3 認めた男
思わずぐっ、と息を詰めたのは、それがあまりにもタイムリーな名前だったからだ。「糸川三曹」――かつてのバディだった相手の名前。
(どうして急に……)
通知はメッセージアプリのものだったが、そのままスマホをポケットにねじ込みしまい込む。取り敢えず、勤務時間が終わってからでも確認すれば良い。
事務作業をしながらも、頭はふっと昔の記憶を辿っていく。テーピングだらけのデカい手が、不意に思い出された。
(あれは……ロープ橋検定の頃か)
岩場に谷を挟んで張られた、傾斜のある30メートルほどのロープ。そのロープを、下りは「セーラー」というロープの上に身体をのせ、バランスを取りながら這い進む方法、登りは逆にロープにぶら下がりつつ、両手でロープをつかみながら左右の膝を交互に引っかけて進んでいく「モンキー」で渡りきるというのが、「ロープ橋検定」だ。山地潜入の際に必要な技術であり、これに合格できなければ原隊復帰となってしまう。
特にセーラーは、バランスを崩し落ちてしまうことがある。そうすると、足をロープに引っかけて勢いをつけつつ、身体を上に持ち上げ、バランスを取るところからやり直さなければならない。
ただそれでも、セーラーはモンキーに比べて苦労するヤツは少ないのだが、何故か糸川はひどく苦手としているようだった。まずスタート時によく落っこち、更には渡っている途中でも落っこちていた。その度に、助教らの怒鳴り声が辺りに響き渡った。
「モンキーのが辛くないか? 膝の裏、擦れて痛いだろ」
そういう俺に、糸川はげんなりした顔で「痛いのは、まぁ、耐えられる」と呻くように言った。弱音こそ吐かなかったが、少し繊細な身体の使い方に苦手意識をもっているようだった。
それでも、検定当日。失敗して再検定になるだろうと踏んでいた同期や助教らの予想を裏切り、糸川は一発でセーラーとモンキーをクリアした。「やったじゃん」と囁く同期に、ヤツは「落ちたら死ぬと思いながらやった」とクソ真面目な顔で答えていたが。隣に立つその大きな手に巻かれたテーピングが、何度となくボロボロに擦り切れるほどに練習していたのを俺は見ていたし、少しでも時間があれば、
そういうヤツだから、俺は糸川を認めていたし、糸川がバディで良かったと思っていた。こいつに負けないくらい、自分もやらなければ。やれなければ。少しでも気を抜けば置いて行かれるのではないかと思うくらいに、俺にとって糸川の存在というのは刺激であって、同時に支えだった。
(俺は……あいつの支えには、なれなかったけどな)
弱音を吐くようなヤツじゃないと知っていたのに、不調に気づいてやれなかった。だから、結果としてヤツは辞め――俺は勝手に、裏切られたような気持ちにさえなった。
訓練後、一緒にレンジャーとなった同期たちとは一度だけ飲んだが、糸川とはその後も会っていない。
だからあいつが、俺のことをどう思っているのかも分からない。もしかしたら、頼りにならないバディだったと思っているのかもしれない。
***
勤務を終え、廊下を歩きながら俺は、ポケットからスマホを取り出した。結局、ついふらふらと思考がそっちへ行ってしまうため、あまり仕事ははかどらなかったが。
なんだかんだ理由をつけて後回しにしているより、さっさと確認してしまうべきなんだろう。
(とは言え。このタイミングで来るってことは、要件はなんとなく分かる気がすんだけど……)
いや、これ以上余計なことは考えるまい。俺はふっと息を吐いてスマホの通知をタップした。
そこには、糸川の名前で一言。
『今年、レンジャーに参加することになった』――と、あった。
(――やっぱり)
そう思いながら、安堵する自分がいる。それがどういう感情なのかは、よく分からないが。同時に、「なんで」と訝しむ自分もいる。
どうして俺にそんなこと連絡してきたんだ、と。
気がつけば、俺の指は通話ボタンをタップしていた。
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