桶のはなし
灰崎千尋
●
風が吹いた。
「桶屋が儲かるわね」
女が言った。
「桶屋なんてもういないよ」
男が言った。
二人は、駅のホームに立っていた。
「そういえば風と桶ってどう関係するんだっけ」
「さぁ、どうだったかしら」
二人の前に電車が入ってきた。ぱらぱらと人が降り、ひっそりと人が乗った。電車は去って行った。二人は乗らなかった。
「雨みたいね」
「え、なんで?」
二人は地下鉄の駅にいた。空はかけらもなく、灰色の天井が続いていた。
「電車の中の人が傘もってた」
「濡れてた?」
「うん」
「俺、傘もってきてないや」
「私はもってる。でも入れてあげない」
「……うん」
男はそれきり黙った。女も黙って、白線をヒールでたどりはじめた。男はそれを見ていた。
風が吹いた。
二人の後ろを、速度をゆるめることなく電車が過ぎていった。女のワンピースが宙に浮かんだ。女はそれをやんわりとおさえた。髪は吹かれるままに流れ、隠れていた女の耳が露わになった。
風が止んだ。
「マリリン・モンローみたいだった?」
女が笑った。
「……ちょっと胸が足りないかな」
「ばか」
女は口を尖らせた。男が笑った。
「地下鉄もこの辺は快速なんだな」
「この駅、使う人そんなに多くないから」
女は乱れた髪を手ぐしでなおした。
「やっぱり、家まで送るよ」
「だめ。次が終電でしょ?それに」
女は一度だけゆっくりとまばたいた。
「私たち別れたんだもの」
女は男を見据えた。男はしばらくその視線を受け止めていたが、やがて顔をそむけた。
女が微笑んだ。
「傘、かしてあげる。私んちここから近いし」
「いや、いいよそんな」
「大丈夫。ここは降ってない気がする。そしてあなたは降られそうな気がする」
「気がする、ってお前─」
「いいから」
女は取り出した折り畳み傘を、男の胸に押しつけた。
「花柄だけどね」
男がひるんだ。女は声をあげて笑った。
「次会うときに返して」
風が吹いた。
女は向かってくる電車の光に目を細めた。
「風が吹くとね、目に砂が入ったり、眼球が乾いたり、さよならを言わなきゃいけなかったりして涙が出るでしょう、それを溜める桶がいるのよ」
二人の前に電車が入ってきた。人はほとんど降りなかった。男はひっそりと乗った。
「さよなら」
「うん」
電車が去っていった。
女は電車の吸い込まれていったトンネルをしばらく見つめていた。
やがて、駅にヒールの音が響き、そして消えていった。
桶のはなし 灰崎千尋 @chat_gris
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