第2話 男の子
中央公園へとつづく街路は、両側に広い歩行者用の通りある。
それとは別に車道を分ける中央分離帯を改造して遊歩道のようにもなっていた。樹齢のかなり高い立派な樹木が遊歩道の上に自然の天井を作っていた。
風に時折揺れる葉音が、幾ばくかの涼を運んでくる。
バーンと臣人はその下を人の流れにのるように歩いていた。
と、不意にバーンの足が止まった。
「どうしたんや?」
臣人も立ち止まった。
バーンは表情を変えずに足下を指さした。
「なんや? !」
どうしたんだと不審そうに臣人が覗き込んだ。
いつのまにか何かが足に絡みついていた。
小さな物体。
それは??
「パパぁ!」
年の頃は2,3才の浴衣を着た男の子が、バーンの足につかまっていた。
「なんや、坊主やないか。迷子かいな?」
臣人はしゃがみ込んで、その男の子と同じ目線に立った。
「パパ。」
小さな両手でバーンの足を抱きしめ頬ずりしている。
「こいつは、坊主のパパやないで。」
男の子は首を振った。
「ママはどこや?お兄さんの言ってることわかるかいな?」
「おじさん、嫌い。パパがいーい。」
「うわぁ、むっちゃむかつくガキや。」
男の子は、両手を広げて抱っこを要求した。
「パパ、抱っこ!」
「わいは、おじさんと違うねん。お兄さんや。お兄さんと呼びぃや。あんなぁ!聞いてるんかぁ!?」
男の子はべーっと舌を出して、そっぽを向いた。
ぷっくりとした頬が少し紅潮していた。
「・・・・」
バーンは何も言わずに、ひょいと男の子を抱き上げると、肩車をした。
男の子は声を上げて笑った。
「うわあ!パパぁ、高い!高いよぉ!」
臣人はそんなバーンの姿を見て、父親になった彼を想像して笑った。
おそらくは、もう叶わない夢であろうが。
もし。もし、亡くなったラシスが母親で、バーンが父親ならば一体どんな子が生まれてきたのだろうと?
彼らがあのまま想い合ったまま結ばれていたら?
そんなことを思いながら、ちょっと悲しそうな目でバーンを見ていた。
男の子は、バーンの髪を手でくしゃくしゃにしたり、頭にギューとつかまったりしたり、無邪気に遊んでいた。
「度胸のある坊主やなぁ。」
苦笑いをしながら、臣人はバーンの肩に乗るその子の顔を見上げた。
「臣人、行こう……」
バーンはその男の子がすることに腹を立てるわけでもなく、何事もなかったように歩みを進めた。
雰囲気もいつもの冷たい彼のものではなかった。
いつもよりも穏やかなものに感じられた。
数十メートルしか進んでいないのに、見物人はますます多くなる一方であった。
と、男の子の足を押さえて肩車をしているのいる手が誰かにぶつかった。
「すみません。」
若い女性の声だった。
彼らには聞き覚えのある声だった。
「あれ!?先生。」
左と右にいる二人の両方に視線を往き来させながら、驚きの声を上げた。
劔地綾那であった。
肩まであった髪を上げ、青い浴衣にオレンジの帯を締めていた。
「なんや、劔地やないか。おまえなんで」
臣人がバーンに代わって驚いて、話し出した。
「こんなとこにいるのかって?言いたいんでしょう?」
団扇をパタパタさせながら綾那が答えた。
「夏休みで家に帰ってきてたんですけど。せっかくだから、みっさたちと花火見物に出て来たんですよ。」
彼女の周りには他に見覚えのある顔が二人ほどいた。
2週間ぶりに見る教え子達の顔だった。
夏休みに入る前と変わらず、元気そうに見えた。不思議な気持ちだった。
この職業に就いて、4ヶ月半。人と関わる仕事。
すぐには成果がみえない仕事。本業には及びもつかないほど変化の多い仕事。
それでも彼女らの笑顔を見るとうれしくなった。
自分たちを『先生』と呼んで、慕ってくれるこの子達がいることが。
「ところで、この子。オッド先生の隠し子ですか?」
肩車された男の子を指さして、怒ったように黄色のハイビスカス柄の浴衣を着た祥香が言った。
「先生ったらひどいっ。奥さんがいたんですね!?」
さらに泣き真似まで加わった。巾着を持った手を振り回している。
結構自分の言ったことに陶酔するタイプのようだ。
「ちゃうねん。迷子のようや。」
バーンより動揺して臣人が答えた。
「みんな勢揃いやな。」
「ええ。祥香のお別れ会も兼ねてますので。」
綾那が残念そうなトーンで言った。
「お別れやて?」
思わず聞き返してしまった。
「あれ、話していませんでしたっけ?」
祥香も困ったように、首をすくめた。
「初耳やで」
バーンも初めて聞く話に首を傾げていた。
表情を曇らせて祥香は、決まってしまった事実を話し始めた。
「私、転校することになったんです。」
