第7話 ハル

 時間は無限にあるわけじゃなく、有限だ。放っておいても勝手に過ぎるし、慌てても冷静に過ごしても速度は何も変わらない。

 あっという間にやってきた八月二十日の朝は、玄関のドアを開けた途端、蝉爆弾が出迎えてくれた。足の形で生きているか寝ているか分かるらしくても、僕としては確かめたくもないし、そっとしておきたい。横を通り過ぎたのに、爆弾は羽をばたつかせて僕の腕に抱きついてきた。冗談じゃない。例えオスでも、種族の壁は超えられない。

 すぐに玄関にやってきた母に、なんでもないよ、と笑顔で乗り切った。僕以上に蝉爆弾が苦手な天使に、こんな醜態を見せつけるわけにはいかない。夏の風物詩は、母の作る素麺料理で充分だ。

 鞄の中に潜んでいる小さな箱にそっと触れ、僕は大学にやってきた。慣れた大学でも、活気づいたこの風景は年に一度しか見られない。

 控え室に行くと、雷太君がすでに来ていて、椅子に座りながら怠そうに携帯機器を弄っている。

「ナオキ、もう来てるってよ」

「そう」

 部長がやってきて、僕たちにIDケースと中に入れるカードを渡してきた。

「何すかこれ」

「今日は大学関係者以外のスタッフもいるから、分かりやすいように首から下げて。これがないとこのフロアに出入りできないからね。カードにはフルネームと読み仮名も書いて」

 名前は志摩晴弥。画数の多い名前である。文字にも性格は表れるもので、僕は少し小さめに書く癖があるので、気持ち大きく名前を書いた。

 書き終わった後は、ひと仕事が待っている。僕だけの失敗できない仕事。パーカーの内側に小箱を隠し、部屋を後にした。

 昨夜から、それはもう無い知恵を絞って考え、ある一つの結論に達した。ユキさんに、正体を言うのを止めよう、ということだ。きっと、恋をする人間からみるとバカな結論を出したと言われるだろう。でも、睡眠時間を何時間削られようとも、母の気合いの入った朝食が喉を通らなくなろうとも、数日前に考えすぎて熱を出そうとも、これが僕が出した納得のいく結論だった。

 単純に、疲れてしまったのだ。好きになって想い続けることも、何週間もユキさんを思うと勉強もアルバイトも身に入らない。恋愛は自由でも、心は縛りつけられる。全然自由なんかじゃない。男が男を好きになるなんて、急に恥ずかしくなった。乙女心は複雑とよく言うが、僕の心も複雑だ。

 告白のように添えたメッセージカードで、最後にすると決めた。ただのファンに戻ればいい。できることなら、腕の良い催眠術師に、記憶を上書きしてもらいたい。

 ドアプレートに、ユキとナオキの文字。二人の控え室だ。何度かノックしても、誰も出ない。中から物音も聞こえない。僕は失礼します、と声をかけて扉に触れた。

 テーブルに二つの荷物が置いてある。シンプルなものと、赤と黒の鞄。なんとなく、ユキさんはシンプルな黒い鞄ではないかと思った。

 プレゼントも、想いを伝えるのも、これで最後だ。大丈夫。時間が解決してくれる。深呼吸をし、吐こうとした瞬間、首への圧迫に何もできなくなった。想像以上のことが身に起こると、本当に身体が動かなくなるのだ。頭への衝撃は初めは痛みはなくとも、後から鈍痛が起こり、目の奥で光が弾ける。

 僕は喉元を締められ、壁に押し潰されていた。

「何の用だ?」

「あ……の……僕は……、」

「スタッフじゃないな」

 スタッフです、と言いたくても、言葉が続かない。喉が苦しい。

「鞄を漁ろうとしていたな」

 なんてことを言うんだ。鞄にすら触れていない。思い込みに追い詰められると、脳が萎縮してしまい、次に続く言葉が吐き出ない。

 男の後ろで足音がしても、ちかちかする目のせいで瞼が開けられず、誰が入ってきたのか気に留める余裕すらない。

「ちょっと待って」

 切羽詰まった声に、喉元が緩んだ。ずるずると壁を背もたれに、僕は地に落ちていった。

「何をしている」

 圧倒的に良い声だ。目が霞んでいても、誰かなんてすぐ分かる。毎週のように追い求めていた声だ。どうしよう、顔が上げられない。首の圧迫はもうないのに、まだ締められている感覚がある。

