ガラス越しの淡いユキ
不来方しい
第1話 ラジオと僕
発声練習をお風呂に入りながら行い、舌の筋肉もよく動かす。稼ぐための武器であり、身体の中で一番トレーニングをしなければならないところだ。筋肉は使わなければ衰える。それは口の中も同じ。
朝食をしっかりと取り、マンションを出た。今日は日中にナレーション二本、夜にラジオ収録がある。
ナレーションは滞りなく取り終え、残るはラジオを残すのみ。こちらは生放送であるため、葉書やメールを選択する時間やスタッフとの打ち合わせも念入りに行われる。
「おはようございます」
「ユキさんおはよ」
「すっごく良い匂いしません?」
「でしょ?この前みんなと一緒に上野に花見しに行ったじゃん」
「ええ」
「和カフェ入ったときにおやき食べたくなってさ」
「ずっと言ってましたよね。メニューにないのに」
「来る途中買ってきちゃったんだよねえ」
紙袋からおやきを取り出し、ユキへ差し出した。
「夕食まだだったので助かります」
「ちょっと休憩にしようか」
お礼にと、ユキがスタッフの分のコーヒーを入れ、談笑と打ち合わせがスタートした。気心知れた仲となった今、こうして明るい雰囲気の中行うのは、とても充実した時間だった。
「ユキさーん、そろそろ準備」
「はい。今日もよろしくお願いします」
「お願いしまーす」
こうして、本日最後の仕事が始まった。
セットされた目覚まし時計に呼び起こされ、眠い目を擦りながらベッドから這い出る。朝食は食べたり食べなかったりまちまちだ。
大学へ行き、授業を受け、アルバイトをして帰ってくる。玄関にある靴の数を見ては嘆き、さっさと二階に上がる。これが一日の流れだが、金曜日の夜だけはいつもと違う。終わりではなく、ここから始まる──。
こじんまりと机に置かれたポータブルラジオをセットし、僕は布団の上で正座した。この格好でないと、なんだか落ち着かない。しっとりと濡れた手汗を拭き、始まるラジオに耳を傾けた。
──皆さんこんばんは、DJユキです。今日はね、うちのスタッフからおやきをもらって食べたんだけど、あんこがぎっしり詰まっていてすっごく美味しかったんだ。おやきというと、地方によって具材がいろいろ違うみたいだね。野菜が入ったのもあるみたいだし。
爽やかで、春に吹く心地良い風のような、そんな暖かな声。僕は、彼に恋をしている。顔も分からないDJの彼に。
──そろそろお悩み相談室のコーナーに行こうかな。今日は質問コーナーも合わせるよ。ちょっと早いけど、今日はフリートークを少し長めにしたからね。
甘いものが好きな彼は、よくスイーツの話をする。ネットで見たもの、流行りのもの、これから食べに行く予定のもの。
──まずは一枚目……小熊さん。主婦の方って書いてあるね。どうもありがとう。『ユキさんは甘いものが好きですが、流行りのホットケーキやタピオカジュースは召し上がっていますか?』ふふ、この質問にお答えしようか。
ユキさんは甘いものの話をするとき、少しだけ早口になる。オタクによくある。話すプロであっても、もしかしたら彼は気づいていないのかもしれない。
そう考えると、ちょっとおかしい。
──どっちも今は流行ってるよねえ! タピオカに関しては、一周回って流行ったって感じ。流行りのものは、実は手を伸ばさないタイプです。流行り終わってから、食べる。俺はまだ、タピオカには屈しない。
妙に滑舌が良く、笑ってしまった。
──ホットケーキはね、家でも作るしけっこう食べるよ。なかなか厚みが出ないんだよね。型を使うべきって意見もあるけど、型なしで作れるようになりたい。ところでホットケーキにタピオカを混ぜたらどうだろう? 美味しいのかな? タピオカはさ、甘いジュースに入っていることが多いけど、甘くない飲み物にも入れてほしい。ハーブティーとか。続いての質問いくね。
──ラジオネーム・綾さん。『ユキさんはお休みの日は、何をしていますか?私はいつもすることがなくて、寝てばかりです』
──起きたらご飯食べて、台本チェックして、午後は外散歩しながら買い物して、夕方に家に帰る。地味だね。この前の休日でしたことなんだけど。
遠くでスタッフの笑い声が聞こえてくる。
