RAIDO

砂樹あきら

第1話 祭りの夜

発見への本当の旅は、

新しい風景を探すことにあるのではなく、

新しい目を持つことにある。


マルセル・プルースト




午後7時半。

まだ西の空がうっすらと赤い夕焼けに染められている時間。

うだるような暑さも夜になると一段落するのかと思いきや、そうでもなかった。

遠くの景色もまるで陽炎のようにゆらめいて見える。

肌にまとわりつく湿った熱い風が、シャツを通して感じられた。

地下にあるTerminusテルミヌスの店内は珍しく人でごった返していた。

明日から年に1度の祭りが始まる。

今日はその前日だった。

他の地域から夏休みを利用して訪れた旅行客でいっぱいだった。

外には、月齢23.3の月が空に浮かんでいた。

「あれぇー、もうお帰りですかぁ?いつもより早くないですか~?」

カクテルシェーカーを振りながら、カウンターの中からリリスが声をかけた。バーンも臣人も入口の扉に手をかけながら振り返った。

いつもなら夜の夜中まで飲んでいる二人が、こんな早い時間に席を立ったことを不思議に思ったからだ。

「今日は祭りの前夜祭やからなぁ、こいつを花火見物に連れ出そう思っとんねん。」

バーンは『嫌だ』と言ったのにという顔で臣人を睨んでいた。

「たまにはええやろ、この熱気の中にいるんも。こいつさっきから嫌がってばかりで困っとんのや。ホンマ往生際が悪い。」

臣人はニヤニヤしながら言った。

ほんのちょっとしたことででも、最近、反応を示してくれるようになったバーンに喜んでいた。

「……」

バーンは本当に迷惑そうな顔をしている。

リリスはにこっと笑いながら、グラスにカクテルを注いだ。

指先の動きまで洗練されていて美しい。

「ようーやくぅ、夏らしくなってきましたからねー。梅雨開け宣言した途端にぃ、暑くなるんですもの反則ですよねー。」

「やっぱ、夏はかあぁぁぁっと暑うないとな! 特に日本の夏はな。」

楽しそうに何やら想像している。

きっと臣人の頭の中は日本の夏独特のイベントで一杯なのだろう。

その表情の変化で何を考えているか(きっと良からぬことだろうが……)わかってしまいそうだ。

「でもぉ、男の人二人で花火見物って危なくないですかぁ~?」

困った顔でバーンは臣人を見た。

臣人はますます調子に乗って話し始めた。

「他に行くヤツおらへんのやから仕方がないやろ。」

バーンは臣人の顔を見ながら『それは嘘だろう』と首を横に振って否定しそうだった。

それは長い付き合いだからよくわかっていた。

ナンパが趣味の臣人がこんなイベントの時に女性を連れていないことはなかったからだ。

それはバーンに気を遣ってのことだが。

「だいたい夏休みにもなって、どこにも行かずに毎日ここで酒かっくらってるコイツもコイツや。」

何だが話がズレて来ている。

『そんなの俺の自由だろう』という顔で臣人を見上げていた。

「余り体にようないやろ?」

恩着せがましく言いながら、にんまりした。

「……」

何を言っても、こう言い出すと臣人はきかなかった。

何かにつけてかまってくる。

それは初めて彼に会った時以来続いていた。

それがバーンにとって外の世界と繋がる窓口でもあった。

彼が自分の殻に閉じこもるのを防ぐ唯一の方法でもあった。

「ま、その辺の出店流しながら、花火見て帰るわ。ごっつぉさん!」

扉に取り付けてあるベルが涼しい音色を立てた。

臣人はバーンにげんこつで頭を殴られながら出ていった。

その様子にリリスは少し目を細めた。

彼らの姿が見えなくなるまで見送るとちょっと微笑んだ。

「わざわざ遠回りして帰るのも、たまにはいいかもしれませんわね~。」

独り言のようにつぶやいた。

それもそのはずだ。

彼らの住む部屋はこのビルの4階なのだから。

Café Terminusを含むこのビル全体がリリスの所有である。

その一室を彼らに貸し与えているのだから。

「本当にーぃ、すごい気に満ちあふれていますねぇ。」

リリスはグラスに注いだ凛と冷えた“マタドール”を見ながら言った。



地下から階段を上がって地上に出ると、空気が湿度と夏と祭りの熱気でむわぁとしていた。

Terminusは表通りから一本なかに入ったところにあるので、街頭も暗く、いつもなら人通りも少ないが、今日は特別である。

店の目の前にある路地も、向こうに見えるメインストリートもほんとうにすごい人だった。

人の波が流れていっていた。

みんな花火会場である中央公園へ向かって続々と歩いていた。

「……」

その様子に面を食らったのか、バーンは黙り込んだ。

臣人は言葉にならないバーンの感情にいち早く反応した。

「人に酔うから帰るなんて言わんでくれよ。」

「……」

上目遣いで臣人を見た。

やはり行きたくなさそうだった。

人が多い場所は苦手なのだ。

幼い頃からそうだった。

人前に立つこと、大勢の人の中にいること、それだけはどうしてもいやだった。

人と自分が違うことを否が応でも認識してしまうからだ。

人と違う自分の右眼。

左眼は抜けるような蒼色。

だが右眼は輝く黄金色。

カラーコンタクトで隠していても、つい意識してしまう。そんな想い。

「たまにはわいに付きおうてな?」

それを知っているかのように臣人は言葉を続けた。

日本に来て3年目の夏。バーンにとって3度目の夏。

少しでも日本のいいところを彼に見せたかった。

『普通』の人と同じように過ごしてほしかった。

『普通』の人と同じように過ごさせたかった。

彼が『特別』ではないと信じさせたかった。

彼と知り合ってからずっと同じことを考えていた。

どうしたら、彼を…。

「…なんか」

バーンの声でハッと我に返った。

知らないあいだに考え込んでしまっていた。

「最近強引じゃないか?」

暗い表情で臣人の方を見ていた。

「そーか?」

キュッと眉毛を上げ、いたずらっ子の表情で笑っていた。

「気分転換にはなるやろ。さ、いこか。」

臣人は歩き出した。

さきを行く臣人の背中を見て、ため息をひとつついた。

バーンも足取り重く、歩きはじめた。

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