第3話 一期一会
梅雨特有の蒸し暑さが体力を奪い、僕はいつものミネラルウォーターではなく、ユキさんがCMのナレーションをしている紅茶を買った。昨日のラジオが偶然の重なりでも、ラスト一本だった紅茶を手にできたのは運命だと勝手に結論付けた。飲む前から元気が沸いてくる。
僕は本屋でアルバイトをしている。店長や他の従業員とも仲が良く、恵まれている職場だと思う。卒業したらぜひ働いてほしいと言われるほどには、うまく馴染んでいる。
売場を通ると、客人はほとんどいない。レジにいる店長と目が合った。店長は申し訳なさそうに頭を下げる。それもそのはず。ほんとは、今日は仕事がない日だった。他の従業員が出られなくなり、急遽僕が入ることになった。
エプロンを身につけ、売場へのドアを開けようとしたら、ちょうど店長が入ってきた。
「今日はシュリンクお願いできる?」
「分かりました。売場は一人で大丈夫ですか?」
「暇なくらいだよ……やることなくて」
新発売の雑誌や本に、ビニールで包装する作業だ。少し湿気臭い、エアコンの利いた部屋で僕は淡々と作業を進めていく。
シュリンク作業と売場のメンテナンスで、今日の仕事は終了した。いつもならまだ数時間あるけれど、他の従業員と交代の時間だ。
「お疲れさん。お土産なんだけど、食べる?」
箱には丸みを帯びた可愛らしい字。現地の人から見たら、可愛いの語句に違和感を覚えるだろう。
「スリランカに行ってきたんですか?」
「よく分かったね。スリランカに行ったのは僕じゃないけど。友達が行ってきて、たくさんもらったからお裾分け」
「ありがとうございます」
「外国語学んでるんだっけ?」
「はい。シンハラ語は読めないですけど、見たことはあるので」
定番のジンジャークッキーは、ジャムを乗せて食べても美味しい。スリランカは紅茶も有名で、紅茶とも縁があると無理やりこじつけた。その方が、なんだか気分も上がるし楽しくなる。家で飲みかけの紅茶と食べよう。
「さっき海外のお客さんが来てたんだけど、志摩君を呼べば良かった」
「何を聞かれたんですか?」
「さあ……。エクスキューズミーしか分からなかった」
明瞭なカタカナ語に、思わず笑ってしまった。
店長に挨拶を交わし、僕はビルを後にした。ジンジャークッキーが入った分、ショルダーバックは箱の形に膨らんでいる。
臨時で入ったとはいえ、なぜ早くアルバイトを終わらせてもらったのか。それはこれからの予定のためだ。仕事中はあまり思い出しはしなくても、いざビルを出ると、細かく立てた予定をまっとうしなければならない。言い過ぎでもなんでもない。ユキさんへのプレゼントを買いに行くのだ。僕の人生は、彼の声で支えられている。
『ハアイ』
朗らかなハアイ、だ。その後に、日本人らしからぬ発音でエクスキューズミーと続く。僕は後ろを振り返った。
『英語、分かる?』
『一応、分かります』
『良かった。みんな逃げるんだもん。せっかく日本に来たのに』
『どうかされましたか?』
少し弾んだ、歌うような喋り方だ。何かに操られたように指先を指揮棒のように動かすのは、癖なのだろうか。
『CDショップに行きたいんだけど、迷っちゃった』
『このビルには入ってないですよ。駅前で良ければご案内しましょうか?僕も用があるので』
『いいの?ありがとう。ホテルに泊まってて出るなって言われたけど、つい飛び出してきちゃったんだよね』
『……心配されていませんか?』
『メールは入れたし、平気』
タンクトップに帽子とマスクというアンバランスな格好である。暑くないのだろうか。日本以上に暑い国はどこだろう。さっきの話の流れで、スリランカしか思い浮かばない。スリランカの公用語はタミル語、シンハラ語、英語だが、英語の癖は強い。この人は、なんとなくアメリカ訛りの英語に聞こえる。
駅前のデパートで別れようと思っていたのに、怪しげな男性はなぜか背後をついてくる。CDショップは上の階だ。
