5-2 ボートレース白鳥の湖杯開催なのです!

 駐屯地から二十分ほど車で行った先にある、だだ広いダムの前に、学生全員が整列する。

 水路潜入を担当する谷嶋やじま教官がみんなの前に立ったとき。学生らの間に、確かに動揺が走った。もしかしたら念願の、心が一つになった瞬間だったのかもしれない。


「今から水路潜入の、総合演習を行う」

 そう重々しく告げた谷嶋教官は、白いシャツにピッタリとした白いタイツ。そして、股間からはいかにも手作りっぽい白鳥スワンの顔がのびていた。


 苦しい。笑えれば楽なのだけれど、レンジャー学生は感情を表に出してはいけないと決められている。今も、助教たちが回りで鬼の目を光らせている。もし、笑ったりしたらペナルティだ。

 そもそも、ちょっと突飛とっぴ過ぎて、素でも笑うタイミングを逃してしまった。谷嶋教官がせめて自分の格好に言及してくれれば、まだそこがツッコミどころになるのに、それさえも許されないこの感じ。いたたまれない。もはや針のむしろでしかない。苦しい。


「総合演習は、班対抗の競争形式とする。いかに素早く、この湖を一周できるかを競う」

 「湖……?」と、隣にいるミズキが、ぼそりと呟くのが小さく聞こえた。ここはただのダムなのに、鬼の教官がそんな間違えをするはずがない。今朝からの疲れもあって、説明をやや上の空で聞き流していたら、ふと、答えがおりてきた。

 あぁ――白鳥の湖、って言いたいのか。

 また一つ、ツッコむタイミングを逃してしまった。


「――キミたちが気にしていることは、よく分かっている」

 ようやく、谷嶋教官が頷きながら言った。その場に、少しホッとした空気が流れる。ようやく、このいたたまれなさから解放される。

 こほん、と一つ咳払いをした谷嶋教官は、重々しく述べた。

「この演習――実は、昼食に付くがかかっている」

「ボーナス……っ?」

 「そっちの話!?」と心の中でツッコむことも忘れ、あたしは思わず呟いた。


 なにせ、あたしたちは今朝なにも食べずに、延々と身体を動かし続けているのだから、当然お腹と背中がもうぺったんこなわけで。更に言えば、飲み物もほとんど飲めずに喉もカラカラなのだ。そこに「食事にボーナスが付く」だなんて言われたら、そんなのはもう教官の奇行なんてどうでも良くなるくらいえらいこっちゃなのだ。

 一体、なにを食べられるのだろうか。もしかしたら、飲み物をつけてくれるということかもしれない。そうなると、もはや死活問題だ。

「反対に、最後のチームにはペナルティがある。心してかかるように」

「――レンジャー!」


 かくして。あたしたちは、もはや谷嶋教官の格好などどうでもよくなり、また一つ心を合わせたのだった。


※※※


『五、四、三、二……行けッ』

 少し離れた場所でモーターボートに乗った沖野助教が、拡声器で合図をする。

 ゴムボートに乗り込んだあたしたちは、一斉にオールを動かし始めた。


 現在、残っている学生は十八人。それが三チームに分けられている。ということは、ボーナスをもらえる確率は三分の一、ペナルティを与えられる確率も三分の一。


 あたしたちのボートは、プールでの練習のときのように、あたしとミズキ、それから糸川三曹と小塚さん。そして加えて、レンジャー瀬川も乗っている。


 オールは水中に深く入れず、浅くぐ。そしてスピードを出すにはみんなの息をそろえることが必要で。

「レーンジャっ! レーンジャッ」

 声をかけながら、オールを動かす。オールの動きが一つになって、ボートは波のない水面をぐんっと進んでいく。プールでの練習のときとは違う、そのさまが。あたしは、嬉しくて嬉しくて――ただひたすらに、オールを動かす。


 だからって、他のボートだって負けてない。みんな、このあとの食事がかかってるとなれば、どこまでも真剣だ。気持ちを合わせて、ボートを進ませていく。


 三そうのボートが、ほとんど横並びになった。

 喉どころか口中がカラカラで、酷使しきった身体全体が悲鳴を上げているけれど。それでも、あたしたちはひたすらに、ひたすらに腕を動かし続け――。


 一艘のボートが、ぐんっと前に出た。レンジャー小野田たちのグループだ。まずい。あたしたちも、漕ぎ手を懸命に動かす。


 レンジャー小野田らが岸につくのとほとんど同時に、あたしたちのボートと、もう一艘のボートもまた、岸についた。でも勝負はまだ終らない。助教らに示されたゴールは、そこから陸に上がって百メートル走った先だった。そこに、全員そろって先にゴールしたチームの勝ちだ。


 ボートを跳び降り、バシャバシャと水面を蹴って岸に移る。水を含んで重くなった半長靴とズボンを懸命に持ち上げて、最後の力をふりしぼる。


 レンジャー小野田らが、十メートルくらい先を行く。それにすがるように、あたしたちも必死に駆ける。後ろからは、追い上げてくる足音が重く響いてくる。


 ゴールが見える。後ろから「おまえらもっと行けぇぇえっ」と拡声器の声が飛んでくる。あたしたちは、走って、走って。百メートルってこんなに長かったかと思うくらいに、走って。前との距離が、少しずつ詰まってきて。


 不意に。

 ゴールに、白い影が現れるのが見えた。

 白鳥――すっかり、存在を忘れていた白鳥が。ゆったりとゴールのど真ん中に歩いてきたかと思うと。バッと両をひろげた。


「おまえらっ! 俺の腕に飛び込んで来いッ」

 やたらと綺麗なバリトンボイスが、ダム一体に響き渡る。


 ――真っ正面からその声を浴びたレンジャー小野田が、目の前で転んだ。

 これは――あたしと、ミズキと、糸川三曹と、小塚さんと。それからレンジャー瀬川は自然と顔を見合せ。そして、叫んだ。

「レンジャーッ!!」

 あたしたちは叫ぶと、いっそう足に力を込めて。谷嶋教官に、文字どおり飛び込んだのだった。

 

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