その先に、手を伸ばすのです!

地獄が始まる、ちょっと前のできごと

 きつい専用シューズにハダシを押し込み、腰にはチョーク滑り止め粉・バッグをくくりつけて、ふうと一つ息をつく。


「さて……どうしよう」

 レンタル品に身を包んだあたしは、少し途方に暮れる気持ちで、目の前の光景を見つめた。


 手前に傾いた壁と、色とりどりのホールド手がかり。壁の下には、安全用の分厚いマットが隙間なく敷かれている。

 そして、ホールドに手足をかけて、壁を登っていく人びと。

 ――休日昼間のボルダリングジムは、外があんまりに良い天気なせいか、意外にいていた。


 壁にしがみついている人びとはさまざまで、がしがしと登っていく男の人もいれば、ぬるっと壁に張りつく蛇のような滑らかさで、ホールドを移動していく女の人もいる。


 そのうちの一人が、ぼふっと音を立てて、あたしの目の前に落ちた。

「あれ。小牧ちゃんじゃない」

 背中から思いきり落ちた彼女は、マットに横になったままあたしを見つめると、驚いた顔をしてむくりと起き上がった。


「あ……伴成ともなりさん!」

 伴成さんは、一回あたしの横を通り過ぎると、イスに置いてあったタオルで汗を拭き、ボトルに口をつけた。ふう、と息を吐き、それから改めてこちらを見て、笑いかけてくる。

「小牧ちゃんも、ここ通ってたの?」

「初めてです。ここ……って言うか、ボルダリング自体、初めてで……」


 伴成さんは二つくらい年上の、今年同じ部隊に異動してきた、女性自衛官だ。肩より少し長い髪を後頭部で一つに結わえて、ティーシャツと伸縮性のある長いパンツを身につけている。

 チョーク・バッグやシューズは、デザインを見る限り自前らしい。「いてて」と言いながらシューズを脱ぐと、指先がほんのり赤くなっていた。


「そう言えば。小牧ちゃん、今度のレンジャー、行くんだもんね」

「そうなんです。それで、訓練中に岩場登ったりもするから、ちょっとくらいジムで練習しとけって……田端さんが」

「確かに、動きのコツみたいのはつかんどくと、ぶっつけで岩場登るよりは楽かもねぇ」


 頷く伴成さんに、「でも」とあたしは壁を見つめて首を傾げた。

「色や番号で課題が分かれてるっていうことは教わったんですけど……実際にこうして目にすると、どうしたものか、迷っちゃって」

「まぁ、初めてだとどうしてもね。不安だよね」


 「ちょっとおいで」と、伴成さんが空いてる壁にあたしを案内してくれる。


「まずはね、登る課題をよく見て。使うホールドの位置と、角度と、順番とを。スタートからゴールまで、イメージするんだよ。どう腕を伸ばして、どこの位置に足を置こうか、とか」

「は、はいっ」


 言われた通り、じっと壁を見つめる。ホールドの横には、小さなカラーテープが何枚も張られていて、更にそこに数字やアルファベットが書き込まれている。


「ここは、初心者向けの課題は紫なんだ。好きなマークの、スタートって書いてあるホールドを両手で持って、両足は自由なホールドに置いて……そこから始めるよ。そして、同じマークがついたホールドだけに手をかけてって……ゴールは、また両手でつかんで、課題クリア」

「ええっと……」


 言われた通り、イメージをしようとして――早くもちんぷんかんぷんなあたしに、伴成さんが「まぁ、とりあえずやってみないことにはね」と笑って、背中を押してきた。


「最初の課題は、ハシゴ上がれればクリアできるくらいだから」

「えっと、はい!」

 とにかく、言われた通り、スタートのホールドに両手をかけて、下の方に設置されているホールドに足を置く。きょろきょろと上を見回して、すぐ近くに同じマークのついたホールドを見つけて、ぐいっと手を伸ばす。足も、別の動かしやすい場所に移動して、ぐんぐん登っていく。


