8-2 パルチ訓練はガチなのです!
傾斜の厳しい山道を、ひたすら登り続け――何時間経っただろうか。
今回、あたしたちに与えられた状況は、山一つ越えた先にある道で、敵の物資補給トラックを
こうして、山道を行軍する辛さの一つは、水分が取れないことで。
背負っている四十キロくらいある背嚢には、ぎりっぎりまで満水になった水筒が括られている。けれど、それを飲むことは許されない。
なぜなら、中身が減った水筒が、動く度にぴちゃぴちゃと音を立てると、敵に見つかる恐れがあるからだ。
ちなみに――後ろを歩いているレンジャー瀬川は、今回の非常呼集がかかったときに慌てて準備をして、この「ぴったり満水」というのに少しだけ足りなかったらしい。
結果、「水」とでかでか書かれた二キロくらいある石を、荷物にプラスされてしまい、その時点でちょっと泣きそうな顔をしていた。
足首のケガは良くなったけれど、それでも重たい半長靴で歩き続ける足は痛いし、荷物が食い込む肩は痛い。
更に言うと、出発前の服装と荷物の検査のときに、当たり前のように課せられるペナルティのせいで、体力も削られた状態でのスタートとなるため、気力だけでこの山道を行かなければならない。
――なのに。
「おらっ、フラフラしてんじゃねぇぞレンジャー小牧! 転がり落ちるぞッ」
「レンジャーぁ……」
くったりした声で答えながらもあたしは――怒鳴る沖野助教の背負ったリュック(背嚢とは違ってたぶん、沖野助教の私物だ)にくくられている、ペットボトルに釘付けだった。
黒い液体がたっぷりと注がれた、赤いラベルの―
その視線に気づいているのかいないのか、沖野助教はやおら手を後ろに伸ばしてそれを取ると、キャップをくるりと回した。
プシュッという小気味良い音。それを、口にあてがい、くいっと持ち上げる。沖野助教の喉が、ぐっぐっと鳴って。シュワッとした爽やかな刺激と、甘い香りが口内を潤すその、感覚を。唾液すら出ないことも忘れて、あたしはまざまざと思い浮かべた。
「っぷはぁ――おい、レンジャー志鷹っ! ちゃんと前見て歩け前見てっ! てめぇがタラタラしてると他に迷惑だッ」
「……レンジャー」
真後ろからミズキの返事が聞こえるけれど、それはまるで地獄の底から聞こえてくるかのような、暗くて重い声だった。もっと言うと、今にも呪い殺そうとしているような、そんな殺意みなぎる声。
「つぶすつぶすつぶすつぶすつぶすつぶすつぶすつぶす……」
なんか怖い呟きまで聞こえてきたし。呪い以上に明確な意志を感じる。
――とは言え、ここにいる学生たちの気持ちはほとんどミズキと同じようだった。学生みんなの身体が干上がりそうなほどのこの状況で、よりによってコーラ。さすがに沖野助教、罪人過ぎる。ほとんど無言で歩いている隊列の空気が、一気に重く冷たくなった。
「なんだおまえら。いつも以上に覇気がねぇなぁ。そんなことでレンジャーの任務を遂行できると思ってんのかっ!?」
怒鳴る原助教の手にも、まるで当然のようにコーラが握られている。
「ぷち……ぷちっ、ぷちっ、ぷちぷち……」
聞こえてくるミズキの呟き声の、種類が変わった。これはもしかして……つぶしてる効果音っ? ミズキの妄想の中では、助教たちは小さい虫かなにかなのかなっ!?
