月が見えた日

白井玄

月が見えた日

 扉を開けると、いつもどおり真っ暗だった。

 幸せとはなんだろう。不意に思考に浮き上がる、青臭い疑問。子供の頃は大人になればわかると思っていた。なんとなく大学を卒業して、なんとなく就職して、節目節目に疑問が浮かぶたび、そのうちわかるだろうと楽観視していた。でも二十八になっても私は、こうしてまた同じ疑問に首を傾げている。

 ただいま。口にしながら靴を脱いで部屋に上がる。換気扇がからから迎えてくれた。明かりを点ける。白く染まって一瞬視界を奪われる。そして現れる、私のワンルーム。ひとりのワンルーム。

 寂しい。寂しい。寂しい。「寂しい」ため息が漏れた。

 馬鹿馬鹿しい。べつに恋愛がすべてではないのだ。ひとりでだって楽しくやれる。

 なんて、強がってみても寂しさは身に沁みる。

 私だって人並みに恋愛をしたかったし、惹かれた相手もいる。ただ、なんとなくタイミングが合わなかった。デートの約束はハゲ上司のせいでフイになり、気づけば別部署のぶりっ子に掠め取られた。ただそれはいい、良くはないけど仕方がない。巡り合わせが悪かったのだ、それにそんな簡単になびく相手に引っかからなくて良かった、と前向きに考えればそう悪くない気がしてくる。腹は立つけど。

 大体、無理をして付き合っても疲れるだけだ。たしかに寂しいけど、気楽ではある。休日におしゃれしてでかける? 考えただけで面倒だ。

 そうやって言い訳を続けて、アラサーである。馬鹿なのは私だ。

 ビールとつまみの入ったビニール袋を座卓の上に置いて、出勤前に干していった洗濯物を取り込む。畳む気力がなかったからベッドの上に放り投げる。大した量がないのが寂しくなる。テーブルの向かいにも誰もいない。笑えてくる。今日もビールを二缶買ってしまった。

 着替えるのも面倒になって、上着だけを脱ぎ捨てる。ベッドを背もたれにカーペットに腰を下ろし、三五缶のプルタブを開ける。炭酸の抜ける音が虚しい。なにより、ひとりでもビールが美味くて泣けてきた。

 同期が結婚した。クールでドライな彼女は、捻くれ者の私には格好良く見えた。恋愛に興味がなさそうだったし、本人もそう口にしていた。その彼女が結婚した。相手は幼馴染で、十五年近くお互いに片想いしていたらしい。交際はしていなかったが、先日の誕生日に熱烈なプロポーズをされたらしい。そして押し負けたのだと言う。

 報告してくれたときの彼女の顔を、きっと私は忘れない。ステレオタイプだなんだと言ってみても、幸せなものは幸せなのだと思い知らされた。

 結婚が羨ましいかと言えば、正直微妙なところだ。ただあの幸せな顔を目の当たりにしてしまうと、考えてしまう。幸せってなんだろう、私は幸せなのかと。

 仕事をしてビールを飲んで家事をして寝る。この繰り返しに幸せを見いだせるほど、私は困窮した経験がない。不景気なタイミングに就職できただけ、ラッキーだったとは思う。そう言う意味では恵まれている。恵まれているけど、これじゃあ生きているだけだ。

 向かいの男からしたら、贅沢な悩みなのかもしれない。

 窓を眺める。道一本を挟んだ向かいのマンションの一室に、冴えない男が住んでいる。こちらと同じ三階に位置するけど、あちらの建物が若干低く、私からはその室内がよく見えた。男はいつも上下グレーのスウェット姿のフリーターで、私も利用する近場のコンビニで働いている。歳は私と変わらないぐらいだろう。私が帰ってきてしばらくすると彼は帰ってくる。そして彼は、毎日だらっとした生活をしていた。

 友達がいないのか、時間が合わないのか、彼が仕事以外で出かけている姿を見たことがない。スウェット姿で毎日、寝転ぶ男の姿はどこかシンパシーを感じる。もちろん私の独り善がりなのはわかっている。でも、気にする必要はない、そう慰められている気がするのだ。そう思うと、寂しさが少しだけ紛れた。

 さきいかの塩味が口に広がり、噛むたびにいかの旨味を感じさせてくれる。これをビールで流し込む。安い幸せだった。私が求める幸せとは違うけど、まあこれもひとつの答えなのかな、なんてほろ酔い頭で考える。

 男はやっぱり寝転んでいた。



「俺今日で最後なんですよ。いままでありがとうございました」

 ある日、いつも通り会計を済ませた直後、男はそう照れくさそうに微笑んだ。

 普段挨拶ぐらいしかしないから、いきなり声をかけられて戸惑いがあった。が、あまりに内容が衝撃的で、それどころではない。

「辞めるの?」

「就職決まったんです」

「お、おお、おめでとう」

 他人事には思えない嬉しさが胸に湧く。もうスウェット姿を見られない寂しさがあるのはたしかだ。だけど、そんなことが些細に思えた。

「これ、あげる。お祝いだから受け取って」

 買ったばかりのビールをひとつ男に差し出す。彼は一瞬驚いたようだけど、感謝の言葉を述べて素直に受け取ってくれた。勝手に抱いた恩だが、少しは返せたのかもしれない。

 後ろに客が並んだのでそろそろ立ち去ろう。

「じゃあ行くね」

 男は笑う。いい笑顔だった。

「今日満月なんで月見酒できますよ」

「おっロマンティックだ」

「お礼です」

「ありがと。頑張ってね」

 そうして店を出る。鼓動が速く感じる。自然と足取りも軽い。残念なのは雲がかかって月が見えないことだった。ちょっと抜けているのが彼らしい、何も知らないのにそう感想を抱く。

 扉を開けると真っ暗だった。でも、不思議と寂しくなかった。上着をベッドに放って腰を下ろす。いい日だ。高揚感と酩酊感は似ている。ビールを開けて一口喉に流す。いつもより美味しく感じた。

 ビールを開けたあとは日本酒をちびちび舐める。缶ビール一本でできあがる下戸けれど、たまには二日酔いもいいだろう。今日はめでたいのだ。

 ぼうっと窓を眺めていると、男の部屋に明かりが点いた。帰ってきたらしい。スウェット姿も見納めだ、じっくり眺めよう。そう思った矢先だった。彼の隣には見知らぬ女がいた。瓶で殴られたような衝撃が走る。そしてふたりはキスをして、女がさっとカーテンの線を引いた。

 なんてことはない。向かいの男も私とは違かったのだ。置いていかれた感覚が、寂しさを呼ぶ。

 寂しい。寂しい。寂しい。「寂しい」ため息が漏れた。

 私の幸せはなんだろう。もしひとつだけ言うならば、月を見られたことかもしれない。寂しい寂しい月見酒になったけれど、見られただけ幸せなのかもしれない。

 日本酒を舐める。味がしない。窓を眺める。

 ちくしょう。

 男の部屋の窓には、綺麗な満月が映っていた。

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