「ほら、あっという間にゴールできた」

「は……はいっ」

 両手でゴールをつかんだあたしは、またゆっくりとホールドを降りて行った。


「そんな感じで良いのよ。紫は他に八個くらい課題あるし、頑張ってね」

「ありがとうございますっ!」

 笑顔で手を振り、別の課題をすいすいと登っていく伴成さんを見て、あたしも「よしっ」と気合いを入れ直す。


 紫色の課題は、確かにそんな難しくもなく、ただ少しずつ、ホールドが持ちにくい位置にあったり、手数が増えていったりして、ちょっとずつ難易度は上がっていった。

 おまけに、キツい靴をはいた指先が痛い。腕もプルプルしてきたので、一つクリアしたら一回靴を脱いで少し休んでから、次に挑戦するようにした。


 それでも紫色の課題をやり終えて。次の難易度の課題である、ピンク色の課題に取り組もうとし――そこではじめて、つまずいた。


「うーっ、なんでぇ?」

 背中からぼふっとクッションに落っこちながら、あたしは小さくうめいた。どうしても、毎回同じところで足を滑らせて落ちてしまう。


 次の人が待っていたため、すごすごとイスに戻って水分をとる。はぁ、と溜め息をついていると、汗を拭きながら伴成さんが歩いてきた。

「どう? 良い感じ?」

「ダメな感じです……なんか、同じとこで落ちちゃって。腕もプルプルしてきて、つかんでいられなくなってきたし」

「あー、なるほどねぇ」


 伴成さんは首を傾げると、「あのね」と人差し指を立てた。

「ボルダリングは、手じゃなくて足が主役なのよ。足をいかに使うかが、大切なのよね」

「足……ですか?」

「そう。身体を支えやすい、ホールドや足の置き方を工夫するとね、腕にかかる負担が減るの。爪先だけで立つとか、逆にかかとを引っかけて登るとか……それがピタッとはまると、ビックリするくらい不思議と楽に登れるのよ」

 「だから、最初のイメージが大切なの」と、伴成さんが笑う。

 言われてみると、あたしはとにかく近くのホールドに足をのせることしか考えてなくて、手の力で無理矢理に登っていた感じかもしれない。


「なんて言うか、ボルダリングは頭と身体の両方を使う、パズルみたいなものなのよ。いかに少ない力で楽に登れるか……それを考えながらチャレンジすると良いわよ」

「あ、ありがとうございますっ」

 ぺこっとあたしが頭を下げると、「やめてよ」と伴成さんが慌てて手を振った。


「職場じゃないんだから。私だって、そんな偉そうなこと言えるほど、上手くもないしね」

「でも、すごく助かります! 伴成さんは、ボルダリングやって、長いんですか?」


 あたしの質問に、伴成さんは小さく笑って、ペットボトルに口をつけた。こくりと、喉の鳴る音が聞こえる。


「私は、去年から。去年の――初めて女子が参加できることになったレンジャー訓練にね、行ったのよ。私も」

「伴成さんが……」

 あたしは、きょとんと目の前の先輩を見つめた。そんな話、初めて聞いた。


「じゃあ、いろいろ教えてください! 女子の先輩で行った方がいるなんて、すっごく参考に――」

「だめよ。私、最初の方で原隊戻っちゃったから」

 へらっと笑いながら――でもきっぱりとした口調で、伴成さんが言う。


「男子学生たちにね、ぜんぜんついていけなくて。そうすると、当然ペナルティがつくし、それで周りの足を引っ張るし……自分ではかなりやれるつもりだったから、余計にね。ほんと、辛かったなぁ」

 「あはは」と、伴成さんが頬を軽く掻く。


「それで結局、自分からリタイアしちゃった。私には、レンジャーは無理だったんだって……せっかく、行く前にボルダリング始めて、いろいろ特訓していったのに。そんなとこまでたどり着けもしなかったのよね」


