風が過ぎ去った後のようだった。マネージャーと二人で片づけた。ナオキ君は性格同様に、吹っ飛ぶほど強引な風を吹かせてくれる人物のようだ。
「ユキさんお疲れ様。これ、渡してくれって頼まれました」
「僕に?」
「男子でした」
「………………」
「あれ? 女の子の方が良かった? 残念ながら、男の子でしたよ」
からかいを込めた言葉に、苦笑いを浮かべるしかない。
平べったい小箱に、青を基調としたリボンや包装紙で包まれている。小さなカードも添えられている。
──ユキさん、いつも大好きです。ハルより。
台風が通り過ぎた後は、菜の花のような、ほんわかした暖かさと小さな幸せをそっと置いていってくれた。
「どんな子でした?」
「黒縁眼鏡をかけてました」
「黒縁眼鏡……」
前から二番目で見ていた子は、眼鏡をかけていなかった。俺がナレーションを務めたCMの紅茶を飲んでいたし、もしかしたらと思ったのだけれど。
「知り合いですか?」
「直接話したことはないんだけど、とても勇気をくれた子。やっぱりそうだ。黒縁眼鏡をかけてるって葉書にかいてあったもん」
「よく覚えてますね」
「字が一緒だしね」
丸みを帯びた字は可愛らしい。たまに描いてくれる猫の絵も、とても上手で笑ってしまう。画伯。
「今日はこの後、生放送ですよ。元気ありますか?」
「疲れが溜まってたんだけど、回復しました。あ、でも」
差し入れのメロンキャラメルがやけに俺を誘ってくる。平和そうな牛の絵と、やけにリアルなメロンのミスマッチな絵がパッケージの銘菓だ。一個食べてみた。車の中でも食べよう。もう一つは、ポケットの中に入れた。
裏口の扉を開けると、生ぬるい風が隙間を通る。こんな暑さに、何十分と耐えていてくれた人たちに、感謝しか沸いてこない。例え大半がナオキ君のファンであっても、俺の声にも耳を傾けてくれた。
脇に設置されたゴミ箱に、ペットボトルが捨ててある。中にはまだ水滴が残り、蒸発していない。ハルなのか? それか前から二番目で見ていた子か。あの子がハルだという保証はない。マネージャーに押されるまま、ワゴン車に乗った。
プレゼントのリボンを外し、中を開けてみる。中身も青に統一されていて、チェック柄のハンカチだ。青が好きだと話したことはなかったはず。ハルのイメージする俺は、青らしい。ちょっと面白い。名前は雪央からとってユキなのに、冷たい雪のような印象は与えていないみたいだ。
公開スタジオからいつもの慣れたスタジオに入り、メールや葉書をチェックする。文明の利器を多様化する世の中では、葉書は数えるくらいしかない。今の時代はメールだ。その分、葉書はとても目立つ存在だった。
ポケットの中に入れっぱなしになっていたキャラメルを思い出し、美味しく頂いた。お茶請けのお供にはここにも何種類かの飲み物があり、皮肉にもタピオカミルクティーがある。さまよった手は、隣のブラックコーヒーに伸びた。
「ユキさん飲むかなあと思って」
半目で睨むと、テーブルにバターサンドが置かれた。今日はよく、牛のイメージが付きまとう某地域と縁があるようだ。平和でいて、大麻の温床にもなっているアンマッチな雪国。そして俺の生まれた街。思えば思うほど、狂おしいほど胸が締めつけられる。
閉め切られた空間にひとり座り、俺はカフを上げた。この瞬間、ただの雪央からDJユキへと変わる。
──今日は初めて顔出しの仕事をしました。顔出してない分、イケメンと思ったでしょ? 残念でした。こんな顔です。
──僕にしてみたら、勇気のある仕事で、とてつもない財産になったと思う。もし分与しなければならないとなったら、絶対に渡さないくらいに。素敵な出会いもあったしね。
カフの横に置かれた青いハンカチは、同じく勇気と希望の象徴だ。俺が彼に勇気をもらい、声に乗せて返し、さらに愛にまみれた贈り物をくれた。
──そうそう、僕は青が一番好きなんだ。雲一つない夏空っていうか、見てるとまた頑張ろうって気分になる。名前はユキなのにね。本当に、どうもありがとう。次こそは、快晴のときに出会いたいね。
幸せな空間に包まれる中、濁った水に浸かっているような感覚だった。幸せになってはいけないと、俺もまた呪いの声が木霊している。自分の価値や誰かと寄り添う答えを、未だに見い出せずにいた。
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