▶︎▷ギムレット
月が静やかに雲の影に隠れ人々が帰路につく頃。
今宵もまた一日の終わりを迎える方もいらっしゃれば始まりを求める方も。
さて……本日の『Sun do Leon』は……
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深夜1時少し過ぎ。
カウンターの一番端の席には初老の紳士がひとり、ゆっくりとグラスを傾けている。
私が勤めだした頃から日曜日のこのくらいの時間にお越しになる方。
「もう一杯お作り致しましょうか?」
「ああ、頼もうか」
「かしこまりました」
彼が注文するのは決まってギムレットだ。
初めて注文を受けてからそれ以外のカクテルを彼に作ったことは一度もない。
「お待たせ致しました」
「ありがとう」
ジンにライムジュースのシンプルなカクテルだけど作り手によって味が大きく左右されるカクテルでもある。
彼は私の作るギムレットをいたく気に入ってくれておりバーテンダー冥利につきるとはこのことだろう。
「うん、千尋さんのギムレットは実に美味しい」
「ありがとうございます」
一口二口と味わうように杯を重ねる彼は何かを思い出したかのように店の奥のピアノに目を向ける。
「そういえば……千尋さんはピアノを弾くんだったかな」
「はい、嗜む程度ですが」
「そうか……」
店内にはオーナーの選曲による緩やかな音楽が流れおり深夜のこの時間にはステージ上には誰もおらずスポットの当たったピアノがひっそりと佇んでいる。
当のオーナーは席を外しており店内には私と西嶋氏の2人きり。
「ひとつ、リクエストをしてもよいだろうか?」
「はい、私でよろしければ」
彼は暫くグラスを傾け徐ろに口を開いた。
リクエストは数年前に急逝した日本人の女性ピアニストの楽曲だった。
優しくも儚い旋律が特徴的な彼女の楽曲はもちろん私もよく知っており、まだ十代だった頃その旋律に涙したことを思い出す。
そして……違う想い出もまた。
「では……僭越ながら」
ピアノに座り深く息を吸い込み静かに弾き始める。
私の技量では彼女程の旋律は望むべくもない、けれど心を込めて奏でる。
彼ひとりきりの観客の為に。
最後の一小節を弾き終わり私は鍵盤から静かに指を離しカウンターへと目を向け一礼する。
目を閉じて聴き入ってくれていた彼が静かに開いた瞳には僅かに涙が浮かんでいた。
「ありがとう」
「いえ……」
カウンターへと戻る私に彼は──西嶋氏は静かに語りだした。
「彼女は……私の妻なんだ」
「はい」
「驚かないのだな」
「はい、存じておりますので」
「そうか……私は、彼女にとって決していい夫ではなかっただろう。彼女にピアノがあった様に私は仕事仕事で家庭を顧みることはなかったんだ」
「はい」
「こんな早く逝ってしまうとは……思ってもみなかった……」
「…………」
「もっと彼女にしてやれることがあったはずなのに……」
「…………」
「最後まで私は彼女に何ひとつしてやれなかった」
グラスを握る手が震えカウンターにポツリと一粒落ちる。
ギムレット──カクテル言葉は『遠い人を想う』
肩を震わせる彼に私はかける言葉を見つけることは出来なかった、かけるべきでも無いと思った。
緩やかに時が過ぎ、2時を報せる柱時計の音が店内に響く。
「すまなかったね、忘れてくれ」
「はい」
「ふふふ、君は若い頃の彼女に似ている」
「ありがとうございます」
「そうやって気を遣ってくれるところがね」
寂しげな笑みを見せ「またお邪魔するよ」と扉をくぐる。
「ご来店ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
カランカランとベルが哀しげに鳴り扉が閉まる。
また来週も彼はあの席でギムレットを傾けるのだろう。
亡き妻を想い、かつていつも彼女が座っていたあの席で……
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本日のカクテル:ギムレット
レシピ:ジン、ライムジュース
テイスト:中辛〜辛口
ベース:ジン
手法:シェイク
グラス:カクテルグラス
アルコール度数:約30度
カクテル言葉:『遠い人を想う』
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