 「ボルダリングにはハマっちゃって、新しい趣味ができたけどさ」と。伴成さんは、あくまで明るい。


「……でも、一番辛かったのは。原隊に帰る前――まだ残ってるみんなの戦闘服にね、こっそりアイロンをかけてくんだけど。

 ほんと、悔しいなぁって。なんで私、諦めちゃったんだろって……なんだか、泣けてきちゃうのよね。

 私の場合、自衛隊に入った理由も……まだ中学生だった頃、津波で被災したときに助けに来てくれた自衛隊の人に憧れてでね。

 ――今思うと、その人もレンジャーだったのよね。助けられるときに、ダイヤモンドの徽章が印象的でさ」


 「あのダイヤの人みたいになりたいって思って――自衛隊に入ったのにな、って。そう、思い出しちゃって」と。

 どこか遠い目で、伴成さんが呟く。


 あたしは――その間、なにも言えなくて。

 ただ聞きながら、背中を丸くしてアイロンをかける伴成さんが。泣きながらアイロンをかける伴成さんが、頭に浮かんで。


 伴成さんは、レンジャー訓練の適性検査に受かるくらいで。かなりの身体能力の持ち主で。

 つまりは――そんな伴成さんがギブアップするくらいのモノが、レンジャー訓練で。それに、あたしはこれから参加するつもりなんだ。


「……あたし……」

「あ、ごめんね。小牧ちゃんが不安になることなんて、ぜんぜんないんだからね。私は私で――小牧ちゃんは、小牧ちゃん」

 慌てたように、伴成さんが笑って言う。


「私が心折れちゃった一番の理由はね、いちいち他の学生と自分を比べちゃったからなのよね。

 だからね。小牧ちゃんは、余計なこと考えないでさ。自分の力を信じて、とにかく目の前のことをやってくこと。ほんと……それくらいしかアドバイスらしいことも言えなくて、申し訳ないんだけど」

「いえっ! そんな……ッ」


 「あのっ」と、あたしはピッとその場で敬礼をした。

「あたし、頑張ります……ッ!」


 そんなあたしに、伴成さんはフッと笑い。


「声、おっき過ぎ。職場じゃないんだから、止めてってば。あと、頑張るのもあたりまえ」

 言いながら、あたしの頭にチョップをした伴成さんは、その手でそのまま、あたしの頭をくしゃりと撫でた。


「大丈夫。小牧ちゃんは、きっとやれる。応援してるよ」

「……っはい!」


 「まぁ、まずは本番の適性検査に合格しないとね」と、伴成さんがいたずらっぽく付け加える。


「は、はい……」

「さ。お喋りはこれくらいにして。ほら、また挑戦しておいで!」

 軽く背中を押されたあたしは、慌ててシューズをはき直して、壁の前に立った。


 まずはイメージする。どうやって、この課題を攻略していくか。一つずつホールドに手をかけていく自分を、その動きを、イメージする。


 チョークを指先にまぶして、スタートに手をかける。足をスタートから別のホールドに動かして、身体を支えやすい位置を探る。そして、次のホールドをつかんで、体重を移動させる。

 二手、三手と動いて。次は何度も落ちた場所だと思うと、身体にグッと力が入った。


「――小牧ちゃん、ガンバっ!」


 下から不意に聞こえてきた励ましに、あたしはフッと余計な力が抜けるのを感じた。ちらっと足回りのホールドに視線をやって。今まで挑戦していたときと同じホールドに、でも今度は爪先だけで、探るように乗ってみる。


 爪先にぐんと力が入って、狭いホールドの上でも身体が支えやすくなる。まるでピースがカチリとハマったみたいに、あたしの手は簡単に次のホールドをつかんだ。


「やった……!」

「そこから、そこから! あとちょっと!」


 そうだ、ここがゴールじゃない。ゴールのホールドは、あともう一歩先、壁のてっぺんについていて。大きくてつかみやすそうだけれど、男性より身体が小さいあたしには、少し勇気のいる距離だ。


 登っている壁が、岩場の景色と重なってみえる。きっと――訓練が始まっても、こういうことってあるんだろう。男女の分け隔てがない、レンジャーの世界では。伴成さんが、傷ついて帰ってきたみたいに。


 でも。そうだ、伴成さんは言っていた。あたしは、目の前のことをやってくしかないゆだ。――ただただ、自分を信じて。

 男の人ならとか、女だからなんて、目の前のやるべきことは、変わらないんだから。


「ガンバ! 小牧ちゃんならいけるっ」


 信じてくれる人の言葉が、励みになる。その励ましが、勇気と自信を奮いたたせてくれる。


 足をまた一歩先へ、動かして。あたしは思いきり、跳んだ。ゴールの印がついたホールドに、手を伸ばして。

 その、もっともっと先へ――翔んでいける。そんなことを、信じたりして。






ゴールおしまいですっ

 


 

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