――そんなひりひりした空気の中、ようやく中継地点に辿り着いて。「よしっ」と勢いよく声を上げたのは谷嶋教官だった。その手には、やっぱりコーラが握られていて。
みんなは最早、無表情だったけれど、少しでも刺激が加われば――例えば谷嶋教官がおもむろにそれを飲みだすとか――、この場でクーデターでも起こるんじゃないかというような、そんな切迫した空気の中。
「キミたちには、今からある試練を課すことにする」
真面目な顔で唐突に告げられ、張り詰めた空気は不意に乱れた。
「ある……試練?」
思わずあたしが呟くと、谷嶋教官は優雅に一つ、頷いた。
「そうだ。厳しく、険しい試練となる。
しかし、それさえ会得さえできれば――もし、キミたちが遠い異国の地で情報、あるいは物資を手に入れんとするとき。きっと、キミたちを救ってくれるだろう。
例えば――この場で、
谷嶋教官の言葉に、あたしたちはもう出しきったと思っていた唾を飲み込んだ。
谷嶋教官はフッとダンディな微笑みを浮かべると、
「そ……れはっ」
その姿を見て、あたしたちは絶句した。
見た目も渋めな年齢不詳イケおじである谷嶋教官の頭に
誰も、なにも言わない。不用意な発言をすれば、なにが起こるか分からない――まるで、地雷に片足をのせてしまったような心地だった。
「まさか……」
ハッとしたように、それまで険しい顔で考え込んでいた糸川三曹が呟いた。
「ライ……オン?」
「ふっ――ご明察だよ、レンジャー糸川」
不敵な笑みを浮かべるなり、谷嶋教官はまたリュックの中から、やたらとデカいサイコロを取り出した。
「レンジャーたる者、ときに情報や話術、芸ごとでさえも身を救う技となさねばならぬ。それこそが――パルチ訓練!」
「パルチ……訓練っ」
噂には聞いたことがある。レンジャー訓練中、助教らの暇つぶし――もとい、訓練の一環として、一発芸を披露することがあると。
「たかがパルチ訓練、されどパルチ訓練。我らは決して手を抜かないぞ。覚悟して望むように!」
この山道の中、そんなものを背負いながらやって来る谷嶋教官を見てれば、その全力っぷりはうかがえる。
「キミたちが勝利すれば、この
「そんな……もったいない!」
あたしたちは思わず、悲鳴じみた声をあげてしまった。
ハッハッハッと、例のバリトンボイスで、谷嶋教官が笑う。
「訓練のためとは言え、飲食物を無駄にする――こんな非情な行いを止めたければ、全力でかかってきなさいッ」
「っ、レンジャー!」
あたしたちは気合いと共に声を合わせ――。
かくして、「チキチキ! 功一谷嶋のごきげんサイコロトーク、イン・ザ・マウンテン」は、幕を開けたのだった。
※※※
「ってゆーか、ネタが古いのよネタが」
サイコロを振る順番を待ちながら、ミズキがぶつぶつと文句を言うのを、あたしは「まぁまぁ」となだめる。
「ナニガデルカナ? ナニガデルカナ?」と歌いながら投げられるサイコロには、その場で披露するお題が各面に書かれていて、先から学生らが無茶ぶりをされては地面を鮮血で赤く染めながら散っていっていた。
「助教ら二人のツボが違うっていうのが、キツいな……谷嶋教官に至っては、ずっとなんか微笑んでるし」
真面目な顔をして、糸川三曹がぶつぶつと分析するのを聞きながら、あたしもうーんと首を捻った。
「チキチキ! 功一谷嶋の(以下略)」のルールは、いたってシンプルだった。学生のネタが、審査員である谷嶋教官、沖野助教、原助教のうち二人に刺されば勝ち。
ちなみに、際どい下ネタが大好きなのが沖野助教、シュールな笑いがツボに入ってしまうのが原助教だった。谷嶋教官は、実質攻略不能みたいなもので、その左右を狙うのが堅実みたいだ。
「二人に刺されば良いんだったら……いっそ投げナイフでも披露してぶっ刺してやれば良いんじゃない?」
「レンジャー志鷹、それ刺さるの意味が違うから……」