──でも結構皆さんそんな感じじゃない?遊園地や動物園は滅多に行かないし。することがないなら、部屋の掃除をいつも以上にしてみるのもいいかと思う。模様替えも、気分転換になるよね。
──次で最後かな。ラジオネーム・ハルくん。いつもありがとうね。
優しさに満ちた声色だった。かすれ気味に、少し高くなった声質は、耳に安堵感をもたらしてくれる。そして心臓が狂わしく鳴り出した。ハルは、僕のラジオネーム。晴弥の名前から取って、ハル。
──『ユキさん、こんばんは。突然ですが、僕は人に言えない悩みを持っています。とある病気を抱えていて、それを友人に話そうかどうか悩んでいるんです。というのは、大学生なので合コンによく誘われることが多く、断りすぎて不信に思われています。せっかく仲良くなれた友人ですが、カミングアウトは恐ろしくて、でも信じて話したい気持ちもあります』
一語一句、僕が葉書に書いた通りに彼は読んだ。
──なるほどね。ハル君が言うその病気と、飲み会を断る理由に関係してるってことでいいのかな。僕の結論を言うとね、話すべきではないと思う。友人だからといって、何でも話せば解決する問題ではないし、血の繋がりがある家族だって、すべてを分かり合えるわけじゃない。
目から鱗で、僕には耳の痛い話だ。赤ペンで大きく丸を付けたいほど、偉大な話。
──ハル君の友達を悪く言っているわけじゃないからね。誤解しないでね。僕は、その病気に寛容な人なのか見極めてから話すべきだと思う。よければハル君の病気について、詳しく教えてもらえないかな。そうすれば、もう少し気の利いたことを言えるかもしれないしね。
──もう三十分か。時間が経つのは早いよね。大学の講義は長いのに。魔法か何かで、時間の流れを変えている人がいるのかな? DJユキがお届けしました。また来週遊びにきてね。
透き通る声が途絶え、ユキのお気に入りだという曲が流れる。そこで番組は終了した。
目の奥がじりじりと痛み、痛みは涙となって頬を伝う。嬉しさと感謝と、申し訳ない気持ちで僕はしばらく悲しみを抱えた枕に落とし続けた。
カーテンの隙間から日差しが通り、枕元に細長い三角形ができた。暑さと眩しさで目覚め、うんと大きく背伸びをした。
時間帯的によろしくはない。階段を下りてリビングに行くと、よろしくない想像通りの脳内が映像化されてしまった。
「おはよう、晴弥。朝食はパンでいい?」
「パンでいいんじゃなくて、パンがいい」
「はいはい」
わざわざ言い換えたのは、反抗心の固まりを出すためだ。反抗相手は、すぐ目の前にいる。戦う前の戦士であるわけじゃないのに、武者震いなのか足が震えた。
「いつまで立っているんだ。早く座れ」
和食を口にする父は、少しも不機嫌を隠そうともしない。僕の席には、トマトサラダとスクランブルエッグが置かれた。
「勉強は進んでるのか?」
自ら焼いた食パンを手に、席についた。ジャムは和食を食べている父の側にあり、何もつけずに食べることを選んだ。平和な選択。戦うより、それがいい。
「私が学生の頃はバイトなどはせずに勉強に集中したものだ」
さくさくの食パンは味がしない。ジャムをつけたとか、つけないとか、関係ない。
「あなた、それくらいで」
「だいたい、お前は」
「ごちそうさま」
無難な選択をしたはずなのに、平和な朝はやってこない。もしかしたら、過去の僕は戦争に駆り出される戦士で、生まれ変わった今も名残があるのかもしれない。
「だからお前は病気になるんだ!」
静まり返るリビングに、僕は感情のない目で父を見つめる。申し訳なさそうな顔の一つでもすれば、僕の心も揺らいだと思う。期待するだけ無駄だ。小学生の頃から、学んできた。病気。呪いのように、言われ続けた言葉。
手つかずの皿を名残惜しく、僕は母に感謝をした。食べかけの食パンをそのままに、一度部屋に戻ると鞄を手に玄関の扉を開けた。妙に光沢のある靴が目に入り、眉間に皺が寄ってしまう。
清々しいほどに太陽が出て、アスファルトを強く照らしている。もうすぐ梅雨の季節がやってくる。しばらく太陽とはさよならをしなければならないだろう。
家からは一本の電車が大学までの主な交通手段だ。同じ大学に通う生徒は、本を広げて何かぶつくさ言っている。横を素通りし、電車を降りた。
