第2話 篠田教授

 講義の終わりが近づき、僕は矩形くけいの景色を眺めた。窓の大きさしか見えない風景は、どんよりとした空気をまとっている。いつもより桜の木が色濃く見えた。

 視線を元に戻すと、教授とばっちり目が合ってしまった。国際科で外国語を学んでいる僕は、興味本位で歴史学のゼミを取った。思っていた以上に面白く、第二の言語を話しながら日本の歴史を学ぶというアンサンブルだ。おまけに、篠田教授はかっこいい。ユキという想い人がいながら、ちょっとした心の浮気である。

「外に何かいたのかい?」

 講義が終わり、篠田教授は僕の席の前で、人好きのする笑顔を振りまいた。

「雨が降りそうだなあって思っていました」

「傘は?ちゃんと持ってきた?」

「忘れました。というか、今日の天気は晴れだったのに」

 おいで、と彼は言うと、研究室まで案内された。初めて入る彼の研究室は、有名な武将の本がずらりと並んでいる。

「日に焼けた本の匂いがします」

「臭い?」

「本を読むのが好きなので。とっても好みです」

「世の中には本の香りのする香水なんてものは存在してないからねえ。あれば絶対に買うよ」

 からからとしたお日様のように笑い、篠田教授は僕に傘を差し出した。

「いいんですか?」

「探し物を手伝ってくれたお礼」

 タピオカについて調べたい、と講義中に話し、笑いを届けた彼に、僕は図書館に行くついでにキャッサバについて書かれた本を借りて彼に渡した。最近、タピオカには縁がある。それから少し、篠田教授とは話すようになった。

「これから放送サークル?」

「はい。なので帰りが遅くなるんです。助かりました」

 放送サークルに入ろうと思ったきっかけは、単純に邪な理由だ。語るのも恥ずかしい。欲望に忠実にユキのことを想い、他のサークルに見向きもしなかった。

 放送サークルといっても、いろんなチームに分かれている。バンド部の音楽を編集する人、アナウンサーのような役割でイベントのたびに駆り出される人、僕はラジオを作る部だ。友人の雷太とは、サークルで出会い、仲良くなった。耳に痛々しいほどピアスで埋まっている耳は、外の音が聞こえているのか怪しい、というのが彼に対する印象だ。高校時代はバンドをしていて、今は編集を主に担当している。彼曰く「バンドを組んでもモテない」らしい。

「サークル終わったら付き合ってくれねえ?」

「どこかに行くの?」

「ちょっとな。友達の誕生日プレゼント買いたくて」

「今日、雨降るみたいだよ」

「知ってる。渋谷行こうぜ」

 天候のせいか、今日のサークルはあまり活気が見られなかった。仕事も特になかったので、僕たちは早めに大学を出た。

 梅雨特有のじめじめ感は、陰鬱で身体の調子もはっきりしない。汗も出ていいのかダメなのか悩んだ挙げ句、結局はじんわりと湿る程度に滲むだけ。悶えるならいっそのことびしょびしょになるくらいに出てくればいいのに。雷太君は僕の持つ傘を一揖するが、特に何も言わなかった。

 今にも雨が降りそうなのに、渋谷駅は相変わらず活気づいている。僕の神様であるユキは、渋谷にもよく来ているみたいで、時折この街のカフェの話をする。顔も知らないのに、ユキがいるかもしれないと、つい視線がさまよい出す。