本当は転校したくはなかった。
仲の良い友達もいる。
ここから離れたくはなかった。
それにこのあいだのこともある。
断られたとはいえ、バーンに思いを寄せていることに変わりはなかった。
「夏休み明けから、アメリカの方に。9月から編入になります。」
「アメリカやて!?」
「はい。サンフランシスコですけど。父の会社の都合で。」
サンフランシスコという言葉を聞いて、臣人はバーンの顔を見た。
けれど彼は臣人の方は見なかった。
無表情のまま彼女たちを見ていた。
強力に自分の心をコントロールしていた。
彼の感情が表情に表れるのはそうそうない。
サンフランシスコ。
そこはバーンの生まれ育った街だ。
そしてあの悲劇のあった場所。
それを思い出しながら、臣人はバーンの心中を推し量った。
戻りたくても戻れない場所。
逃げるようにして、7年前日本にやってきた。
「…そうか」
静かにバーンがつぶやいた。
「残念だよ…。」
「!」
この言葉に臣人はちょっと驚いた。
普段のバーンならこんなに素直に自分の感情を言葉にすることは滅多にない。
どこか距離を置いているように見えた。
自分には関係のないことのように。
何でも客観的に、まるで他人事のように。
そんなふうだったバーンが、祥香の転校に対してここまで自分のことして向き合ったことに驚いていた。
(あの告白も、コイツにとっては満更悪いことでもなかったんやろか?)
綾那から聞いたことを再び思い出していた。
祥香のリストカット事件のあと、「好きです」と彼女から告白されたバーン。
しかし、彼はそれを丁重に断った。今も昔も…彼の心はひとりの女性のものだった。
彼の心には彼女以外住んでいなかった。自分もよく知る人物だった。自分のせいで彼女は亡くなっていた。7年前の12月25日に。
ラシス・シセラという名の彼女。
(バーン、だから、わいは…)
黒く丸いサングラスの向こうの目が何かを訴えていた。
それを彼以外の人がわかるはずもないが。
いつになく長い間黙り込む臣人に気づいて、バーンが声を掛けた。
「臣人?」
「おっ?」
うつむいていた顔を急に上げた。
バーンと視線が合ってしまった。
「顔、青いぞ…」
心配そうに見つめていた。
いつもならはしゃぎまくる臣人の言葉がないことを不審に思った。
(何のために、わいはここにおるか。自分の役目を思い出さな…な。)
臣人は自分に言い聞かせた。
首を傾げて、力無く笑って見せた。
「何でもあらへん。」
なんだかそれ以上追及されたくなさそうに見えたので、バーンも言葉をそこで切った。
そんな雰囲気を吹き飛ばすように男の子は元気だった。
頭の上できゃっきゃっとすこぶる機嫌良くはしゃいでいた。
「パパ、あっち、いこー。」
男の子が横からバーンの顔をのぞきこむように、体を曲げてきた。
バランスを崩しそうになり、バーンはあわててその子の両足をつかんだ。
「綾、早く行かないとみられる場所なくなってしまうわよ。」
団扇で口元を隠しながら、本条院美咲が割って入った。
紺の浴衣が落ち着いた雰囲気の彼女に似合っていた。
「そうね。先生たちも花火会場へ行くんですか?」
綾那は美咲の方を見てから、再びバーンと臣人の方を見た。
「ああ、そうしよう思うとったとこや。」
小声で美咲や祥香と何やら耳打ちをしながら、相談していた。
何か困ったことでもありそうだ。
「途中までご一緒しませんか? さっきも変な人にからまれそうになったので。」
三人揃って上目遣いでかわいさと心細さをアピールした。
どうやら彼らに会う前に怖い思いをしたらしかった。
その言葉に一番過剰な反応をしたのは臣人だった。
「うちのかわいい生徒にてぇだすとはいい度胸や。わいにまかせぇ。」
腕まくりして、太い筋肉質の二の腕を出して見せた。
細身に見える彼には似つかわしくない鍛え上げられた腕だった。
もう近くにいないということはわかっていたが、周囲に睨みをきかせる様な態度を取った。
「そう言ってる、臣人先生が一番危ないんですけど。」
髪に手をかけ髪飾りを直しながら、淡々と美咲が言った。
「みっさ、それはないんじゃない? 少なくても私たちの学校の先生だよ。」
苦笑いしながら綾那が言った。
祥香が左手首にした細い腕時計をちらりと見た。
そこにはあの『傷』はもうなかった。
「わ!大変!だいぶ時間過ぎちゃってるよ。」
慌てふためいたように祥香が叫んだ。
「さ、行きましょう。」
綾那が音頭を取った。
6人はふたたび中央公園に向かって歩き始めた。
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