『僕、ここで用があるので』
『ファザー?そっか。父の日か』
発音が聞き取れなかったのかと自分の耳を疑った。
『僕の国でもあるんだよ、父の日』
えっへん、と少し子供っぽさを出し、笑った。父に褒めてもらいたい子供のようだ。
『日本の子供は何を買うの?』
『子供?』
『高校生くらいでしょ?』
『大学三年なんですけど……』
『……ワァオ』
さすがに、ちょっと悲しい。一七〇センチメートルにギリ届かない身長では、子供に見られても仕方ないのかもしれない。
『ゴメンナサイ』
『いえ、そう見えたのならそれが正しいと思います』
ユキはどれほど背丈があるのだろう。横に張り付く男性は、優に一八〇センチメートルはあるだろう。他人にはどうでもいいプライドが邪魔をして、聞くに聞けない。
気を取り直して、プレゼントを選ぼうと店の中に入った。ほとんど青一色だ。父という生き物は青が好きなのか、それとも作り上げたイメージなのか。一度ついてしまったイメージは、簡単には払拭できるものじゃない。ユキという名前であっても、白のイメージは浮かばない。カラカラに晴れた夏空のイメージがある。
『父の日のプレゼントを買うわけじゃないです』
これでもかと視線を浴びせ続けてくる男性に、僕は痺れを切らした。
『買わないの?お父さんがいないとか?』
『いることはいます。あまり、仲良くないので』
『ああ、そういうこと』
男性は、それ以上聞いてこなかった。面倒ごとだと察したのか、僕としてもあまり語りたい話題ではない。なぜ仲が悪化してしまったのか、にどうしても要点が向いてしまうからだ。
店員の女性と目が合う。少し曖昧に笑っただけで、僕の方に近寄ろうともしない。背中を向け、他の客人のところに行ってしまった。
『やっぱり僕のせいかな』
『どういうことですか?』
『日本人は、外国人が嫌い?』
曖昧な顔をしたのは僕もだ。逃げたいわけじゃなくて、答えに迷う質問だった。
『絶対に差別はないと言いません。身近にいたって、差別はあります。どんな思いで日本にやってきたのか分かりませんが、あなたが思っているほど優しくもないし、素晴らしい国でもありません』
実際に、家の中には差別がある。病気だと罵る人がいる。けれど、顔も知らない人は、個性だと言う。なんともおかしな話だ。
『うーん……ちょっと君に興味を持ってきた。早く買いなよ。それで、ちょっとお茶しよう』
『もう遅いのに何言ってるんですか』
『帰りはタクシー拾ってあげる。お金は出すよ』
ついには聞く耳をもたなくなった。早く早くと子供のようにせがまれ、僕はなるべく軽くて持ち運びに便利なものを選ぶ。目についたのはハンカチだ。ユキさんのイメージする色。青のチェック柄は、色濃くなく爽やかな柄。
「そちらはお若い方にも人気なんですよ」
先ほどの女性店員だった。にこやかだが、口元は無理やり作った三日月だった。
「あの、父のではなくて」
「ええ。父の日フェアでプレゼントを包むこともできますが、誕生日やお祝い事のラッピングも承っております」
「……じゃあ、お祝い事のラッピングでお願いします」
僕よりも、隣の外国人が不思議に首を傾げている。今のスピードだと、日本語についてこられないようだ。
女性店員の後をついていき、ラッピングと包装紙の色を指定した。女性は何度か僕を見ては、作り笑いを止め、歪んだ口元のまま開く。作った形より、そっちの方が人間味があって好きだ。
「英語、分からなくて、その……」
「ああ……気にしないで下さい」
「とても難しい言語ですね」
「そう思います」
てきぱきと包んでもらったプレゼントは、涼しげで森林の中に流れる小川もイメージできた。お礼を言い、僕は隣にいる外国人にどこに行くか尋ねると、彼はお腹が空いたと駄々をこね始める。大きな弟だ。兄弟のいない僕は、ちょっと嬉しかったりする。
『さっきの女性ですけど、英語が分からなくて話しかけられなかったみたいです』