「あの、こいつが鞄を漁ろうとしてて……」

 ユキさんは何も言わない。僕を覗き込む目が優しくて恥ずかしくて、顔を背けた。

 それから数人の足音が入ってきたが、名前を呼ばれても前を向けなかったし答えられなかった。部長が説明を求めてきても、ずっと首を横に振っていた。

「具合、悪い?」

 神の一声は、僕に試練を与えてくる。昨日は寝ずに諦めることばかり考えていたのに、いるかどうか定かではない催眠術師を求めていたのに、たったそれだけの言葉で、決意は脆くも崩れ去るのだ。

 やっぱり、あなたを嫌いになんてなれない。

「もしかして、これが関係している?」

 床に転がっていたプレゼントに目ざとく気づいたユキさんは、手に取って裏返したりしている。

「ナオキ君宛かな?」

「違います……それ、あなた宛で……」

「…………僕?」

「わ、……渡してくれって、頼まれたんです」

 正真正銘の馬鹿だ、僕は。願ってもないチャンスを潰すなんて、首が痛いほどに頭が下がる。こんな大勢の中、晴弥からです、なんて言える勇気は微塵もないし、強くもない。

 未だに顔を拝めない僕は、生きる意思を持つ蝉爆弾よりも勇敢ではない。

 彼はリボンに挟まっているメッセージカードを取り出し、二つ折りを開いた。

「……………………」

「……………………」

 一世一代の告白をなぜ目の前で見られなければならないのかと、自問自答を繰り返す。ユキさんを嫌いになりないという嘘八百を並べたせいで、巨大なツケを払う羽目になった。

「頼んできた子だけどさ、どんな子だった?」

 僕はそこで初めて、憧れてやまない人を見た。あまりに顔が近くて一度は目を逸らすも、なけなしの勇気を出してもう一度見る。

「……………………」

 なぜ、そんな顔をしているの。

 今のユキさんの顔は、親に捨てられた子供のような顔で、見捨てないでと言っているようだった。

「ごめん、それどころじゃないな。この子を医務室に運びます。顔色が悪い」

 咄嗟に、ユキの袖を掴んだ。首を振り、問題ないとアピールをする。

「プレゼント、ですが……」

「うん」

「あまり目立つ感じの子じゃなくて、よく分かりませんでした」

「……そうか。目立たない子だったか」

 目尻の黒子がはっきりと見える。黒子が美しい人なんて、この世にふたりと存在しているのだろうか。

 ユキさんは口角を上げ、なぜか少し笑っていた。

「黒縁眼鏡をかけていなかった?」

「え? そ、そうですね……覚えていなくて……」

「ハルって子なんだけど、本当に覚えはない? 同じサークルじゃないの?」

「いや、まったく……あ、でも少しは……やっぱり覚えてないです……はい」

 なぜか含み笑いを続けるユキさんは、どこかの国からやってきた精霊みたいだった。

 見惚れていると、部長がやってきて僕にIDケースを渡した。

「ほら、忘れちゃダメだよ。これがないと行き来できないって言ったでしょ」

「すみません……」

「体調悪いなら先に言うこと。壁にぶつかったりしてたし、てっきりフラフラなのは眼鏡忘れてきたせいかと思ってたんだから」

「………………ふうん?」

 ユキさんは僕の手元のIDケースから目を離さなかった。志摩晴弥。それほど多くはない名前だと思う。それに、ユキさんへ送る葉書には、ラジオネームしか書いていない。本名は知られてはいないので、その辺は抜かりはない。