講義室まで来て席に着く頃には、腹に住む虫が空腹を訴えている。背中を叩かれ、横には友人である萩原雷太が横に座った。
「顔色悪くね?」
「お腹空いてるだけ」
「やるよ」
ぶっきらぼうに渡されたのは、大学の最寄り駅近くにあるスーパーのパンだ。半額シールが貼られていても、元の値段も安く、僕もよくお世話になっている。両手を合わせ、有り難く頂戴した。
「飯食ってこなかったのか?」
「父親がいて……それで」
「喧嘩?」
「してない。一方的に僕がバッシングされただけ」
何がおかしいのか、雷太は笑う。苛立ちを浄化させるように、パンにおもいきりかぶりついた。クリームの甘さがたまらない。
「一人暮らしは?」
「大学卒業したらしたいとは思ってるよ」
「俺も人のこと言えねえけどよ。一人暮らししたいよなあ」
講義が始まる数分前、食べかけのクリームパンをしまった。週の半分以上を費やす日課が、今日も始まる。
大学を出ると、今朝の天気は嘘のように太陽は鈍色の空に隠れてしまっている。気持ち早足でコンビニに駆け込み、お菓子と葉書を数枚買った。
家に着く頃にはぽつぽつと雨が降り、濡れる前に玄関に滑り込んだ。
「ただいま」
「おかえり。雨に濡れなかった?」
「大丈夫。降るとは思わなかったからびっくりした」
「天気は一日晴れだったのにねえ」
今朝と変わらない笑顔で母が出迎えてくれた。責めることもせず、何事もなかったかのように優しい笑みを向ける、僕の天使のような人。天使なのかもしれない。一生この笑顔を守りたい。
「お菓子買ってきたけど、食べる?」
「いいの?ありがとう」
少女のような笑みで、チョコレートのスナック菓子を受け取った。父親が勝手に決めたお菓子禁止という謎のルールがあるせいで、甘いものが好きな僕や母も隠れて食べるしかない。堂々と食べられるのは、誕生日やクリスマスのときくらいだ。
「お風呂に先に入っちゃって」
「うん。そうする」
父とはなるべく被りたくはないので、僕はすぐにシャワーを浴びた。
部屋に戻ると、ユキに送るための葉書を書いた。日課になりつつある。メールで募集していても、ラジオが始まった当初から手書きで送り続けているため、今も変わらないスタイルを貫き通している。ユキさんが最近はメールの方が多いとぼやいたのも理由の一つだ。
──ユキさん、こんばんは。葉書を読んで下さり、ありがとうございます。実は僕、ゲイなんです。中学生の頃に家族にばれて以来、病気だと言われ、ずっと回りに偽りの自分を見せています。健康的な男子ならば、合コンに誘われれば嬉しいでしょうが、僕はちっとも楽しくありません。普段の生活よりも、嘘を吐き続けなければならないからです。カミングアウトをしてしまえば、楽になれるんじゃないかと思いました。でもユキさんから病気に対して理解のある人かどうか見極めるべきと言われ、本当に通りだと思いました。
またやってしまった。葉書の裏面は白よりも黒に塗り替えられた。インクでひたひたになった面に「いつもありがとうございます」とだけ付け加え、ペンを置いた。
これが僕の、ひた隠しにしてきた秘密だった。友人の雷太も、中学生のときのクラスメイトも誰も知らない。無理やり父にパンドラの箱を開けられても、僕は必死に蓋を閉めて鍵をかけた。そして、これでもかというほど、ロープでぐるぐる巻きにした。結果、箱の中身は息苦しくて言いたくても言えないしがらみに捕らわれてしまったけれど。
一階から母に呼ばれ、机の上の時計を見ると、夕飯の時間だった。リビングに行くためには、必ず玄関を通らなければならない。
玄関には帰ってきたときにはなかった黒の革靴が並んでいる。母や僕の靴とは違い、不気味に煌々と光っていた。
「簡単にお素麺でいいかしら?」
「母さんの作るものなら何でも美味しい」
素麺にはトマトやナスなど彩り豊かな野菜と、豚肉が乗っている。
「好き」
「良かったわ」
斜め前にいる父は顔を上げない。何も言わずに箸でぐちゃぐちゃに混ぜ始めた。
対照的に、僕は手前から具材を少しずつ崩しながら食べる。
「お昼ご飯は何を食べたの?」
「クリームパン。もらって食べた」
残ったパンと、夕飯前のお菓子だ。ジャガイモのお菓子なだけあって、胃に重たくのしかかる。母の作ったものは、これ以上残したくない。
