透明な傘
夏風陽向
透明な傘
あれはちょうど、蒸し暑さが気になってきた6月某日のことだ。世間的には「梅雨入り」という言葉をよく聞く最中だが、その実あまり梅雨と言えるほど雨が降っていないような気がする。
ただし、暑さだけは季節感を物語っていた。それを目に見えて証明するかのように大量の汗が
私を含めて4人で来ていたのだが、次に行く場所を聞いて、私は勝手ながら3人とは別行動させてもらうことにした。
どうやら3人は大人の階段を上るらしい。私自身「興味がなかった」といえば嘘になるが、何せ恋人に対して隠し事や嘘を吐くことができない性分なものなので、愚直にも恋人に一応聞いてみたのだが。
その結果、返信は早いもので、私は1人で街の探索をすることとなったのだった。
3人を笑顔で見送り、平塚駅の方を見る。
時刻は午後9時。私の感覚で言えば、家で休む準備をしていてもおかしくない時間なのに、駅の近くはすごく人が多い。スーツを着た仕事終わりのサラリーマンはともかく、学生も沢山歩いていて私は驚かされた。「都会と田舎ではこんなにも夜の街並みが違うものなのか」と感心した。
色んな店が並び、夜なのに電気で道が明るい。現地の人からすればこれが当たり前なのだろうが、田舎暮らしの私にとって携帯端末に備えられた懐中電灯を使わずに道が歩けるのは、本当にありがたいことだ。
とはいっても、私が平塚を訪れた回数は今回を含めて2回。しかし、前回は土砂降りで宿泊施設から出ることが出来なかったので、こうして平塚駅周辺の街を物色するのは実に初めてのことだった。勝手がわからない私は携帯端末で地図を表示し、画面を見ながら歩きまわるが、自転車で移動する人も多いので正面や後方にも気を付けなければ、事故を起こしてしまう可能性もある。画面だけに気を取られず、近付く自転車の走る位置に気をつけながら明るい街を歩き続けた。
携帯端末を見ながら歩く人。正面を見ているが、すごく早歩きな人。自転車を漕いで移動する人。様々な人とすれ違ったが、店が立ち並ぶ明るい道の中央で「やけに身なりが整った男性」がチラホラ見られた。格好の割にはキョロキョロしているというか、ほんの少し挙動不審なので、私はその存在に身の危険を感じた。
どうにか目を合わせまいと携帯端末を見ながら歩く私に、1人の男性が声を掛けてきた。予想はしていたが、その男性の話を聞いていると、やはり
現地の人は、そんな客引きにどんな対応をするのだろうか。辺りを見ても、他に声を掛けられる人はいないように見えるので手本がわからない。
私はとにかく、綺麗な女性から変にチヤホヤされるのが嫌いで怖いし、身なりが整ったその男性の雰囲気がどこか関わってはいけないような気がしたので「間に合ってますので」と言って、しつこくついてくる客引きをどうにか振り切り、強引にその場を去った。
しかし、私はその客引きに感謝した。何故ならその経験が、私に警戒心を芽生えさせてくれたからだ。すれ違う人ばかりではなく、道行く先にどんな人がいるのかを見た方が良いということを学び、それを意識して歩いてみると、案外「この先はまずいな……」というのを雰囲気で察することができるようになっていた。現に、そこにはサラリーマンも学生もいない。
これは偏見かもしれないが、私が見て回ったその周辺は随分と「大人の遊び」に特化していた気がする。もし仮に、私が「欲を満たせる遊び」を楽しめるような人種であれば「何度でも来たい」と思えてしまうような場所だろう。
しかし、実際の私は日陰の人種だ。そしてこの場所は、私のような日陰の人種にはどうも向かない気がする。ホビーショップのような「見ていてワクワクする場所」があるのではないかと思い、いざ検索してみると、車で移動しなければ行けないくらいの距離にあるようだった。
パチンコもやらない私は他に興味を持つことが出来なかったので、特に何処かへ寄ったりすることなく、ただ街並みを見物するだけにして、宿泊施設に戻ることにした。
携帯端末にインストールされている地図アプリを使って、宿泊施設を目的地に設定し、ナビに従って歩き出す。そんな時、不運にも大雨が降ってきた。
確かに天気予報で雨だと聞いていたが、宿泊施設を出た時には降っていなかったので気にしていなかった。ましてや、ここまでの大雨だとは思わなかったので、平塚まで来る際、乗ってきた車の中に傘を置いてきてしまった。戻る先が自宅であれば、そのまま大雨を気にせず濡れて帰るところだが、残念ながら「宿泊施設に戻る」ということを考えればあまり好ましくない。私はとりあえず近くの屋根が付いている道に避難して歩くことにした。
しかし、屋根の付いた道も途中で途切れてしまった。その先はしばらく屋根がない。止むを得ず、既に営業時間が終了してシャッターの閉まっている店の前で雨宿りをすることにした。
携帯端末の画面を見ながら、止む気配もなく激しく降り続ける雨に困っていると、私と同じように傘を置いてきたと見える女性が同じ屋根に避難してきた。年齢は20代前半くらいだろうか、私と同じか少し上に見えた。
当然の話だが、私とその女性は過去に会ったことなどない。私からすればその女性が現地の人だと思うし、その女性からすれば私が現地の人に見えるかもしれない。どうあれ、私に話し掛けられたくないのか、或いは見ず知らずの他人だからなのか、私とその女性との間には、離れた心の距離が大人3人分くらいの間隔として現実に存在していた。