『……僕のこと、怖かったんじゃないんだ』
『いろいろあって、また差別かと思いました。僕が悪かった。彼女の態度を差別と決めつけてしまった』
お茶をしよう、と言う言葉とはかけ離れた店の前で止まる。カレー屋だ。つくづく、今日はスリランカと縁のある日だ。シンハラ語と英語と日本語が入り混じった看板の前で、バナナのリーフに包まれたカレーを注文しようと心に決めた。偶然にも彼も同じものがいいと、二つ注文した。
『君は差別されてるの?されてた?』
『現在進行形です。でもどうにもならない』
『日本人は日本人に差別するんだね、不思議。こんなに恵まれた国なのに』
『あなたの国では、ないのですか?』
『どうだろ?僕はあまり気にしなかったからねえ。授業中に突拍子もないことやり始めるなんてしょっちゅうだったし、先生も呆れて何も言わなかったよ。それに、あまり学校に行けてなかったし』
初めて、男性はマスクを外した。とても綺麗な顔立ちをしている。鼻筋や唇がはっきりとしていて、肌は白人の色に近い。
『そういや、プレゼントって誰に渡すの?誕生日用のラッピングでもなかったし』
『……大切な人に』
男性の持つスプーンが止まる。止めてほしい。僕は今、おかしいくらいに顔が熱い。カレーのスパイスのせいにしたいけれど、あいにくまだ一口も食べていない。
『僕はさ、仕事柄いろんな人からプレゼントをもらうんだ』
『そうなんですか?』
プレゼントをもらう仕事。語弊がある言い方かもしれない。少し羨ましいと思っても、目の前で大口開けて頬張る男は、少し曖昧に、複雑に顔をしかめた。
『羨ましいと思ったでしょ?』
『ええ……まあ……』
『いいよ。たいてい羨ましがられるから。でも欲しくないプレゼントも中にあることは事実だよ』
『例えばどんなものですか?』
『パンツとか、髪の毛入りのお菓子とか』
『呪いの儀式か何かですか?』
『難しい言葉知ってるねえ』
男は息を吐き、笑いながら水を飲み干した。ちょっと辛い、と日本語付きだ。
『当然処分だけど、一番もらって嬉しいプレゼントもある。普段の生活に寄り添ってくれるものとか』
『アクセサリーとか?』
『ううん、ハンカチとか』
これは。もしかして。
食べようとしていたスプーンは止め、一度皿に置いた。
間違いなく、ほぼ、絶対に。僕を助けようとしてくれている。彼にそんなつもりはないのかもしれない。でも今の言葉で、胸がいっぱいになって、スプーンに乗るご飯が喉を通らなくなったのは事実だ。どうしよう。うれしい。
誰に渡すものだとか、話したわけじゃない。相手が受け取ってくれるかさえ分からない。なんせ顔も知らない相手だ。声しか分からない相手にプレゼントを渡すなんて、滑稽でぽかんとされるだろう。
『……ありがとうございます』
『いやいや、マジで嬉しいものだよ。ハンカチなんて自分で買わないし、大事な相手なら手紙やカードを添えてもいいかもね』
『僕が誰にあげるとか、知りませんよね?』
『知らない知らない。初対面だよ、僕ら』
へらりと笑う男は、旺盛な食欲でスプーンをかき込んでいく。あれだけ喉を通らなくても、身近に美味しそうに食べる人がいるだけで、雰囲気も気持ちも変わる。現金なもので、僕も皿を綺麗に平らげた。残ったのはバナナリーフのみ。
『いやあ、美味しかったよ。まさかバナナの葉に包まれたカレーがあるなんて知らなかった』
二人分の食事をさらりとブラックカードで支払った男は、会ったときよりも笑顔が増えていた。タクシー代だと僕に数千円のお札を握らせると、大きく手を振り、彼はホテルの方角へ歩いていった。「またね」の言葉はない。一期一会を大切にする外国人は、闇の中に消えていった。
僕は握らされたお札を財布にしまい、タクシーに乗り込む。支払いは銀行から下ろしたばかりのお金を使い、玄関のドアを開けた。
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