白鬼伝

いま、ひとたびの。~桔梗ノ夢~

なれに名を与えよう”


 其れは、美しい人だった。白く。透明で。

 あたしを見て、静かに微笑んだ。

 桐一葉きりひとは。――“滅びの予兆”――

 それが、あの人があたしに名付けた名だった。

 見上げるその眼前にただ広がるのは、黎明よあけの空。

 其れは、泣きたくなるほどにふかく。記憶の波間に漂う、あの人の横顔を思い出させた。


“名はな、不吉なら不吉なほど良い。名が、汝を守り、汝の身に降る千辛万苦、全て引き受けてくれようぞ、桐一葉”


 腕が、脚が。身体が、重い。頬を打ち、手足を撫ぜる水の冷たさに凍えて。喉を震わせ、そっと、息を吐く。渇者が水を乞うのに似た、焦がれるような思いに突き動かされ、腕を伸ばす。が、力なく落ちて水が跳ねた。

 冷気が、緩慢に忍び寄る。思った以上に呆気ない。

 ――最期というものは。


 まるで他人事のように、淡々とそれを受け止めている自分がいた。

 甘い香りに眠気を誘われ、目を閉じる。先程から視界の端に見える、何とは知れぬ、紅い花の香だろうか。

 静かだ。悪くはない。このまま此処で、息絶え、人知れず朽ちていくのだろう。朽ちゆく我がむくろをも苗床にして、この花は咲き続けるのだろう。


 願わくは、その花の香が、千年を生きる、あの人の元に届けば、いい。


 ――ああ、なれど。それすらも叶えられようか。


 我が身もまた、人ならぬ鬼なれば。


 * * *


「――帰りてえのか」


 監視役の男はぽつり、言った。己に訊いているのだと、ややあって理解する。光も差さぬ牢の様な室の中、――事実、牢なのだろう――声ばかりが響いた。四肢に施された呪の為に、太陽の下では、歩く事すら儘ならぬ。然りとて、監視など無駄、と言ったところで、どうもなりはしない。だから、放っておくだけだ。普段なら無視した。

 だが、この時は何となく、だれかと無性に話したいような気分だった。


「……帰る? あたしに帰る所なんざ、ありゃあしない。帰りたいのは、あんただろ。あんた、子供がきがいるって言ってたじゃないかえ」

「もう何年どえってねぇんだ。親父の顔なんぞ知りゃあせんだろうて」


 いかにもわざとらしげに笑いながら、言う。その声に滲む、切なげなその感情いろの名を、郷愁、と呼ぶのだと、あたしは知らなかった。


 都の防備の為、地方からやってきたのは、何もこの男一人ばかりではない。もしや己も、そうなのだろうか。そう思わないでもなかったが。然れどあたしに、男の様に恋い慕う「故郷さと」などありはしない。

 炎の揺らめき。気配があると、瞼を覆う布きれが外され、金の目が露わになる。怯えた様に身を竦ませる監視役の背後からまた別の男が現れる。男は、こちらへ向かって刀を投げ寄越し、「桐。――時間だ」と告げた。青磁せいじ、と呼ばれるその男が、あたしをここに閉じ込めた張本人。


「はい、な」


 立ち上がり、翻る衣には大輪の乱菊。それが、鎧を纏わぬ己が戦装束。

 夜の帳が、京を覆う。男達は松明を手に手に駆ける。あたしは一人、立ち並ぶ家家の屋根伝いに奔った。

 ――吶喊とっかん。一度くぐらば、戻れはせぬ。

 跋扈ばっこするは魑魅魍魎。肉叢ししむらを断てば、断たれるもまた道理。斬って屠れば、身に降るは、呪詛の雨嵐。構いはしない。

 “千愁”――その名の通り、一身に千のうれいを負う、あの人に比べれば。

 血潮に身を濡らし、ただの肉塊と化した鬼の残骸を、見下ろす。


「――二百六十九、」


 それは、これまでに己が屠った鬼の数。

 己を拾い、名を付け、育ててくれた千愁と、突然引き離されたあの日。訳も分からぬまま、ここに連れてこられた。散々暴れ、呪をかけられても一向に大人しくしないあたしに辟易しきった青磁は、「千の鬼を狩ったならば、解放する」と告げた。「都の守護者たる千愁の助けとなる」とも。


 あれから、十年になろうか。


 「あと、七百三十一」殺せば、あの人に会える。

 振り返ると、何かに躓いた。あの監視役の男だ。鬼の爪牙に切り裂かれたのだろう。既に事切れている。

 あたしも、いつかこうして無様に地に伏す時が来るのだろうか……。


“お主のその執着は、身をも滅ぼそう”


 曾て、あたしにそう告げたのは、誰だったか。

 それをなぜ、今、思い出すのか。


“桐一葉”


 柔らかに呼ぶ、その声を。もう一度、聴きたい。会いたい。それを、“執着”と呼ぶのなら、それで良い。仮令たとい、身を滅ぼすことになろうとも。

 

 記憶は年を経る毎に遠ざかる。

 幼き日の光と共に遠ざかる忘却の恐怖に、焦りは募る。

 逸る気持ちの儘に、日毎、夜毎、刀を揮い、血の雨を降らせた。――それなのに。


「千の鬼を狩るなどできるものか。あのような出来損ないに。強すぎる己が力と、狩った鬼の呪詛に当てられて、身心の朽ちるが先であろう」


 如何してだったろう。ある日、偶然耳にした青磁の言葉に、我を忘れた。

 気付けば、己もその場も尽く朱に染まっていた。濃い血臭が鼻を突く。常に呪に苛まれ、思うように動かなかったはずの身体が、動く。


「嗚呼、なんて、」


 簡単なこと。如何どうして今まで気付かなかっただろう……。


 * * *


 得も言われぬ甘い芳香に、男は足を止めた。急に足を止めた男にぶつかって、すぐ後ろを歩いていた少女が鼻を押さえてうめいた。


「――ああ、すまぬな」

「急に止まるのだもの!」


 男は苦笑して身を屈め、頬を膨らませる少女を宥めるように頭を撫でた。


御覧ごらん


 海の如くに広がる水面には、所狭しと真紅の大輪の花々が咲き乱れている。それは、夜明けの薄明かりの中で、いっそう鮮烈だ。

 その花に、一人の姿を思い出す。

 かつて、男の目の前で、”鬼”を、笑みすら浮かべて斬り捨てた、一人の女を。


「――ここに、鬼が眠っているんでしょう? だから、誰も懼れて近寄らぬと」


「……あれらは、鬼は鬼でも“白鬼びゃくき”と云うてな。一族の者は皆、雪白の髪と、金色の目を持っていた。その異貌と、恐ろしく恵まれた才知故、人に非ざる――“鬼”と称されたのよ。彼らは皆、その力でもって人々の暮らしを悪鬼亡霊どもから守っていた。中でも最も長命にして強大な力を持ち、数多の白鬼を従え、都の守護を務めていたのが、千愁と呼ばれた白鬼であったが。ここに眠るのも、その一族に産まれた最後の白鬼よ」

「最後? ……白鬼達は、どこへ行ったの? 居なくなってしまったの?」


 幼く純粋な声に、男は苦笑する。


「――さてな」


 桔梗色の空に未だぼんやりと浮かぶ月が、柔らかに光を投げかける。

 彼女は、焦がれ続けた男との再会を、果たし得ただろうか。


「お休み――桐一葉」





 ――あらさらむ このよのほかの おもひてに

   いまひとたひの あふこともかな――    和泉式部



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