White Box -colorful-

鷹野

01.赤いヒールは勇気の印(ではない)

 学生諸君、私は学問が好きだ。


 特に続ける長文もないが、私は極々普通に勉強が、研究が好きである。特に現地に赴くフィールドワークが大好きだ。そして化粧もお洒落も好きだ。赤いピンヒールとミニスカート、金髪にピンクのアッシュ長髪ウェーブが特に大好きで。それ以外はあまり興味がない。敢えて言うのならお金はあった方が助かる。それくらいだ。

 なので。「ねえ俺たち付き合わない?」などとほざく男子学生にどう対処したものかと少しだけ首を傾けたが、まあ清廉潔白品行方正というわけでもない。学問をおろそかにしない程度に交際のひとつやふたつした方が良いのだろうと「付き合いたいなら構わないよ」と承諾した。つまりまあその程度の彼氏である。

 いやそんなドラマや漫画ではあるまいし、通常の恋人同士なんてこんなものだろう。両思いでしたきゃあなんてこともない。片方がそこそこ気に入って、もう片方がフリーなら商談成立。大体そんな感じで間違っていないのではないか。

 その彼氏からメールが届いていることは通知で気づいたが、今は講義中である。講堂ではないがそこそこ大きな教室のちょうど真ん中あたりの席を陣取って30分が経過したところだ。恐らく彼氏も講義中のはずだが。講義中に携帯を開くほどの急ぎではないだろうと視線をそのまま黒板に戻す。古い建物である旧館はまだホワイトボードではなく黒板でなんとなくその雰囲気が好きであったりする。

 視線を落とすとこの時間いつも前から2列目に座っている女子学生が見えた。

 カリカリカリ、と黙々とシャーペンを動かしているそれこそ品行方正を形にしたような女子学生の頭と黒板を眺めながら紙パックのイチゴミルクを吸う。

 自分の専門分野は大好きだが必修科目には興味はない。かといって疎かにするのもみっともない。出席はして、静かに聞いている。レジュメは受け取るがあまり板書はしないその程度。それなりに『きちんとした』学生に入るはずだけれど教授には受けが悪い。外見の問題だろうことくらいは理解できる頭はあるが、好きな服くらい好きに着させて欲しい。

 目の前の頭は綺麗な黒髪。色を抜いたことも染色したことも、ましてやパーマを当てたこともないような綺麗な黒髪。真面目を絵に描いたような髪色だ。

 つまらないな、と講義ではなく、視界に入る黒髪をただぼんやり見つめ続けた。


*


「綺麗な黒髪してんねえ」

 互いに講義を休んだことはないので、何となく「いるなあ」という程度の顔見知りとなっていたある日、出口でちょうど足がぶつかり譲り合いになった。

 それでふと『品行方正』ちゃんにそんな声をかけると、少しだけ驚いた顔をした後に、慣れていなさそうな笑顔を向けられた。


「ありがとうございます。黒髪ストレートが大好きなんです」


 それで、私は彼女を好きカテゴリーにいれることにしたのだ。

 それからは、講義中に視界に入る黒髪が楽しくなった。

 誰だって自分の好きな格好をしているのだ。

 別にそれで何か関係が変わったわけではない。元々研究対象以外あまり興味がないというタイプであることは確かなようで、後輩としての礼儀は守るがそれだけというそのスタンスを貫き通しているし、それが嫌いではない自分がいると言うただそれだけの関係だ。

 講義と講義の間の空き時間は廊下の行き止まりに設置された図書の棚と丸テーブルの前でなんとなく顔を合わせる。研究分野がかぶればたまに会話をする。

 かぶらないのに話すこととすれば。

「あ、そだ。今度中東行くことにしたんだ」

「……発掘ですか?」

「うん、なんかそんな感じ。ちょっと今内戦になりそうらしくて爆撃とかされて埋もれる前に発掘進めたいから人手が必要なんだって」

「なるほど。それは急がないといけませんね」

 そんな危ないところをなどと当たり前の言葉は言わない学問大好き後輩はいつもの淡々とした視線のまま、ご武運を?と首を傾げた。それはちょっと違う。

「お気をつけて、とかじゃないかな」

「うーん……。いやでも」

「うん?」

 特に悩むところではないはずだけれど、黒髪をさらさらと揺らして言葉を探している。

「貴重な資料に火でもついたら資料優先しませんか」

「そうね」

 それは確かにそうだ。

 気をつけている場合ではない。

「さすがに命は大事にした方がいいですけど……」

 腕くらいなら、と言いたそうにしている流れはよくわかる。

 確かに腕くらいならいいか。

「いやよくねぇだろ」

「あ、えーと。どっかの先輩」

「アバウト!」

 がん、と缶コーヒーが2つ置かれた。つまり奢ってくれると言うことだろう。ありがたく無糖に手を伸ばす。別に加糖でも飲めるが黒髪ちゃんは意外にブラックが飲めない。

「文学部! 心理学科! 大学院生の大先輩!」

「コーヒーありがとうございます」

「そういうところは礼儀正しいなお前!」

 人に奢ってもらったら礼を言うくらいのこと礼儀も何もないのではないだろうか。普通だろう。

「才野教授についてくんだろ? 猿どうすんの」

「ああ、いましたねそう言えば」

 心理学科で研究のために教授室で猿を飼っているのは結構普通にあるが考古学ではあまりない。ただの教授の趣味のはずだ。

「古代言語で使ったりする?」

「しません」

「悩む振りもねぇな」

 黒髪ちゃんは既に中東の話題に興味なしというように、次の授業の用意をしている。開いているのはアルファベットには見えないが中東の文字にも見えない。現代の言語ではないだろう。