「お前だったら何がほしい?」

「くれるの?」

「ちげえよ」

「なら僕に聞いても意味ないんじゃ……。猫グッズ」

「まるで参考にならねえ」

「ならなんで聞いたの」

 適当に帽子、と言ってみた。被っている人が横切ったからだ。そしたら「それがいい」と即決した。

「そういや、あいつ帽子が好きだったな」

「僕に聞いた意味あったね、良かったね」

「はいはい今度何か奢ってやるよ」

「どうせなら、今奢って……」

 自動販売機を指差した。小銭を入れ、指がさまようが、僕はペットボトルを勝手に押した。缶は有り得ない。ジト目で睨まれた。ペットボトルは、数十円お高い。

 まだ汗をかいていないペットボトルの蓋を開け、半分近く喉に流した。

「この後ちょっと付き合ってくれねえ?」

「デジャヴかな? 大学でも聞いた気がするけど」

「ラジオ収録あるんだよ」

 不意打ちすぎて、汗をかき始めたペットボトルを落としそうになった。

「ラジオ収録? なに? どういうこと?」

「だから、渋谷の公開収録。好きなアイドルが出るんだよ」

「今から行くの?」

「興味ないなら俺一人で行くけど」

 ラジオ……ラジオってなんだっけ、と現実逃避が頭の中で繰り広げられていて、手に持つペットボトルの冷たさだけが異常に感じる。

「興味、ある。行くよ」

 出るわけがない、いるわけがない。言い聞かせるしかない。でないと、スキップで道路に飛び出していってしまいそうだ。危なすぎる。焦らなくても、今日は金曜日で、ユキさんの声が聞けるんだ。

 歩いて数十分もすると、人だかりが見えてきた。ピンクのTシャツに身を包み、面白いほどに同じ方向から目を離さない。誰が言ったわけでもないだろうに、求められた一体感に誠実に答えている。

「やっぱ人多かったかあ。無理そうだな」

「端っこで見たら?」

「ピンクの集団に混じるのか?そんな勇気はない」

 来てまだ数分しか立っていないのに、集団は散らばっていく。向かう先は半分以上が裏口で、僕は大きな金魚鉢の前で中を覗いた。大学のサークルでも使用するもので見慣れているはずなのに、内股から震えが起こった。

 顔も知らない僕の好きな人が働く場所だ。アマチュアとは違い、選ばれた人しか入れない。汗と涙と、キラキラしたもので満たされている。裏口から拍手と男性の低めの声が聞こえた。

「大学にあるやつとそんな変わんねえな」

 ほんの少しの興味を込めて、雷太は呟く。目線の先は裏口に向かっていて、僕は「行ってきたら」と声をかけても「同じファンと思われたくない」だそう。気持ちは分かる。例え手の届かない人であっても、好きな人からは特別に思われたい。

 備え付けのチラシ置き場が目に留まった。目につきやすい上一列は、すべて同じチラシでうまっている。

「ナオキも来るっぽい」

「ナオキ?」

「日本で生まれてハワイ育ちのシンガーソングライター」

「詳しいの?」

「コピーバンドの編集作業中だからな。音楽雑誌でもけっこう取り上げられてるぜ。日本でライブツアーやるとかなんとか」

 記念にもならない記念として、一枚手に取った。ツアーの宣伝も兼ねて、六月下旬に渋谷の公開ラジオに参加するらしい。梅雨真っ盛りだ。

「…………え?」

 この天気であって、渋谷の空では一瞬の光が雲の隙間から地上に届き、道を通る人々は一斉に顔を上げる。遅れて轟音が鳴り響いた。

 雷が鳴ったのと同時に、僕の頭には別の何かがほとばしる。偶然かも必然かも分からない何か。運命。

「DJユキ……」

 確かに、間違いなく、右下にそう書かれている。司会として参加だと。この世界にDJユキは二人以上存在しているのか、。優しさを粉雪のようにまぶしてくる、あのDJユキなのか。

 戻しかけたチラシを鞄にしまう。

 もしこれが本当なら、今日の生放送で言ってもおかしくない。

「この後の予定は?」

「適当にブラブラして帰るよ」

「じゃあまたね」

 一本調子の挨拶で別れを告げ、僕は走った。大学に入ってから一番のかけっこというほど、文化系の僕はおもいっきりアスファルトを蹴る。土踏まずがなぜか痛くなった。

 最寄り駅を出てからは無心で走った。こんなにも心を無にしたのは、カニを食べているとき以来かもしれない。

「ただいまっ」

「あら、そんなに慌ててどうしたのよ」

「早く、帰って、きたくて」

「ちょっと遅かったわね」

「渋谷に、行ってた」

 息も切れ切れになっていると、母は「お父さんは仕事で遅い」と言う。テーブルには、暑さを吹っ飛ばしそうな肉料理といなり寿司が並んでいる。早くしないと父が帰ってくる焦りと刻々と迫るユキのラジオの時間に、いつもより咀嚼がひどいことになっている。二階に上がるとき、母からは「なんだか大変で楽しそうね」とお言葉だ。確かに、怒濤の一日だった。

