第八話 この地獄は深いのです!

8-1 目にいれても痛くないのです!

 キリッとした目がこちらを見つめている。

 あたしたちはじっと耐えるようにと向き合い。じりっとした時の流れだけを、ただただ感じていた。


 ――第五想定。その、まっただなか。

 もう、何時間山道を歩いたかも分からないけれど。乾いて痛みを覚える口内に、視線の先に置かれたの存在はあまりにも――残酷過ぎた。


 一人、顔の回りにもじゃもじゃと束ねられた毛糸、そして頭には猫耳という姿のその人が、すっと手を掲げる。生い茂る木々の隙間から漏れる光が、まるでスポットライトのように彼を照らした。

 そして――高らかに宣言がなされる。


「チキチキ! 功一こういち谷嶋やじまのごきげんサイコロトーク、イン・ザ・マウンテン!」

 一拍置いて、周囲で助教たちのまばらな拍手が鳴る。


 あたしたちは、ぎしりとでも音を立てそうなくらい痛んだ身体をなんとか動かして――互いに、顔を見合わせた。

 塗りたぐったドーランから覗く、幾つもの目。そこには確かに、静かな炎が燃えていた。

 ――人の身に宿りし悪魔を、打ち倒すことを目指して。


※※※


「わぁっ、可愛いー!」

 思わずあたしの喉から黄色い歓声が上がった。


 よちよち歩く女の子は、左右に小さくくくった髪をぴよぴよ揺らしながら、あたしたちから隠れるように急いでそばの、大きな影に隠れた。


 そのが、「だろぉ?」と目元をたらして笑う。

 ふだん、あたしたちに怒鳴り散らしているときからは考えられない、その弛みまくった笑顔に、あたしたちは思わず顔を見合せた。


「原助教のお子さん、おいくつですかー?」

「まだ一歳半なんでちゅよねぇ、ハナちゃぁん?」

 の職場へ遊びに来た「ハナちゃん」は、あたしたちを大きな目でじっと見つめている。そのあどけない顔が可愛くて可愛くて、あたしは「はぁあ……」と深く溜め息をついた。


「すっごく警戒してる……可愛い……」

「あんたの可愛い基準、よく分かんないけど」

 じゃっかん冷めた口調で言うミズキに、「えーっ」とあたしは口を尖らせた。


「だってだって、得体の知れない見知らぬ人たちに囲まれて緊張してるのを、大好きなパパの足にしがみついてやりすごしてるんだよ? パパのことすっごい信頼してる感じじゃない? 可愛いオブ可愛いじゃない?」

「まぁ……そうね」


 原助教の前だからか、面と向かって否定はしないけれど、そもそもミズキは子どもに興味がないらしい。とてもあっさりした目で、ハナちゃんを見たあと、溜め息をつきながら――廊下の反対側でうじうじしている沖野助教を見た。


「沖野助教、なにやってるんですか。そんなとこで、スマホ手に持って……」

「おぉっ、レンジャー瀬川。しょ、しょうがないなぁ、そんな気になるってなら、特別に……いや、別に見せたいわけじゃないんだけどなぁ。瀬川が気になるなら仕方ないよなぁ」

「レンジャー瀬川、近づかない方が良いわよ。原助教に対抗して、息子の写真めっちゃ見せてくるから」

 ぼそっと忠告するミズキに、あたしは「えーっ」と声を上げた。

「すごい可愛かったじゃん。あのお昼寝アートとか」

「別に良いけど……見せられてもねぇ……」


 あたしとミズキがこそこそ話していると。

「うるせぇぇえッ!」

 スマホを握りしめながら、沖野助教が突然怒鳴った。


「息子のハーフバースデーに浮かれて写真見せてなにが悪いっ!

 俺だってなぁ! こんなむさ苦しい野郎共に囲まれてないで、息子のハーフバースデーくらい家で嫁さんが一生懸命作ってくれる料理を囲みたいよっ! てめぇらの成長を虫に刺されながら山で見守るより、息子の初めての寝返りをその場で見守りたかったよッ!!」

「ちょ、すみませんでしたっ! わたしが悪かったですからっ、分かりましたからッ! ペナルティで腕立てでもなんでもしますからマジ泣き止めてくださいッ」

「沖野助教……」


 哀愁さえ感じさせる慟哭どうこくに、あたしはしみじみと同情した。原助教がうんうん頷く。

「分かるなぁ……俺も訓練とかで家を一週間くらい空けると、帰ってきたときに顔見た途端、人見知りで泣かれたりしたし」

「人見知りも成長のあかしって言いますけど。小さいうちは、ほんと短い期間で成長目覚ましいですから。いろいろ切ないですよねー」

「……なんかおまえ、買い出し行ったときも思ったけど、子供に慣れてるってか、子供好きだよなー」

 レンジャー瀬川の言葉に、あたしは「うん」と頷く。


「ちょうど、ハナちゃんくらいのおいっこがいるからね。可愛いよね甥っこって。なんでも買ってあげたくなるんだけど、それやるとお姉ちゃんに怒られるんだよねー」

「そういうもんなんか……?」


 まったくピンときてない顔で首を傾げるレンジャー瀬川に、なおもあたしが言いつのろうとしたその時。


「ところで……あの、なんのご用でいらっしゃったんすか?」

 近づいてきた糸川三曹の言葉に、原助教は「あぁ、忘れてた」と頷いて、あたしたちの部屋を見回した。室内では、昼食前でお腹をすかせた学生たちが、時間を気にしつつそわそわとしている。


「全員いるな。よし――こっちおいでーハナちゃん」

 原助教はそう言ってハナちゃんを抱き上げると、自分の首にかけたものをハナちゃんに手渡した。


「ハナちゃん。これ、思いきりふーってしてちょうだい? そう、そう」

 言われて、ハナちゃんは満面の笑顔で。ピピピーッ! と大きな音が、部屋中に響き渡る。


「ハナちゃん、よくできまちたねー。――ハイてめぇら非常呼集だッ! Rファイブで教所に集合っ! 良いなッ!?」

「れ、レンジャーっ!」

 完全に油断していたあたしたちは、がらりと切り替わった原助教の怒鳴り声を聞いて、わたわたと自分の荷物と着替えを取りに室内を走り始めた。


 「さ、ハナちゃんはママのところに戻りましょうねー。あ、泣かない泣かない、パパおっかなくないでちゅからねー」と言う、原助教の猫なで声を背中に聞きながら。


 想定訓練の中でも険しさを増すと言われる第五想定は、こうして始まったのだった。

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