桶のはなし

灰崎千尋

 風が吹いた。


「桶屋が儲かるわね」


 女が言った。


「桶屋なんてもういないよ」


 男が言った。


 二人は、駅のホームに立っていた。


「そういえば風と桶ってどう関係するんだっけ」


「さぁ、どうだったかしら」


 二人の前に電車が入ってきた。ぱらぱらと人が降り、ひっそりと人が乗った。電車は去って行った。二人は乗らなかった。


「雨みたいね」


「え、なんで?」


 二人は地下鉄の駅にいた。空はかけらもなく、灰色の天井が続いていた。


「電車の中の人が傘もってた」


「濡れてた?」


「うん」


「俺、傘もってきてないや」


「私はもってる。でも入れてあげない」


「……うん」


 男はそれきり黙った。女も黙って、白線をヒールでたどりはじめた。男はそれを見ていた。


 風が吹いた。


 二人の後ろを、速度をゆるめることなく電車が過ぎていった。女のワンピースが宙に浮かんだ。女はそれをやんわりとおさえた。髪は吹かれるままに流れ、隠れていた女の耳が露わになった。


 風が止んだ。


「マリリン・モンローみたいだった?」


 女が笑った。


「……ちょっと胸が足りないかな」


「ばか」


 女は口を尖らせた。男が笑った。


「地下鉄もこの辺は快速なんだな」


「この駅、使う人そんなに多くないから」


 女は乱れた髪を手ぐしでなおした。


「やっぱり、家まで送るよ」


「だめ。次が終電でしょ?それに」


 女は一度だけゆっくりとまばたいた。


「私たち別れたんだもの」


 女は男を見据えた。男はしばらくその視線を受け止めていたが、やがて顔をそむけた。


 女が微笑んだ。


「傘、かしてあげる。私んちここから近いし」


「いや、いいよそんな」


「大丈夫。ここは降ってない気がする。そしてあなたは降られそうな気がする」


「気がする、ってお前─」


「いいから」


 女は取り出した折り畳み傘を、男の胸に押しつけた。


「花柄だけどね」


 男がひるんだ。女は声をあげて笑った。


「次会うときに返して」


 風が吹いた。


 女は向かってくる電車の光に目を細めた。


「風が吹くとね、目に砂が入ったり、眼球が乾いたり、さよならを言わなきゃいけなかったりして涙が出るでしょう、それを溜める桶がいるのよ」


 二人の前に電車が入ってきた。人はほとんど降りなかった。男はひっそりと乗った。


「さよなら」


「うん」


 電車が去っていった。


 女は電車の吸い込まれていったトンネルをしばらく見つめていた。


 やがて、駅にヒールの音が響き、そして消えていった。

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