「志摩晴弥君って言うのか」

 ユキさんは僕の手からIDケースを取り、一文字ずつしっかりと目に焼きつけている。一瞬触れただけの指先から熱が伝わり、微かに震えた。

 ユキさんは僕のパーカーの胸ポケットに入れ、腕を持ち上げ立たせてくれた。神様だってこんな気遣いはしない。お空にいるかもしれない神様は、いつだって試練しか与えない。

「僕みたいなひとに……」

「うん?」

「砂漠のど真ん中で……枯れた花に貴重な水を下さいます……」

「そんな良い人間じゃないよ」

 ユキさんは笑う。揺れた肩幅は広くて、見ているだけで涙が流れそうになる。

「医務室に案内してくれる? 廊下に来たのはいいけど、初めてだからさ」

「そこ、まっすぐ、あとは右……」

「了解」

 ハーブのような、爽やかな香りがする。香水ほど強い匂いではない。

 好きな人に肩を抱かれ、醜態を晒し、頭の中は台風が訪れて、いっぱいいっぱいだ。過ぎ去るまで身を任せるしかない。

「さっきのことだけど、プレゼントを届けに来てくれたってことでいいんだよね?」

「………………はい」

「OK。スタッフにも伝えておく。嫌な思いさせてしまったね」

「ノックしても返事がなかったのに、入った僕も悪いので」

「あれは恐喝だよ。人としての条理が外れている」

 医務室に入ると、ハーブの香りから薬特有の香りに変わる。子供の頃、歯医者に連れて行かれて、まだ何もされていないのに不吉な臭いに滂沱の涙を流したことがあった。父親にたしなめられても、どうにもならなかった。

 なぜ今、父のことを思い出すのか。記憶よ出ていけと頭を振ると、痛いのかと心配される。

「先生、いないみたいだね。薬を勝手に使っちゃまずいよなあ」

「あの、寝不足なだけですから。少し寝てれば良くなります」

「残りの仕事は他の子たちに任せなよ。休むことが大切。終わったら迎えにくるから」

 ラジオより明瞭な声で、朗らかで、甘ったるい。迎えにくるとはどういうことだろうと、自分に問いただした。ユキさんは戻ろうと立ち上がり、ドアを開けてから一度こちらを振り返る。手を振ってくれた。遠慮がちに振り返すと、彼は笑う。恋人同士みたいで、恥ずかしくなった。こんな考えに至る自分にも、恥ずかしくなった。

 白いベッドの上で寝返りを打つと、僕は一分と経たないうちに睡魔に襲われてしまった。起きたのは二時間後で、起きたてのすっきりした目覚めではなく、置いて行かれてしまうという恐怖心だった。時間は有限であり、残酷だ。