半分ほど食べると、母さんも話題が尽きたのか、淡々と口に運んでいる。食事をしながらのテレビは禁止だ。これも、父が勝手に決めたルールの一つ。馬鹿になる、が理由らしいが、これといって成績が上がった試しはない。むしろクイズ番組を見ていた方が、よほど為になるのではないか。
「美味しかったよ、ごちそうさま」
「おかわりは?」
「大丈夫」
新聞を見ながら食事をする人とは側にいたくない。なぜ父は優遇されて、僕は好きに食べることができないのか。言えない葛藤があるとすれば、中学生の頃の出来事が影響している。
もやもやしたまま、僕は席を立った。
金曜日の金という字は、ゴールドや一番という意味もある。ユキのラジオがあり、特別に相応しい。土曜日でも月曜日でも、きっとおんなじような意味合いを持ち出すと思う。つまり、ユキの日は最高だと声を大にして言いたい。
葉書を出してから約一週間。読まれるだろうか。ユキは、前にすべての葉書を読んでいると言っていた。
ベッドの上に膝を抱えて座るが、手持ち無沙汰に何か持たないと気が狂いそうで、近くにあった猫の人形を手に取った。クレーンゲームで手に入れたぬいぐるみで、猫の飼えない家でせめてもの紛らわす話相手だ。
──前回さ、タピオカの話をしたの覚えてる?今日スタジオに来たら、スタッフのみんながタピオカジュースを飲んでるの! すすめられたけど、俺はまだ屈しないからね! 飲まないからね!
いきなりのテンションの高さに、思わず腹筋が震えた。ユキは、普段は「僕」と言ったり「俺」と言ったり様々だ。「私」のときもあった。TPOに合わせたりしているんだろうけど、きっと普段は「俺」だと思う。
──でもさ、わらび餅が入っている飲み物は美味しかった。
それは飲むんかい、とラジオの奥で半笑いのつっこみが入る。
──今日はちょっと長めに相談室のコーナーを取ろうと思う。というのは、新学期も始まって、みんな似たような悩みを抱えている方が多いんだよね。
──まずはラジオネーム・あきらさん。『今の仕事が上手くいく自信がありません。お局様のような人がいます。怖くて怖くて、足が震えてしまいまく』
──代表してあきらさんのメールを読ませて頂いたけれど、すごく多かった。新生活が始まって、今の時期にはみんな通る悩みだよね。
──僕もあった。それはもう、耐えられないようなことも、嬉しいことも。僕は続ける選択肢を取ったけれど、あのとき悩んだことは、今の成長にすごく繋がっている。辞める選択肢って勇気がいるけど、何も怖いことじゃないよ。
──もし、続ける選択を取るのなら、僕は考え方を変える。そもそも仕事をする目的って、自分の生活を支えていくためだからね。やりがいだけじゃご飯は食べていけないよ。合わない上司に機嫌を取るためにあなたは仕事をしているわけじやない。この仕事をこなしたら、手に入ったお給料で何を買うか、何をするか、を考えながらしてもいいかと思う。
一つ一つ、数ある言葉の中から丁寧に選び、繋いでいく文章は、どれも今の人生にすとんとはまる。これから行う就活問題についても『やりがいだけでは食べていけない』という言葉は、蓄積された石を吹っ飛ばしてくれる。
膝の上の猫のぬいぐるみをつんつんすると、髭で答えてくれた。ような気がする。
──最後に、前回の話の続きなんだけど。
終了間近のBGMは流れないが、流れは変わった。
──先週、病気についていろいろ話したと思う。目に見えるものや目に見えないもの、抱えている人は大勢いる。君が持つものは病気じゃない。それを病気と思うのなら、きっと回りの環境に押し潰されている。誰に思い込まされたのかは分からないけれど、そういう考えは止めなさい。もし、心の身動きが取れない状況にいるのなら、住まいを変えてみるのも一つの方法だよ。俺は、ずっと応援してるからね。君の個性を、どうか大事にして。
締めくくりは生放送であるにも関わらず時間通りに終え、ラジオから音楽が流れた。普段は見えにくい所だが、プロであると圧倒される。
水滴はぬいぐるみを濡らし、歪んだ形を作り、染み込んでいく。僕は音もない涙を流し続けた。
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