ところが私は、観光気分で感覚が麻痺していたのだろう。同じ屋根で雨宿りし、私と同じように携帯端末の画面を見ているその女性に話し掛けた。
「いやぁ、降られてしまいましたね」
「…………」
私の声が聴こえなかったのか、それとも関わりたくなくて、敢えて無視したのかはわからないが、いずれにせよ、私の掛けた声にその女性が返事することはなかった。携帯端末の画面を変わらず、ずっと見続けている。
無視された私は急に恥ずかしくなって、自分の行いを後悔した。恥を感じている時ほど居心地の悪い場所はない。他のことは考えられず、とにかくこの場を去ろうかとだけ考えた。
しかし、雨はまるで「帰すまい」と言うかのように強く降り続けるので、まだここにいるしかない。恥をきっかけに若干センチメンタルになっていた私は、そんな雨の気持ちもわからなくはなかった。何故なら、翌日になればこの平塚を去らなくてはならないからだ。
私のようなちっぽけな人間が1人、こっちに越してきて増えようと、この街が変わるわけではないだろう。なので一層の事、潮風を感じるこの地に移り住むのもありかもしれない。そうなれば、豪雨が降った今日のような日がこれからは寂しくなくなるのではないだろうか。
私はそんな夢幻を描きながら、出来るだけ「大人3人分ほど離れた場所にいる女性」と「話しかけた結果、無視されたという恥」を意識から追い出そうとする。雨はまだ弱くならない。
描いた夢幻は屋根から落ちる雫の音で打ち消された。何処と無く目のやり場に困った私は、再び携帯端末の画面を見る。時間は既に午後10時20分。街中を探索し、ここで雨宿りをしているうちにこんな時間になってしまったようだ。
私は宿泊施設のフロントから「午後11時までには戻るように」と言われていた。もしこれを破れば、規則を守らなかった愚か者として、別行動をした3人から笑い者にされることだろう。
そんな恐怖を想像したその時だった。ふと、私は正面にあるドラッグストアを見て1つ気付いたことがあった。
ビニール傘が見やすいところに売られていたのだ。出来るだけ出費を抑えたい今日ではあるが、規則を守らなかった愚か者として扱われるよりかは傘を買って帰った方が遥かにマシだと私は思った。
走り出し、僅かながら雨に濡れるが気にしない。ただ一心にビニール傘を2本買って、私はドラッグストアを後にすると、また同じ雨宿りをしていた場所に戻った。
「……これ、もし良かったら」
私はそう言って、携帯端末の画面を見ながら雨が上がるのを待つ女性へと、買ったビニール傘の1本を差し出す。
「え? そんな、悪いです……」
予期せぬ善意に女性は困惑しているのだろう。私が既にビニール傘を2本買ってしまっているのにも関わらず、そんな無意味な遠慮をした。
だが、私に引く気は無い。
「もう買ってしまいましたから。時間も遅いことです。いくら都会で明るいとはいえど、こんな時間に女性が出歩いてはいけない。早く帰ることをお勧めしますよ」
「は、はあ。では、お言葉に甘えて……」
私は傘の持ち手を女性に向けて、笑顔でそれを手渡す。しっかり受け取ったのを確認してから、私は傘を広げてこの場を去ろうとした。
「あの、待ってください! この傘、どうやって返せば……」
「あー……」
私は「しまった」と思った。つい咄嗟に、善意でその女性にビニール傘を与えてしまったが、返してもらうことを考えていなかったのだ。
とはいえ、差し出したのはなんの変哲も無い「只の透明なビニール傘」。返してもらわないと困るほど貴重なものではないし、値段だってそんなに高くはない。
私は結局、その傘を差し上げることにした。
「私は明日の午後5時くらいにはここをたたなくてはなりません。残念ながら、仕事で県外からここに来ているものですから、明日はここでの自由時間がないので難しそうです」
「えっ。じゃあなんで……」
女性の疑問はもっともなものだった。もし、私がその女性と同じ立場であったのならば、同じように困った顔をしながら、同じような疑問を口にしたことだろう。
私はその答えを、ただ思いついたまま述べることにした。
「何故でしょうかね。まあ、同じ屋根の下で雨宿りをしたのも何かの縁だと思って……。人間、常日頃真面目に生きていれば、稀に予期せぬ『よいこと』があるものです」
雨が強く降り続ける中、私は半ば無理矢理にその場を離れた。
去っていく私の背中を見るその女性は、一体どんな顔をしていたのだろう。そして私の姿はどんな風に映っていたのだろうか。幸いにも、その女性と歩いていく方向が異なったようなので、角を曲がった先……傘を差し上げた女性の視界から私の姿が消えたであろう位置まで来た私は、残り時間が短いことを思い出し、走って宿泊施設まで戻った。
実を言えば、大人になって海の近くを走ったのはこれが初めてだった。潮風が吹くなかで傘では防ぎきれずに入ってくる雨に濡れ、暑さで酷く汗をかいた体は、いつにも増してベタついているような気がした。故に、その時の私はただただ「早くシャワーを浴びて着替えたい」という気持ちでいっぱいになっていた。
その後、どうにか午後11時までに宿泊施設へ到着することが出来た私は、シャワーを浴びてから寝るまでの間、今夜の出来事を思い出すことはなかった。
透明な傘 夏風陽向 @youta_ikeda
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