据わった目をして賞品と審査員らを見つめるミズキを止めつつ、あたしは別の学生が腹芸をしているのを見た。賞品がかかっているため、みんな必死だ。
「刺さる……刺さるかぁ……」
ちなみに積み上がった死体たちの中には、うっかり「恋バナ」を引き当ててしまい撃沈したレンジャー瀬川もまざっている。
助教ら二人ともに、同時に刺さるような――。
「――次、レンジャー小牧っ」
名前を呼ばれ、ハッとして「レンジャー!」と返事をする。腹芸で敗れた仲間の死体を踏み越えて、教官らの前に立った。
段ボールでできたサイコロには、「泣ける話」、「恥ずかしかった話」、「特技披露」、「助教にムカついた話」など、さまざまなネタが書かれている。
「さぁ――振りたまえ、レンジャー小牧」
谷嶋教官に促され、あたしは乾ききった唇をなめた。なめたところで、舌も乾いているから
積み上げられた
「えいっ」
と、かけ声をかけ――あたしはほとんど勢いをつけずに、サイコロを地面に置いた。
「っでました! 《泣ける話》ですっ」
「出ましたって……おまえ」
呆れた口調で言う沖野助教を「まぁ、良いだろう」と制したのは、谷嶋教官だった。穏やかに――だが、不敵に笑いながら。その目が、あたしを射抜く。
「さぁ……レンジャー小牧は、どんな泣きバナをしてくれるのかな?」
風がさっと吹き抜け、木々がさわさわと鳴る。その場にいる全員の視線を痛いほど感じながら、あたしは深く息を吸って――口を開いた。
「あたしの姉は、今、二歳半になる甥っ子を育ててるんですけど。旦那さんが
まぁそれでも
それでも旦那さん、頑張ってお仕事して。ようやく帰ることができるってなったとき、甥っ子にたくさんお土産買って、わくわくしながら帰ったらしいんです。
そしてね。家について、玄関を開けたら――甥っ子が、『ぱぱーっ』て言いながら、すごくニコニコ走って迎えに来てくれたらしくて。旦那さんも嬉しくて、『ただいま』って言おうとしたら」
そこまで一気に言って――あたしは、拳をぐっと握った。前の二人を見据えて、もう一度口を開く。
「そしたら、甥っ子が、とっても嬉しそうに言ったらしいんです――『ぱぱ、いらっしゃい!』って」
しん――と、静まり返るその場で。谷嶋教官も、きょとんとした顔をしている。まるで――それだけ? とでも、言うように。
そう、たったこれだけの話。
だけれど――
「うぅ……ぅううううっ……ハナちゃぁぁんんん……っ」
「っ……辛すぎる……ッ」
目元を手のひらで覆って泣き出したのは、幼い子らの父親である、原助教と沖野助教だった。
それを見た谷嶋教官はまた首を傾げかけ――すぐにハッとすると、あたしに視線を戻してにやりとした。
「なるほど……現に今、家に幼子らを置いて出張中の二人の心理をついた、妙案とでも言うべきか――見事だ、レンジャー小牧」
頷き、立ち上がった谷嶋教官は、岩の上に置いた賞品を手に取り。あたしにそっと手渡した。
「この
「っレンジャー!」
あたしの返事と共に、死体と化していた学生たちもワッと歓声をあげる。
「やったぁぁぁあっ! 水分っ! 糖分ッ」
「待て! 平等にっ、平等に十六等分だっ」
「一口ずつ飲んで回せっ! 一口ずつっ」
「ぁああてめぇ今、一口以上飲んだだろっ!? 吐き出せっ」
「ちょっとあんたらいい加減にしなさいよっ!? こぼれるっ! こぼれるから大事に扱ってッ」
「ぅああああっハナちゃんんんんんっ! もうすぐ帰るからパパを忘れないでくれぇぇえッ」
「出産もハーフバースデーもそばにいられなかったけれど……お誕生日は……せめて初めてのお誕生日は一緒に……ッ」
ペットボトルを奪い合う学生らの騒ぎ声と、男泣きを続ける助教らの泣き声が響く山の中で――その後、再び歩き出したあたしたちは、思い知ることになるのだ。
このときはまだ随分と、余裕があったのだと。
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