恋(6)

 こんな気持ちになるなんて、思いもしなかった。愛とか恋とか、遠いもののように思ってた。自分はずっとひとりだから、汚れたっていいと思ってた。もう、汚れていたから。くちびるを噛んで俯く由香奈の頬を、いきなりクレアがつまんだ。

「……?」

 顔を上げた由香奈のもう片方の頬も、クレアは引っ張る。


「い、痛いよ……」

「痛いなら、泣け」

 クレアは無表情でぎゅうっと由香奈の頬をこねくり回す。

「由香奈は、しょっちゅう泣きそうな顔してるくせに泣かない」

「……」

「泣け、ほら。泣け」

「い、痛いって」

 マニキュアが乾くまで動けないからってこれはヒドイ。


「そんな、言われたって、急には」

 自分ではわからない。言われてみれば、泣いた記憶がないような気もする。

「あんたって、ほんとにさあ……」

 諦めたのか、クレアはようやく手を離してくれる。

「しょうがない子」

「ごめん……」

「あたしに謝ってどうする」


 仕上げのトップコートを塗りながらクレアはぷりぷりしていたけれど、ネイルの出来栄えに満足したのか、にこりと笑った。

「できた」

「可愛い……。ありがとう」

「どういたしまして。もっと固くなるまで擦ったりしないでよ」

「大丈夫かな」

 自信がない。


「由香奈さ……」

 マニキュアを片づけて毛布を持ち、クレアは改めて由香奈を見つめた。

「あたしいろいろ言っちゃったけど、別にあんたの好きにすればいいんだからね」

「うん……」

 自分の好きにできたことなんて、今まで数えるほどしかない。今、ひとりで暮らせていること、学校に通えていること、こうやって友だちができたこと。もうそれだけで十分だと思えた。


「クレアがいてくれれば、いいかな」

「はあ? あたしに殺し文句言ってどうする」

 ほんとにもう、とまた頬をつねられた。





「ぐっすりだよ。ほんとよく寝た」

 翌朝早々に日帰り温泉を後にし、通り沿いのコーヒーショップでモーニングセットを食べた。

「ほんと爆睡だったよな、おまえ」

 これだから悩みのないやつは、と色艶の良い春日井の隣でコーヒーを啜る中村は不機嫌そうだ。そんな男二人をクレアはじとっと観察している。その横で由香奈は静かにゆで卵の殻をむく。


「由香奈ちゃん、卵の殻むくの上手くない?」

 春日井が真顔で褒めてくれる。

「バイトでいつもやってるから」

「ちょっと。あんた爪!」

「あ……」

「ああ、もういいや。あたしのもむいて」

「オレのも」

「あ、じゃあこれも」


 ころんころんと、由香奈の前のトレイにゆで卵が転がる。

「はい……」

 彼女にとってたくさんの初めてを経験した小旅行は、いつもしている卵の殻むきで終わった。

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