「どっか財布作って金だけ用意しといてくれって教授に伝えといてくれ。後は何とかするから」

「それはどうも」

 親切と言うよりこれは猿が研究対象なんだな、と納得する。研究対象を大切にするのは当然のことだ。

「先輩、結構いい人ですよね」

「お前にだけは言われたくない台詞トップ3のひとつだぞ」

 まあ確かに金髪ピンクアッシュよりは信用度が高そうな黒縁眼鏡ではある。

 あまり度は強そうに見えない。

 度が強くないのならフレームは見えないタイプで作れるはずだが。

「ねえ先輩」

「あ?」

「その眼鏡似合いますね」

 正直感性には合わないが、これはこれで判別がつきやすくて助かる。

「ああ。これ前の教授からもらったお下がりなんだよ。古いけど良い味出してるだろ」

「ええ」

 その教授って言うのがさ、と話し始めると長い研究生らしい特徴を披露する黒縁眼鏡に返事をしながら、すっかり忘れていた『彼氏』に中東に行くことのメールを打つことにした。


*


「何だよそれ! 俺聞いてねえよ!」


 せっかくメールをしたにも関わらず返事は1週間返ってこなかった。忙しいのだろうと中東行きを進めていたら共通からの友人に「怒って無視しているのだ」ということを伝えられた。

 無視は、ダメージになる相手じゃないと意味がないんじゃないのかという言葉はギリギリ飲み込み、一応会って話をしたいというメールをする理性を発揮させた。

 その結果の第一声がこれである。

「だから今言ってるじゃない」

 そもそも専攻は考古学だしフィールドワークは普段から行っている。ゼミの教授も主に外国で調査を行っているのだからついて行く学生がいるのは当たり前だ。

「そういうことじゃないだろ! 何で相談しないんだよ!」

「相談?」

 何をだろうか。研究内容をか。危険な地域に行くことか。それならばまだ理解出来なくもないが相談して何かが変わることでもない。酷くなる前の今しかタイミングはないのだから遅らせることも出来ない。

「休学って何だよ、単位にもなんないのに意味わかんねえ!」

「……単位は研究成果の結果でしょう。単位にならないから行かないっていう選択肢はないよ」

「文系なのに何真面目なこと言ってんの! キャラでもねえ!」

「…………。急がないと、いけないでしょ」

 色んな言葉を2秒で飲み込んで、それだけを口に乗せる。

 少なくとも。

 あの黒髪ちゃんは最初にそのことを気にした。

 大切な、歴史資料が、自分の研究対象が燃えてしまうかもしれないのだ。

 私はその『キャラ』がブレたことは一度たりともない。いつでも。私は学問が好きだ。赤いピンヒールが好きで、金髪にピンクのメッシュが大好きで。あの子は黒髪が大好きであの先輩は黒縁眼鏡を誇りにしている。

 この彼氏は、何が好きだっただろうか。

 少なくとも、私ではない。

「彼女が死んだらさすがに後味悪いでしょ。振ってあげる」

 ああでも。

 本当は最初から振ってあげるべきだったんだな、と未だにわからない言葉で怒鳴り続ける元彼氏を眺めながら、恋愛履修の単位は落ちたことを自覚した。

 好きでないものは、好きはなかったのだ。

 元彼氏さん、私は、学問が好きだ。

 最初に、そう言えば良かった。


*


 休学の届を出して教授室に放置してたいくつかの私物を引き取りに行くと、普段は上の階の教授室に籠もっている黒髪ちゃんが降りてきていた。

 どうやら荷物を運んでくれるつもりらしい。往復するつもりだったのでありがたく手伝ってもらうこととする。何故か隣にいる友人らしい子が大方を持ってくれたが。

 少し埃をかぶっていた研究所もすべて車に詰め込んで、ぱんと身体を叩く。

 特に抱き合うような間柄でもない。それじゃあねと片手を振って車に乗り込もうとして、ふと思い出したように身体を戻した。

「ああ、そうだ。餞別代わりにひとついいかな」

「何でしょう」

「貴方、名前は」

 その問いに黒髪ちゃんはきょとんとしたように目を開いた、数度瞬いた後、ああと小さく頷いた。

「ではもしテレビに邦人の名前が載ったときのために私も」

「縁起でもないな」

 確かにその可能性はあるしそれくらいにしか使う必要もないと言い放つ品行方正の黒髪ちゃんに軽く笑う。


「遠藤蒼、じゃあね」

「高里塞です。資料の次に、お気をつけて」


 そんなまったく先輩の身体を構わない言葉に、一番の笑顔を返した。


 高里塞ちゃん、私は学問が大好きだ。


 それを口にしたら、きっと彼女は。

 そうですか、といつもの口調で答えるのだろう。

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