第七話 新しい地獄の幕開けです!

7-1 非情にして非常、再びなのです!

 それは、風呂と夕飯の準備をしているときに起きた。

 ピッ! という笛の音と共に、「非常呼集!」と沖野助教が怒鳴りながら部屋へ入ってきた。


「急げッ! たらたらしてんじゃねぇぞっ」

 急かされながら、ジャージから戦闘服に着替え、風呂の準備を重たい背嚢に持ち変える。

 すでに日中の訓練でくたくたな身体を引きずって、あたしたちは指定された、外の集合場所へと集まった。


「総員十七名、事故欠員なし。健康状態――異常なし!」

 報告する糸川三曹が、ちらりとあたしを見た気がした。


 先日の外出から、二日経って。あたしの右足はいくらか腫れ上がり、今もずくずくと疼いている。

 でも、助教たちに言うわけにはいかない。ケガをしたなんて――しかも、訓練中でなく外出先でしたなんて知られたら。下手したら、原隊に戻されてしまうかもしれない。


 幸い、手当て自体は自分でできるから、医務室に行かなくてもなんとかなった。あとは訓練中、助教たちの前で普通に過ごせれば――それは、途方もなく気持ちがすり減るような心地がしたけれど、それでもなんとかこの二日間は、やり過ごすことができていた。


 服装と荷物のチェックが始まり、粗を探されてはペナルティが増えていく。


「てめぇら全然ダメじゃねぇかよっ! 腕立ての姿勢とれ!」

「一、二!」

 手と足で身体を支えようとすると、足首が否応なしに痛んだ。反射的にそれを支えようとすると、「レンジャー小牧っ! なにフラフラしてんだよふざけてんのかッ」と罵声が飛んでくる。


「レンジャーっ」

「腕曲げてそのままキープしろっ! おらっ、レンジャー瀬川、もっと沈めッ! アゴがたけぇんだよアゴがぁっ」


 一回一回をゆっくりと、何度なく繰り返される終わりのみえない腕立てに。すでに疲れきっているあたしたちの空気が、どんよりと重たくなっていく。

 身体を支えきれなくなって、地面に身体をつけてしまう学生が出ると、「もうできねぇのかっ!? 原隊に戻っちまえよッ」とまた怒鳴り声。


「おい、おまえらっ! レンジャー佐山はもう原隊に戻るみてぇだぞっ? それで良いなっ!?」

「っ、頑張れ! レンジャー佐山っ」

「頑張れっ」

 助教の言葉に、みんなが腕立てをキープしたまま、励ましの言葉を投げかける。

 あたしたちだって、余裕はない。けれど、辛いときこそ、みんなで声をかけあわないと。

 それは綺麗ごとなんかじゃなくて。とにかくそうしなければ、本当に心がもたなそうだった。


「起きてレンジャー佐山っ! みんなで、頑張ろ……ッ」

 しぼるように声をあげて。あたしの位置から、レンジャー佐山の様子は見えないけれど、なんとか持ち直したのか――助教の号令が、再開する。

 ただただひたすら、気力だけで。あたしたちは、終らない腕立てを必死に続けた。


※※※


「――装備の中身は確認できたな。おまえら、背嚢をそこにならべろ」

 ようやく腕立てからも解放されて。

 沖野助教の言葉に、あたしたちはほとんどなにも考えることができず、言われた通りに、溜め池のほとりに背嚢をならべ置いた。


 それを。助教たちが無造作に、池の中へとどんどん投げ込んでいく。

 なにが起きているのか、さっぱり分からなくて。あたしたちは、ただただそれをぽかんと見つめ。すべての荷物を投げ終えたところで、沖野助教が「よし」と頷いた。


「全員、取ってこい」

「……レンジャー!」

 声だけは勇ましく全員で池に入り、荷物を引き揚げる。


 池は太ももくらいの水位で、たいして深くはないけれど、ズボンも半長靴もすっかりぐちょぐちょで、重たくなった。


「拾ったな。それじゃあ――全員、中に入っている予備に着替えろ」

 「今のままじゃ冷たいだろ?」という沖野助教の新たな指示に、あたしたちは顔を見合わせて「レンジャー」と答えた。あたしとミズキは、奥の茂みの向こうで着替えることが許され、移動する。