 ラジオが始まる前にもう一度チラシを見る。錯覚でも手品でもなく、小さな字でDJユキと何とも心温まる文字だ。部屋に閉じこもったときのような、オアシスをもたらしてくれる。

 今日も、癒しと緊張のラジオが始まった。

──こんばんは。DJユキです。今日はちょっとお知らせがあるから、フリートークもそこそこに質問と相談室のコーナーに行こうかな。

──ラジオネーム・Pさんから。『ユキさんって、顔出ししないんですか?』

──この質問は最近多いの。SNSが発達してきた時代だからかな? 合わせて、SNSやブログはしないんですかっていう質問もたくさんだね。

 喉が鳴る。ユキさんが何かを飲んでいる。タピオカドリンクが頭をよぎったが、そもそも彼はまだ屈してはいない。はず。喋りながら何かを飲むなんて珍しい。彼も緊張しているのかもしれない。事前に伝えたお知らせと、一発目の質問は、細い糸でもきっと繋がっている。

──顔出しはね、しないと決めてるわけじゃないんだ。する理由がなかったからしなかっただけで。

──前にも言ったけど、お見せするようなプライベートじゃないからね。良くも悪くも普通すぎるというか。

──顔出しの話しになったから、流れで仕事の話をしちゃおうかな。

 きた。ついにきた。

 チラシを強く握りしめたせいで、笑ったように、左右皺になっている。

──月末なんだけど、歌手のナオキ君と一緒に、渋谷で公開ラジオをすることになりました。

 奥から歓声と拍手が起こる。かすれたユキの笑い声は、僕の大好物だ。

──なぜ僕が選ばれたのかというと、少し英語を話せるからです。ナオキ君はハワイ育ちで、日本語が得意ではないらしく、司会のできて英語を話せる人を探し、僕に行き着いたと説明を受けました。

 知らない事実だ。そんな大事なこと、今まで彼は話さなかった。

 握った手がわなわなと震えてくる。

──ナオキ君に会うついでで構わないので、僕にもぜひ会いにきてね。初顔出しだけど、イケメンでもないので期待しないように。

──大丈夫、僕はあくまで添え物だから。ナオキ君の出番を取ったりしないよ。お弁当の中の、かまぼこに徹します!

 僕は、かまぼこも大好きです。大好きになりました。

 かすれた笑い声も好きだが、含み笑いも大好きだ。マイクに入るすべての音が、僕にとって癒しを生む。

──それと。紅茶のCMに感想をくれた子、ありがとうね。テレビCMのナレーションは僕が担当しているんだけど、よく分かったね。ぜひ、紅茶を買ってみてね。

 名前は言わなかった。けれど今のは僕のことだ。僕の出した葉書を、ユキさんはチェックしてくれている。何重にも嬉しさが身体を満たし、クッションにぼすんとボクシングの練習を始めた。

 たった三十分はあっという間に過ぎ、僕はわけもなく部屋中をうろうろと歩き回った。どうも落ち着かない。幸せの絶頂にいると、人は何かをせずにはいられない。たまたまそれは歩くことで、僕はむやみやたらにさまようと、部屋を飛び出してお風呂に向かった。シャワーの音がする。父が帰ってきていた。夢から一気に覚めて、冷静になれたのは父の存在だ。また元来た階段を上り部屋に戻ると、クールダウンしたままベッドにダイヴした。

「プレゼントとか、渡してもいいのかな……」

 アイドルのおっかけファンたちは、花や紙袋を持っていた。彼女たちは受け取ったか分からないが、きっと気持ちは伝わっている。そう思わなければ、僕の心が押し潰されそうになる。思い込むしかない。

 くしゃくしゃになったチラシはテーブルから落ちる。

 寝ようと思っていたのに完全に目が覚めてしまった。僕はベッドから起き、余っていた葉書を取り出す。

──ユキさん、公開録音の件ですが、実はナオキさんのチラシもたまたま持っていて、ラジオ収録の件を知っていたんです。夢みたいです。絶対に行きます。むっちゃ楽しみにしています。ハルより。

 憧れと恋愛はよく似ている。僕は両方であって、後者が勝っている。どう違うのかと言われれば、説明が難しい。恋愛経験の少ない僕としては、永遠のテーマになるかもしれない。

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