 先生にお礼を伝え、僕は足に引っかかる毛布を剥ぐと、医務室のドアを開けた。

「…………びっくりした」

 驚愕し、息が止まる。ユキさんが、目の前にいた。目が合う。時間よ、どうか止まってほしい。

「ぼ、僕もびっくりしました……」

「迎えに行こうかなって。そろそろ起きているかと思ったからさ」

 僕の胸ポケットにあったはずのIDケースはなぜかユキさんが持っていて、それを受け取った。

「ご飯食べられる?お弁当があるんだけど」

「お弁当……?」

「お肉が入ってるよ。美味しいから、みんなで食べよう」

 小さく頷くと、ユキさんは大袈裟にどうぞ、とレディーファーストのような行いをした。

 控え室には慌ただしいく動き回るスタッフや、ナオキさんの姿があった。

 ナオキさんは僕を見るなり置いていかれた小熊のような顔をし、盛大にハグをした。久しぶりの再会だ。ナオキさんは覚えていてくれて、嬉しいけれど女子の視線が恐ろしい。

『晴弥! 心配したよ! もう大丈夫?』

『大丈夫です。ちょっと寝不足で……お久しぶりです』

『うんうん、久しぶり。相変わらず子犬っぽいね! ラジオ収録終わったよ。晴弥たちが一生懸命準備してくれたおかげで、とてもやりやすかった』

『それは良かった……ん? 子犬?』

『ユキと僕の事務所でみんなへのプレゼントだよ! 焼き肉弁当!』

『お肉、好きです』

「英語話せるんだ?」

 ユキさんは面白そうに、僕を見た。

「す、少しだけ……」

「とても上手だね」

 神様に褒めて頂き光栄で、謝罪したくなった。

「ユキさんの方が上手です」

「………………へえ?」

 神様の微笑みから、子犬を射抜く目に変わる。

「僕が英語披露したときってあったかな」

「………………あ」

 馬鹿だ。誤爆した。毎週のラジオでも一度たりともなかった。あるとすれば、渋谷の公開録音だけだ。恥ずかしさで死ぬより、いっそのこと心臓を射抜かれて死にたい。

 ユキさんが黙ってくれたので、僕も何も言わない。大人の対応だ。そのままの流れで、一緒に食事をすることになった。両隣には雷太君とナオキさん。机を挟んだ目の前にはユキさん。ゲームでフルコンボを食らった気分である。スタッフの女子からは不平不満の声が上がる。

 なるべくおとなしく、ユキさんのお顔を拝見しながら食べようと、お弁当の蓋を開けた。

「むっちゃ美味しそう……」

「むっちゃ好きなんだね。良かったね」

 ユキさんの笑顔が眩しい。彼も焼き肉が好物なのかもしれない。

「晴弥、やるよ」

 欲しい、という前に、雷太君は僕のお弁当に漬け物を入れてきた。

「嫌いなの?」

「肉があればいい。メインじゃねえし」

「沢庵だって、メインだと思うけど。ご飯が進むし」

 ユキさんは僕を一揖して、すぐに視線はお弁当に移る。ナオキさんは食べ方が豪快に対し、ユキさんはきれいに零さず食べる。

「ついでにこれもやる」

 鞄から出した物体を放り投げ、僕は受け取る。

 袋を開けてみると、猫のぬいぐるみがついたキーホルダーだった。

「猫だ……」

「誕生日だからな」

「へえ?」

 ばっちり低音の聞いた声は、いい加減仮面を外せと言われているようで、僕の全身からは変な汗が出る。

「晴弥君、誕生日なんだ?」

 質問ではない。肯定しろ、と目が優しい恐喝の色を宿している。ラジオでも感じたことはないが、この人は少しSっ気があるのかもしれない。

 確か葉書に、八月二十日は誕生日だと書いた記憶がある。もし、ユキさんが読んでいたとすると、あまり思いたくないが、つまり、そういうことだ。

「えと……名前、あの……うれしい……」

 なけなしの声で察してほしい。ユキさんは固まり、渋谷の公開録音で見せたような笑みのまま顔を傾げた。

「晴弥君は今日誕生日で、普段は眼鏡をかけていて、猫が好きなんだね。そうかそうか。ねえ、同じ放送サークルで、ハルって子いるかな?」

「ぶっ」

 飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。というか、飲んでいたのは彼が最もよく知る紅茶だ。もう手遅れかもしれない。

「大丈夫? このハンカチ使う?」

 懐から出したハンカチは、見覚えのありすぎるものだ。青のチェックで、雲一つない空をイメージしたもの。

『あれえ? そのハンカチ』

「ノー!」

『なるほど!』

 空気を読んでくれたのかどうなのか、ナオキさんは親指を上に向け、よく分からないハワイ語を発音する。英語と日本語の選択肢をしなかっただけ、有り難い。ハワイの人は、同性愛者に偏見はないのだろうか。こんなときでさえ、過去のトラウマが襲ってくる。父の怒り狂う顔が頭に浮かんだ。

「ハル……? ハル……いたっけ? そんな子。知らないっすね」

「晴弥君は知ってる? ハルって子」

 僕です、とは言わず、言い出せず、紅茶を飲んで「すっきりしていて喉越し爽やか」と返した。ユキさんはCMと同じ声で「新発売」と返してくれた。

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