「……なるほど、防水チェックのためだったのね」

 ミズキが荷物を広げて、ぼそりと呟いた。じっとりと重たくなった背嚢の中には、密封式の袋に入れた予備の服と半長靴が入っていて、あたしはそっとそれを取り出した。


「あー……袋、破けてる……」

「昼間の訓練で破けてたのね。あたしのも。最悪」

 早口に小声で呟きながら、さっさとあたしたちは服を交換した。交換した服も半長靴もじっとりとしているため、冷たくて重いことに変わりはない。


 そしてじっとりとした背嚢を背負って戻ると、男子学生らの半分くらいも、やっぱりしっとりとした戦闘服を身につけているようだった。


 整列するとたちまち、助教らの怒号が飛ぶ。

「なんでてめぇら、予備が濡れてんだよッ! 着替えたんじゃねぇのかッ」

「レンジャー!」

「いざってときに、それでどうするつもりだよっ! 全員、屈み跳躍の姿勢とれぇッ」

「レンジャー……!」


 屈み跳躍――その単語に息が詰まりそうになりながらも、あたしは体勢を取った。

 抱えた小銃の重さも加わって、着地の度に右足がずくっと痛む。その痛みを庇おうとすると、バランスが崩れて今度は高さが出ない。


「レンジャー小牧、やる気あんのかっ!? そんなんじゃ数えられねぇよッ」

「レンジャーッ」


 痛いのを顔に出すわけにはいかなくて。かと言って痛いのがなくなるわけでもなくて。そもそも、足首だけじゃなくてもう全身ボロボロだしで、あたしは目にたまってきた涙を堪えるために、グッと奥歯を噛んだ。


 水分を含んで重たくなった戦闘服と半長靴が、跳び上がろうとする身体を地面に縫いつける。じっとりと冷たい感触と、そこに吹く夜風が、なけなしの体力を奪っていく。


 全身を酷使して。誰もがたぶん、手に持った小銃や、頭の重たい鉄帽を投げ捨ててやりたくなってきた頃。

 ようやく、あたしたちは解放されたのだった。


※※※


「しんどい……くらくらするー」

「ベッドに座ると、起き上がれなくなるから。さっさと片付けと準備やっちゃった方が良いわよ」


 部屋に戻ると、すでに消灯時間を過ぎていた。もちろん、誰もまだやるべきことが終わっていないので、それぞれヘッドライトや携帯用の懐中電灯などを使いながら、のろのろと荷物を整理する。テキパキさっさとやれれば良いのだけど、そんな体力も気力も残っていなかった。


 ずくんずくんと痛む足をなだめて、あたしものたのた準備をする。綺麗な戦闘服は、ロッカーにしまってあった一着だけ。それを、破けていない予備の袋に入れ直して、しめった戦闘服はハンガーに干す。なんとか明日の朝までに、乾けばいいのだけれど。


 みんな静かで、たまに溜め息や、うなるような声だけが聞こえてくる。結局、やるべきことが終わったときには、夜中の十二時を過ぎていて。

 あたしたちは、泥のようにベッドで眠り込んだ。


 ――そして。


 ピッ! という笛の音が再びしたとき、あたしはまだ、夢を見ているのかと思ったのだけれど。


「非常呼集! 全員、ただちに集合せよっ」


 「さっさと起きろてめぇらッ!」という怒鳴り声に、あたしたちはビクリと身体を震わせて飛び起きた。


 カーテンから覗く窓の外は、まだ真っ暗闇で。腕時計を確認すると、まだ夜中の二時だということに、絶望に似た気持ちがわき起こる。


 部屋の電気がつき、頭も身体も働き始めないまま、みんな一斉に着替え始めた。案の定、まだ乾いていない服がしっとりと冷たい。


「集合は教所だ! てめぇらトロトロしてんじゃねぇよ急げッ」


 パーテーションの向こうから聞こえてくる、いつもと違う集合場所に。あたしとミズキは一瞬だけ、顔を見合わせた。


 「地獄」と呼ばれる、レンジャー訓練における、後半戦。

 ――いよいよ、その第一想定が始まろうとしていた。

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